第四章 黄昏の森①

 あの清浄な森での浄化を終えた夜から、ずっと雨が降り続いている。

 秋の終わり近くになると、この国ではこうした長雨が降るのだという。待っていても止むものではないからと、荷馬車は雨の中を強行で進んでいる。


「こんなにずっと降ってるの、この世界に来てから初めてだね。私の住んでた国にも、夏の前に梅雨って呼ばれる長々と雨が降るときがあるから、雨には慣れっこなんだけど」


 幌の隙間から外をながめて、芽衣は誰に言うともなしに言った。

 この荷馬車をくれた老神官の言葉ほどボロボロではないものの、たしかにくたびれているなと感じる。ぬかるんだ道を走っていると車輪が変な音をたてるし、幌の天井部分にはいくつか穴が空いているようでたまに雨漏りがする。今も、サイラスの額にぴちゃんと雫が垂れた。

 降り続ける雨を見ていると、この世界にやってくる前のことを思い出してしまう。

 あのときは、秋台風まっさかりの時期だった。天気予報では、秋雨前線と台風が連動してひどい雨を降らせているということだった。

 あれから五ヶ月くらい。時間の流れがこちらの世界と元の世界で同じなら、日本は今頃、すっかり冬になっている。


「サイラス、ちょっと座る場所をずれたら? さっきからすごく滴ってるよ」


 ぼーっとしているのか、サイラスは落ちてきた雫を拭おうともしていない。それが心配になって、芽衣は声をかけた。 


「このくらい平気です。御者をやっているナールのほうが大変ですから。そろそろ、どこかで休憩して交代しないと」


 サイラスは言われてようやく気がついたというように額を拭って、それから外を見た。

 雨足は強くはないが、そのせいで一生降り止まないのではないかという気がしてくる。 


「雨、いい加減に止んでほしいね」

「王都付近を走るのなら、むしろ雨でよかったですよ。このあたりは、とにかく埃(ほこり)っぽいので」

「そうなんだ」


 そういえば、雨が埃を含んだにおいをしていると感じていた。森の近くでは湿った緑の匂いがしていたのに、都市部に近づくにつれて埃くささが増してきている。


「何だか、王都って想像していたところとちがったな」 


 荷馬車は今、濡れた荒野のような場所を走っている。ポツポツと取り残されたように生える木々と、民家と思しき粗末な建物があるだけの場所を。


「おそらく、中心に行けばメイ様が頭に思い浮かべたような街ですよ。王都は、城を中心に貴族や富裕層の邸宅があり、その外側に整備された市場が、そのさらに外側ではその市場で商売をする町人たちの家々が……と、内から外に街が作られているんです。だから、その一番外側は最も貧しい者たちの掃き溜めなんですよ。きらびやかで美しい機能的な王都のために、いらないものや汚いものを押しつけられている場所です」


 サイラスは、あまり感情の乗っていない声でそう説明した。だが、よく思っていないのはあきらかだ。

 よく思っていなくても、サイラスはこの国の騎士で、何かあればこの国のために戦わなくてはならない。その苦々しさというものを、最近よくにじませるようになった。


「マータラムというこの国の名は、古い言葉で“偉大な土地”のいう意味なんです。……偉大という言葉の意味を考えてしまいますね」

「そうね……」


 アラインはまどろんでいるし、エイラは不機嫌そうに口を閉じている。話し相手になってくれるのはサイラスだけだが、何か他の楽しい話題を探さないと――。

 そんなことを考えていると、突然馬車が止まった。


「どうしたの?」

「今日休む場所が見つかりました。少し早いですが、休ませてくださいね」


 御者席に声をかければ、少し疲れた、それでも嬉しそうなナールの声が返ってくる。幌のあいだから外を見ると、角灯を手にした男性が、馬車を誘導しようと手招きしていた。


「こうして王都に来た馬車に声をかけて宿をやっているんですね。……しっかりしている」 


 サイラスが呆れているのか感心しているのかわからない口調で言うのを聞いて、芽衣はなるほどと思った。

 このボロボロの場所でも、人々はたくましく生きているのだ。



「旅の方、よくいらっしゃいました。どうぞどうぞ、中へ」


 男性の誘導で馬車を進ませると、そこには粗末な建物があった。ただ、手入れはされているようで、周囲の建物よりいくらかましなたたずまいだ。


「一、二、三……五名様で。じゃ、夕食と一泊でお代はこれだけ」


 芽衣たちが建物の中に入ると、宿の主人である男性は指を手のひらに指を一本添えて見せてきた。六、ということか。

 この国のお金の単位は芽衣にはわからないが、ナールが少し困った顔をしたのに気づいた。どうやら高いらしい。それでもサイラスは小さく首を振って、懐から出した袋から銀貨を六枚渡した。


