ずっと・・・ 君が暮らす南の島へ
T.KANEKO
1
アラモアナ公園前の大通りは、世界中から集まった大勢のランナーで埋め尽くされている。大きな歓声があちこちから湧きあがり、会場の雰囲気は頂点に達しようとしている。
アラモアナショッピングセンターに飾られている巨大なサンタクロース、僕は、その下で瀬川夏を待っていた。
周りには、集団でストレッチをする人、円陣を組んで気合を入れている人、レースの準備を黙々と進めている人などで騒然とした雰囲気が漂っている。
ホノルルマラソンのスタートまで1時間、僕の心にさざ波が立ち始めた。
瀬川夏との出会いは1年前のホノルルマラソンだった。
スタートの合図とともに豪快な花火が打ちあがり、ランナーの波が動き始める。
ランナーの視線は、夜空を彩る花火に釘付けで、足元を見ている者は少ない。
そのとき、僕はコース上で蹲っている女の人を発見した。
危ない! このままだと後ろから押し寄せてくる激流に飲み込まれてしまう……
そう思った僕は、彼女の手首を掴んで、沿道へ引っ張り出した。
それが瀬川夏だった。
日焼けした肌に、白いタンクトップ、ピンク色のショートパンツを履いた彼女はひと目では、日本人なのかどうか区別がつかなかったが、「ア、イ、タ、タ、タ……」という言葉を聞き、僕はほっとした。
彼女は、隣のランナーに足を踏まれて転んでしまったらしい。幸い大きな怪我は無く、ひざを少し擦りむいただけだった。
だから僕は、ポケットに忍ばせておいた絆創膏を渡してコースに復帰した。去り際に彼女の声が届いた。
「ありがとう、どこかでお会いしましょう……」
僕は、その言葉を聞き流す事無くしっかりと受け止めたつもりだったが、この時はまだ、彼女に対して特別な感情を抱いた訳ではない。
ホノルルマラソンと言う目の前に立ちはだかる壁が高過ぎて、彼女の美しさに気づく事ができなかったのだろう。
僕はスタートラインを超えて、42.195kmという途轍もなく長い道のりへ足を踏み出した。僕の心にあるのは、大きな不安、ただそれだけだった。
僕は都内のインテリアメーカーで営業職をしている。今年で入社して8年目、尊敬できる先輩の下で仕事を学び、それなりの実績を残してきたつもりだ。
先輩も僕の仕事ぶりをそれなりに評価してくれていたように思う。
しかしある日、酒の席で先輩は僕にこう言った。
「エダケン(江端健一からつけられたあだ名)、今のままだと言われた事しか出来ない人間になっちまうぞ…… お前、俺が会社を辞めたらどうする? 1人で道を切り開いて行けるか?」
この一言にドキッとした。
仕事人間という言葉より、俺が辞めても…… のところが胸に刺さった。
「若いんだから、もっと色んな事にチャレンジしろ! 仕事だけじゃなく色んな事にな……」
先輩が言いたかったのは、このまま言われた仕事をしているだけじゃ、そこそこの人生にしかならないから、色んな経験をしておけ、という事だった。
しかし、その先の話があまりにも飛躍していて、僕は理解に苦しんだ。
「俺と一緒にマラソンを走ろう! 世界で一番美しいといわれるホノルルマラソンだ! レースは半年後だから準備をしておけ!」
あまりの唐突な提案に、僕は唖然とした。
高校を卒業してからランニングなんて一度もした事がなかったし、フルマラソンなんて特別な人がやるものだと思っていた。だから、無理だと言ったんだ。
すると先輩は、やる前に出来ないと決め付けてしまう人生ほどつまらないものはない、と僕の考えをばっさりと切り捨てた。
先輩はホノルルマラソンの事を熱く語った。
先輩の話を詳しく聞いていたら、よく分からない高揚感と、根拠のない自信が生まれた。
さすがトップセールスマンのプレゼンテーションは違う。僕はすっかりその気になった。何よりも尊敬している先輩と一緒にハワイへ行けるという事が僕を奮い立たせた。
