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アメリカの国歌斉唱が始まった。
胸に手を当てる者、空を見上げて口ずさむ者、奇声を発する者、会場は一段と熱気を帯びてくる。
ここへ向けて準備をしてきたランナーひとりひとりの思いが溢れ出している。
スタート時刻が間近に迫っている事を感じさせた。
しかし、ナツは現れない。そもそも、ここへ来るという保障など何もないのだ。
来ると信じているほうがおかしいのかもしれない……
街の街路樹が色づき、冬の訪れを間近に感じ始めた頃、僕とナツとのコミュニケーションは途絶えた。
ナツとの交際に限界を感じた僕は、先輩に相談した。
先輩は僕の顔をじっと見つめて、少し呆れたように言った。
「要はお前がどうしたいかだ……」、と。
仕事があるから……
会社を辞めるわけにはいかないから……
そんなものは、お前が作り出したハードルに過ぎない。本当に彼女の事を離したくないのなら、そんなものは簡単に越えられるはずだ。やると決めてしまえば、やり方なんていくらでも見つかる。でも出来ない理由を探し始めたら、その時点で終わりだ、先輩はそう言った。
僕は以前、ナツに言われた事を思い出した。
それは、僕がハワイで暮らしたいけど仕事があるからそうはいかない、と言ったときの事だ。
ハワイで暮らしたいのなら、こっちへ来て暮らしてみればいい。暮らしてみれば、大抵の事はなんとなる。どうしてもなんとかならなかったら、その時にどうするか考えればいいじゃない、とナツは言っていた。
先輩とナツの一致した考え方が、僕の心に響いた。
僕はナツの事を真剣に考えた。
ホノルルマラソンで出会い、ナツと同じ空気を吸って、同じ景色を見て、同じ達成感を味わって……
一緒に過ごした時間はこれまでの人生で最高に楽しかったし、ナツの笑顔を思い浮かべると、それだけで幸せな気持ちになる。
メッセージのやり取りやスマホの画面を通じて向き合った時は、離れていて寂しかったけれど、何故だか温かかい気がした。それは、ナツが心の中に居たからだ。
何の躊躇いも無く僕の手を握り、抱きつき、キスをするナツの存在は、簡単に断ち切れないほど大きくなり、僕の心に確かな居場所を作っている。
ナツは言った。ハワイでの生活は幸せに満ち溢れていると。
僕はどうだろう? 東京での生活は果たして幸せなのだろうか?
幸せではないけれど不幸でもない、この生活を手放したら、不幸になってしまうと思い込んでいるだけじゃないのか? このままだと、ナツへの思いが、過去の思い出に変わってしまう。
「ナツの事を愛していた」で終わらせていいのだろうか?
いや、駄目だ。
僕はナツのところへ行く事にした。
会社を辞めて、住んでいたマンションを引き払った。荷物をスーツケース一個にまとめて、成田空港へ向かった。会社を辞めて、荷物をたくさん捨てたら、気分がすっきりとしてきた。不思議な事に身軽になったら、どこへ行っても何をやっても何とかなりそうな気がした。
先輩へ報告すると、好きなようにやって来い、今のお前はいい顔してるぞ! と言われた。
ナツへは、メッセージを送った。ホノルルマラソンのスタート前、アラモアナSCのサンタの下で待っています、と。
既読になったのは、確認できたが、返事は無かった。もう1ヶ月以上、連絡を取っていないので、もしかしたら嫌われてしまったのかもしれない。
でも、その時はその時だ。
僕は自分の人生を掛けて、ナツのところへ行く。そう決めただけで、清々しい気分になっている。
12月、僕は成田発、ホノルル行きの飛行機に乗った。
機内は、ホノルルマラソンに出場するとみられる多くの乗客で満席だった。機内にいるだけで、大会の興奮が伝わってくるようだ。
でも、僕にとって今年のホノルルマラソンはサブイベントに過ぎない。愛する人に思いの丈を伝える。それがメインイベントなのだ。
プッシュバックでターミナルから離れた機体が滑走路へ向かってゆっくりと移動していくと、出発便のピークを迎えているせいか離陸待ちの機体が何機も連なっていた。
暫くして機内にアナウンスが流され、僕の乗った機体は滑走路を滑り出した。
ゆっくりと動き出した機体が一気に加速していく。背もたれから伝わってくる感触が僕の背中を強く押しているように感じられた。
僕は、前途多難な未来へ足を踏み出そうとしている。
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