「王都付近では、まあ適正価格と言えるでしょう」

「そうですよ。食事までつくんだ。良心的ですよ、うちは」


 不満そうにするエイラに小声でサイラスが伝えると、主人にも聞こえていたようで、愛想笑いを浮かべて言ってくる。

 民家に毛が生えた程度の設備なのだろうが、このあたりでほかに宿を探したところで同じようなものかもしれない。


「お客さんたち、王都に何の用事? 何か新しい商売でもやるの?」


 吹っかけた金額をそのまま値切ることなく払ったから懐があたたかいと判断したのか、主人はニヤニヤしたままそんなことを尋ねてくる。

 これは答え次第ではさらに何か吹っかけられるのか足元を見られるのか、芽衣は判断がつかず身構えた。


「聖森に行くんです」


 適当なことを言ってごまかすかと思ったのに、サイラスが何でもないことのように答えてしまった。

 予想していたことだが、それを聞いた主人は露骨に眉をしかめた。


「……あんなとこ、何しに行くっていうんだ。気味が悪いな」


 シアルマ教徒の典型的な反応なのか。主人は軽蔑と疑心が浮かぶ表情で、吐き捨てるように言う。

 嫌な感じだと思いつつも、結局案内されるまま部屋に通された。

 それからお湯をもらって濡れた身体を清めたり着替えたりしたあと、夕食をいただいたが、これもまた宿と同様に何とも言えない質だった。

 パンは何日前に焼いたかわからないような硬いもので、干し肉を焼いたものも硬く、そしてスープはほとんどお湯だったのだ。

 これなら、神殿で食べたあの食事のほうが美味しかったと気がついて、芽衣は自分があのときいかにわがままだったのかと気づかされた。

 そんなふうに気がつくことができれば、食事にありつけただけよしと考えることもできる。それに、適正価格で宿や食事を提供できないほど過酷な世界を生きているのだなと、宿の主人に対する同情すらわずかに湧いてくる。


「あんたのそういう甘いところ、嫌いだわ」


 夕食を終えて部屋に帰ってそんな話をすると、エイラは不機嫌さをより一層加速させた。


「エイラが怒ってるのもわかるよ。ぼったくられたとは、私も思ってるし。でも、この宿のおじさんがシャリファさんの村とか前に立ち寄った町で暮らしてたなら、きっとこんな商売しなかったと思うんだよね。こういう商売を肯定するわけじゃないけど、ここで生きていくってそういうことなのかなって……」


 芽衣はナールの子供のときの話を思い出していた。

 人の多いところに行けば何とか生きられるのではと考えたが、そういうところでは人から奪わなければ生きていけなかったと言っていた。奪うのが嫌でナールは森で魚を獲って暮らしていたが、神官たちに拾ってもらえなければどうなっていたかわからない。

 たぶん、この国では生きていくということは簡単ではない。それが、弱い者ならなおさら。


「あんた、お人好しになったっていいことないんだからね……」


 何についてのことなのか。エイラは、不機嫌というより心配そうに呟く。

 不機嫌なわけではなく、ずっと何か悩みを抱えていたのかと、ようやく芽衣は気がついた。


「エイラ、どうしたの? 機嫌が悪いのかなって思ってたんだけど、何かちがうみたいだし」

「どうしたのって、あんたのことがいろいろ心配に決まってるじゃない!」


 隣に腰かければ、ポスッと胸を殴られる。傷つける意図のない、子猫のパンチほどの威力だ。だが、それだけにエイラがいろいろこらえているのがわかる。


「あんたさ、アライン様がひとつだけ叶えてくれるっていう願いごとで、自分の恋人の目を覚まさせたいとか言うんじゃないんでしょうね?」

「え……?」


 思ってもいなかったことを指摘され、芽衣は戸惑った。そんなこと、一度も考えたことはなかった。

 たしかに、裕也のことは心配だ。ずっと目を覚まさなかったらどうしようとは考えた。だが、日本の医療を信頼する気持ちが大きかったのだ。

 それに、恋人よりも芽衣の中で家族のほうが優先順位が高い。ひとり娘として大切にしてくれる両親のもとへ帰るという願いを捨ててまで、恋人に目覚めて欲しいなどとは、とてもではないが思えなかった。