そんな経緯があって、僕はホノルルマラソンのスタートラインに着いたのだが……
しかし、ここに先輩の姿はない。
1週間ほど前、趣味にしているフットサルで足首を骨折してしまったからだ。
「先輩が行かないならば、僕も……」、そう思うのは当然で、キャンセルの手続きを取ろうとした。
しかし、先輩はそれを許してくれなかった。
「俺の分も楽しんでこい! 何か良い発見があるはずだ!」
斯くして、僕は一人でやって来た。
ホノルルマラソンは先輩の言う通り素晴らしいものだった。
暗がりの中、豪快な花火に送り出され、大声援が飛び交うダウンタウンを意気揚々と走り出し、クリスマスイルミネーションが輝くストリートを駆け抜ける。
ワイキキを抜け、暫く落ち着いたかと思いきや、今度は海から昇った朝日が、坂道を下る無数のランナーを照らし出す。
目に、じんわりと涙が浮かんだ。これまでの人生で、他人に応援されて何かをするという事があっただろうか……
少なくとも、社会人になってからは一度もない。応援が僕の背中を押してくれた。僕はこの大会に出場したことを誇りに思った。
しかし25kmを過ぎて、脚が動かなくなり始めると、誇りは後悔へと変わり、ここへ僕を送り込んだ先輩の事を恨み始めた。
「やっぱりやめておけば良かった……」
僕はレースを止める理由を頭の中で探った。どんな言い訳をすれば先輩を納得させられるのか、必死で考え始めた。
行けると思っていた気持ちが、無理だと気づくと、身体は敏感に反応し、30kmを過ぎたあたりで、僕の脚は完全に棒になった。ひざの関節が痛くて、曲がらなくなり、走る事はおろか普通に歩く事さえままならない。
僕はこのレースへ向けて、先輩と共にできる限りの練習を積んできた。
最初の頃は、3日に1度のランニングだったが、それが2日に1度になり、レースまで1ヶ月を切ると毎日走れるようになった。走る距離も最初は数キロで息切れしたが、気がつけば20キロくらいの距離は平気でこなせるようになった。
「半分走れれば、あとは気持ちでなんとかなる」
先輩はそう言った。しかし、なんともならない。
マラソンには30kmの壁がある、と何かの雑誌に書かれていたが、実際にその通りになった。
真っ青な空に、輝く青い海……
世界で一番美しいと言われるコースを、僕はゾンビのように歩いていた。
早くこの苦しみから解放されたい…… この苦しみが永遠に続くかのように感じされた。
瀬川夏と再会したのはハワイカイと呼ばれる絶景スポットだった。
リタイヤしようと思って救護所を探してトボトボと歩いていると、彼女が声を掛けてくれたのだ。
「あっ、スタート地点で助けてもらった……」
彼女の笑顔は輝いていた。
僕はこの時に魅せてくれた彼女の笑顔をずっと忘れない。
30kmも走ってきたなんて到底思えない程、彼女の足取りは軽やかで、爽やかな笑顔を振り撒いていた。
あっさりと抜かれた僕は、遠ざかる彼女の背中を羨ましげに見つめていた。
すると、彼女は突然振り返った。
スピードを落として、歩いていた僕のペースに合わせようとしているのだ。
ノロノロ歩きの僕は、先に行くよう促したが、彼女は僕を置いていかなかった。
「ホノルルマラソンはタイムよりもゴールする事が大切なの。完走すればみんな勝者として讃えられるのよ! 一緒に行きましょう」
彼女は僕を励ましてくれた。
「ゆっくりでも前に進んでいれば必ずゴールできるから、ゴールの瞬間を思い描いて頑張りましょう!」
彼女の言葉が身に染みた。
置き去りにしたら僕がリタイヤしてしまうかも、と彼女は思ったのかもしれない。
僕たちは、お互いの事を話しながら走った、いや殆ど歩いていた。
お互いの名前、住んでいる所、職業、滞在予定、ホノルルマラソンの出場回数、挙げたらキリがない。初めて会ったばかりなのに、会話は、思いのほか弾んだ。
