ホノルルマラソンのスタート地点に続々とランナーが集まって来た。

 スタートまで30分を知らせる英語のアナウンスが流される。

 僕は時計を確認した。せわしなく動くデジタルの数字が僕の心をざわつかせる。


 アラモアナ公園に待機していた集団がコースへ流れ始めると、ランナーとランナーのすき間が埋まって行き肩と肩とが触れ合うほどに接近する。

 弾けるような笑顔を浮かべる者、緊張感で顔が引きつっている者、会場の雰囲気に感極まってうっすらと涙を浮かべる者、ここに集まったランナーの数だけストーリーがあり、もうすぐその幕が開ける。

 しかし、彼女の姿はまだない。



 僕は帰国してからも、彼女と連絡を取り合っていた。

 僕の心には彼女の存在が深く刻み込まれていた。だから、あれっきりと言うわけにはいかなった。

 そして、彼女も僕からのアクションに応じてくれた。メッセージのやり取り、通話、ときにはスマホの画面を通じて向かい合った。


 彼女はサンセットの時間になると、海に沈む夕日をライブ動画で送ってくれた。

 僕は午後の勤務時間中に、それをこっそりと眺めて癒される。

 僕が仕事終わりにメッセージを送ると、彼女は夢の中にいるので読むのは朝になる。

 彼女が目覚めて返信してきた時に、僕は夢の中だ。

 日本とハワイの時間差は19時間あるが、それすらも楽しんだ。


 僕は、彼女の事をナツと呼び、彼女は僕の事をケンと呼んだ。

 最初のうちは、こうしたやり取りが、とても楽しかった。

 でも出会って3ヶ月、日本の各地で桜の花が咲き始め、街中を歩くカップルが目立つようになると、会いたいと思う気持ちが強くなる。

 ハワイでナツと過ごした3日間を思い出すと、ナツへの思いは募るばかりだった。

 ナツのそばにいたい、そばにいて気持ちを伝えたい。

 しかし僕には東京での生活があり、ナツにはハワイでの生活がある。

 会いたいのに会えないという環境が、心の中に居るナツの存在を大きく膨らませていった。


 梅雨明けのある日、僕はナツに日本へ移住する気はないのか聞いてみた。

 彼女は、ハワイを離れるつもりはない、ときっぱり言い切った。

 ナツの両親はともに日本人だが、ハワイで事業を興していた為、ナツはハワイで生まれた。子供の頃から、潮風を浴び、波と戯れ、自然の中を走り回っていたそうだ。ハワイで伸び伸びと育ったナツの身体にはハワイの空気が沁みこんでいる。ゆったりと流れる時間に身を委ねて、笑顔が溢れる毎日を過ごしてきたのだろう。


 しかし両親の都合により、小学校6年生の途中で日本に移住する。

 その後、高校卒業まで日本で暮らすが、卒業すると単身でハワイの大学へ進学した。ナツは日本で暮らした6年間がとても息苦しかったと言っていた。

 卒業後は、現地で知り合った友人の伝で、小さなツアー会社へ就職した。主に日本からの観光客をターゲットにした会社で、グループの貸切ツアーをメインにしている。10人乗りの大きなバンを運転して、お客さんの行きたいところや、オススメのところへ案内するのがナツの仕事だ。決して高い給料を貰っているわけではないが、お客さんの笑顔を見るのが大好きなのだそうだ。ナツは自分の仕事に誇りを持っている。


 ナツが日本に移住出来ないのなら、僕がハワイ行くというのは……

 考えなられない事ではなかったが、あり得ない選択肢だった。

 今のキャリアを捨ててハワイで生活する、それは選択肢として挙げてはいけない気がした。一緒に暮らすには、ナツを日本へ呼ぶという選択肢しかなかったのだ。


 僕はスマホの画面を通じてナツに告白した。

 ナツは僕の気持ちを受け入れてくれた。

 でも未来への道は重ならなかった。

 ナツが日本へ来るのを頑なに嫌がったからだ。


 そんなナツに僕は苛立った。僕の気持ちを受け入れてくれたのに日本へ来るのを嫌がる、それは僕の気持ちを受け入れた事にはならないのではないかと……


 ツアーガイドの仕事なら日本でも出来るし、日本で暮らしたほうが収入も安定する。僕はナツのために身を粉にして働く覚悟を持っている。ハワイへは遊びに行けば良い。そんな利己的な考えが、ナツを失望させてしまった。


 秋になると、僕とナツとのコミュニケーションがぎこちなくなり始め、僕たちの間にはすきま風が吹き始めた。


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