「大丈夫だよ。願いがいくつか叶えてもらえるならそれも考えたかもしれないけど、ひとつしかないなら、お父さんとお母さんのところに帰らなきゃ」


 言いながら、芽衣はためらっていた。エイラが言葉とは裏腹に、帰還以外のことに願いごとを使ってほしいと思っているのを感じ取ってしまったのだ。

 もしも、願い事を祐也を目覚めさせるのに使うと言ったら、帰還以外のことに使うと言ったら、エイラはきっと怒りながらも喜ぶだろう。

 それはつまり、芽衣がこの世界に留まるということだから。


「私は、帰るよ。すごく寂しいし、エイラたちとお別れするのは嫌だけど……それでも、家族のところに帰りたいんだ」


 エイラの気持ちを理解しつつも、芽衣は自分の思いを打ち明けた。

 もしも自分が帰らなければ、両親は深く傷つき、生きる気力を失うだろう。

 よその子供の誘拐や行方不明事件でも、胸を痛める人たちだ。子供が巻き込まれるような事件や事故があれば、芽衣が少しどこかへ行くだけでも気が気ではなくなる人たちだ。

 いなくなったまま帰ってこないとなると、何年かかってもきっと、立ち直ることはできない気がする。

 泣き暮らす母の姿が、それを支え憔悴(しょうすい)する父の姿が、簡単に思い浮かぶ。

 愛猫のミイは、芽衣の不在を理解できないにちがいない。芽衣が修学旅行でいないときも、なぜ帰ってこないのかわからずに、日に何度も玄関と部屋を行き来していたらしい。

 帰らずにこの世界に留まれば、ミイに一生それをさせることになる。

 芽衣は、家族にそんな思いをさせたくない。


「……もう! それを早く言ってよ! ……あんた、ずっとヘラヘラ笑って、全然平気そうなんだもん。あたしばっかり寂しいのかと思っちゃった」


 芽衣の素直な気持ちを聞いて、エイラは再び芽衣をポスッと殴った。今度は涙目だ。だが、もう怒っていないのはわかる。


「ごめんね。すっごく寂しいよ」

「じゃあ、ちゃんと言ってよ。態度で示してよ」

「……心配させたくないから、無理だよ」


 エイラをギュッと抱きしめて、芽衣はうめくように言った。誰に、ということは言わなくても、エイラには伝わる。


「心配させたくないって……今のままでいいの?」


 芽衣の肩に顎を乗せた状態でエイラは、答えのわかったことを聞く。何と答えるかわかっていても、友人として聞かないわけにはいかないのだ。


「竜と聖女の恋は、いつか終わるんだよ。それに、アラインはシャリファさんのことがずっとずっと好きなんだもん。だから、今のままでいいの」


 お互いの顔が見えないのをいいことに、芽衣は精一杯の嘘をつく。嘘をついても少しも心は楽にならないが、本当のことをエイラ相手にでも言ってしまえば、いよいよ耐えられないだろう。

 エイラもそれがわかったから、何も言わずにその背中を撫でた。


「それにアライン、何だか疲れてるみたいだし」

「王都が近づいてきてからだよね。……まあ、穢れに満ちてるし、それ以前に空気が何とも言えないもん。人間ですら気分が悪くなる場所だから、神様ならなおさらよね」

「……もう寝ようね」


 雨の中、言いようのない気持ち悪さを感じていた。誰もはっきりと口にしなかったが、おそらく誰もが。

 その言い知れぬ気味の悪さもあって、少女たちは身を寄せ合っていた。

 続く長雨のせいで、頭も身体も重い。それなのに、芽衣たちはその夜、なかなか寝つくことができなかった。


 翌朝、妙な騒がしさで芽衣は目が覚めた。

 誰かが大きな声を出したというわけではない。ただ、落ち着かない気配が芽衣たちのいる部屋にまで届いてきたのだ。


「エイラ、起きて」

「起きてる。……ったく、寝た気がしないし、朝から何か変な気配がするし。外?」

「たぶん」


 芽衣とエイラは寝起きの頭で状況を確認しあうと、目配せしてそろりと寝台から起き出した。それから、なるべく物音を立てないように部屋から出た。

 外は暗いが、夜の闇ではない。早朝くらいだろうか。

 だから芽衣は、泥棒の可能性を考えていた。この妙な気配の正体は、宿の主人が手引した物取りかと思ったのだ。

 ふっかけられた金額を気前よく払う姿勢を見せていたし、何より聖森に行くということで悪感情を抱かれている。だから、強盗を差し向けるくらいのことはしそうだと予想したのだ。

 エイラも同じようなことを考えているのか、なるべく壁に背中をつけて、用心して歩いているのがわかった。

 だが、結局何の手応えもないまま、出入り口まで来てしまった。


「みんなの部屋、気配なかったよね?」

「起き出して外にいるんじゃない?」


 不用心なことに、ふたりはそんなことを言いながら戸に手をかけた。

 そして、外に広がっていた光景を目にして絶句する。


「見てはいけない!」


 ふたりに気づいたサイラスが飛んできて、背にかばってそれを見せまいとした。しかし、そんなことで隠せるようなものではなかった。

 そこにあったのは、どす黒い赤。

 地面ににじんで濁った、血の赤だった。

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