彼女は、ホノルル在住で、ツアーガイドの仕事をしていて、ホノルルマラソンはこれが3回目である事を知る。年齢は僕よりも3つ年下だった。
彼女と共に歩いた残りの12kmは、痛みを抱えながらも、楽しい時間だった。
彼女と話をする事で僕の痛みは和らいでいき、ゆっくりとなら走れる程度に回復していった。彼女はマラソンにおける30kmの壁を取り払ってくれたのだ。
フィニッシュゲートをくぐる時、何の躊躇もなく僕の手を握る彼女、僕たちは手を繋いでバンザイをしてゴールラインを超えた。
ゴールした彼女は満面の笑みを浮かべて、僕をハグした。
僕の鼓動は、走っているときよりもドキドキしていたと思う。
「フルマラソンを一緒に走ったら、10年間お付き合いしているのと同じくらい親密になれるのよ……」
彼女の言葉に胸の高鳴りは、抑えようがなかった。
それから僕は現地に3日間滞在した。
マラソンが終わった日は、海辺のレストランで彼女と完走を称えあった。
意気投合した僕らは、一軒では納まらず、二軒目、三軒目と繰り出した。
お酒があまり強くない僕は限界に達していたのだが、彼女と一緒に居る時間を失いたく無かったので、どこまでも付きあった。
翌日、彼女は仕事だった。
僕は二日酔いで動けず、昼過ぎまでホテルで寝込み、午後から買い物に出掛けた。
会社へのお土産としてチョコレートを買い、彼女へのお礼に何かプレゼントがしたくて、ディオールのマキシマイザーを買った。
先輩から女性へのお土産はこれにしろ、という情報が吹き込まれていたので、それを信じてみたのだ。
夜になり、仕事が終わった彼女と合流し、マイタイバーでグラスを傾けた。
誰もが羨みそうなデートを、出会って二日目で実現した事になる。
その次の日は、マノアの滝へ連れて行ってもらった。
痛む足を引き擦りながら、僕は彼女に手を引かれ、木漏れ日が降り注ぐ神秘的なハイキングコースを歩いた。
男として情けない、という気持ちが無い訳ではなかったが、格好悪いところは散々見られている。濃密な二日間を過ごしてきた事で、彼女の前では素のままの自分でいられた。
夜はタンタラスの丘から二人で夜景を眺めた。
とても良い雰囲気になったので、彼女へプレゼントを渡した。
彼女はとても喜び、僕に抱きついて頬っぺたにキスをしてくれた。
彼女にとっては挨拶のようなものかもしれないが、僕の心臓は彼女に聞えてしまいそうなほど、ドキドキしていた。
その晩、彼女は僕の部屋で過ごした。
夜が開け、空が白み始めるまで、ずっと話し続けた。
出会って間もないのに、こんなに話す事があるのだろうか、と言うくらい僕たちは会話を楽しんだ。
僕は早朝の飛行機で帰国しなければならなかったので、帰り支度をしていたが、それを手伝いながら彼女は話をしてくれた。
ハワイでの生活を熱く語る彼女の声は、僕をハワイへ誘おうとしているようにも聞えた。
僕は彼女の自由奔放なところに魅了された。何よりも笑顔が素敵だった。二人で過ごした時間は夢の様だった。
空港へは彼女の車で送ってもらった。
別れが近づくと、なんだか感傷的な気分になり、寂しさがどっとこみ上げて来た。
ハイウェイから空港が見えてきたとき、僕はポツリと呟いた。
「帰るのがイヤになっちゃったな……」
すると彼女は真顔で言った。
「帰らなくてもいいんじゃない、そういう選択肢もありだと思うけどな……」
「そうしたいけど仕事があるから、これ以上は休めないんだ」
運転している彼女は、少し寂しそうに笑って、僕の手を握った。
「全てを放り出したらさぁ、新しいものが見えるかもよ……」
彼女は悪戯っぽく笑った。
彼女との微妙な関係を残したまま、僕はハワイを去った。
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