幕間

 アラインは静かに森を見つめていた。

 森の中の気配は、健やかで楽しげだ。眠りから目覚め、世界の気配を感じ取ったときは、こんな状態の森が残されているとは考えていなかった。

 森の信仰は廃れ、世界は穢れに満ちているとばかり思っていたのだ。

 だが、眠る前と同じように、豊かで健やかな森が残されていたことに、ほっとしている。……そうでなければ、この国すべての聖森の浄化は難しかっただろう。

 シャリファは、「あなたの眠っている百年、祈りで森を守ります」と言ってくれた。その約束の証が、この清浄な森なのだ。

 アラインはずっと、シャリファのことが気がかりだった。元の世界に帰らず、この世界で生きていくことを決めた彼女のことが。

 目覚めてから考えるのは、彼女のことばかりだった。それを捨てきれぬ恋情だと思っていたのだが、どうやらそれだけではなかったらしい。

 眠りについているあいだ、シャリファがあの村で幸せに暮らしていたとわかって、アラインは心底安堵したのだ。ほっとして、胸の中につかえていたものが取れたように感じた。

 シャリファが幸せに暮らす姿を見ることはできなかったが、彼女が残したたくさんのものに触れることはできた。

 それに、祭りの夜にメイが、幸せに笑うシャリファの幻を見せてくれた。あんなふうに笑うことがあったのだろうと想像できたことで、アラインの憂いはかなり癒やされたのだ。


「アライン」


 メイの呼びかけに、アラインは声のしたほうを振り返った。するとメイは、エイラたちと手をつないでアラインのもとへ駆けてきていた。

 小さな子供たちがするように、なぜか全員で手をつないでいる。エイラの手をサイラスが、サイラスの手をナールがというように。

 何だかおかしな光景だったが、メイが無邪気な笑みを浮かべているのなら何であれ構わない。

 アラインはこの聖女の、異界からやってきたこの少女の笑顔が好きだった。

 愛され、健やかに育まれた人間特有のあたたかさがある。ひねくれたり、ねじ曲がったところがない。そういったよい性質の人間と触れ合うことがアラインは好きだから、メイの存在は目覚めてから救いだった。

 何より、旅を続けていくうちにこの娘は忍耐強さを身につけた。自分が笑顔でいることが周囲を安心させ力づけると気づいてからは、努めて笑っている。

 特にアラインに対しては、ことさら明るい笑顔を向けてくれるのだ。そのいじらしさが、愛しくてたまらない。


「このまま、みなで手をつないで浄化をしようか」


 アラインが問えば、メイは嬉しそうにうなずいた。そして、アラインが聖木に触れるのを目を輝かせて見ている。

 期待に満ちた眼差しだ。この娘は、光を愛している。浄化の光が空にのぼっていくのを、早く見たくてたまらないのだろう。

 こういった気質も、メイとシャリファは異なると気づかされる。……これまでのどの聖女とも、メイは異なっている。

 これまでアラインがこの世界に招き入れたどの娘たちも、何らかの理由で死に瀕していた者ばかりだった。そうでなければ、いくら時空を超えて旅することができる竜でも、自らの肉体なしに干渉することはできないのだ。

 だから、異界から来る娘たちの多くが、陰の気を持つ者だった。

 メイと同じように年頃の娘らしく美しいものに心惹かれるが、あまりにもまぶしいものに対しては目をすがめてしまっていた。月明かりの下で美しい世界をながめるくらいがちょうどいいのだと、いつかの聖女が言っていた。

 シャリファも、夜になるとアラインの白銀の髪を「お月様みたい」と愛でていた。

 だが、メイは光を光のまま受け止められる娘だ。明るいところで世界の美しさを見つめることができる娘だ。

 それはメイが、陰の気よりも陽の気を強く帯びた娘だからだ。

 来たばかりの頃こそ陰の気に傾いていたものの、アラインが力を分け与えればすぐに安定した。そして、陽の気も陰の気も持ちすぎることなく、健やかにこの世界に留まることができている。

 アラインはこれまで、陰の気に傾ききった異界の娘の存在に陽の気を与えることで発生する力を浄化に使っていた。

 陰の気にも陽の気にも、どちらかに大きく傾いていることはよくないことだ。だから、彼女たちにとってもそれは必要なことだったのだ。

 浄化をするのなら、本当はメイにもそういったことをすべきなのだが、アラインはずっとできずにいた。

 平和で豊かな国から来たからだろうか。両親に大切に育てられ、愛を知っているからだろうか。メイはごくごくまっとうで、健やかな命だ。

 その平凡で、それゆえ非凡な、まんまるな光のような存在を損ないたくなくて、アラインはメイがわずかに帯びる異界の気だけを糧にしている。


「わあ……きれいねえ」


 アラインが聖木の幹に触れて力を注ぐと、光があふれ、弾けながら空へとのぼっていく。

 この聖森には、元々浄化すべき穢れなどほとんどない。だから、光は光のまま空へとのぼると、細かくなって今度は地上へ降り注ぐ。


「雪みたい。すごいね。こんなにきれいなもの、初めて見たよ」

「そうか」


 幼子のように喜ぶ姿が可愛くて、アラインも笑顔になる。こんなふうに嬉しそうにしてくれるのなら、少々無理をしても構わないとすら思えてしまう。

 きれいな景色くらいしか、アラインがメイに与えてやれるものはないのだから。

 これまでの聖女たちは浄化の旅を通じて、アラインから希望を与えられた。アラインとの間にひとときの夢を見て、元の世界に帰っていったのだ。

 ひとつだけという願いで、ほとんどの娘が元の世界に還ることを望んだ。だからアラインはその願いを叶え、ほんの少し幸運の加護を授けて、愛する娘たちを送り返してきた。

 だが、本来はどの命も、その命を生きるのに必要なぶんの幸運しか持ち合わせていない。竜は人間と比べると長命だから、人間より多くの幸運を持っているように見えるだけだ。

 その残りも、力も、あとわずかになっているのをアラインは自覚していた。



「眠らないんですか」


 静かにふけていく森の夜。しとしと降る雨音を荷馬車の中で聞いていると、同じように起きていたらしいサイラスに声をかけられた。

 日頃は眠らずに外で火の番をすることが多い彼も、こんな夜には荷馬車の中で他の者たちと一緒にいるしかないのだ。


「サイラスこそ、まだ起きていたのか」

「私は、こうして起きているのが常ですから。明け方少し眠れば、疲れはとれます。ですが……アライン様はそうではないでしょう?」


 暗がりだが、サイラスがジッと見つめているのがアラインにはわかった。どうやら心配しているらしい。

 出会ったばかりの頃のような疑心はないが、やはりアラインはこの騎士の青年が苦手だった。勘が鋭いのが、どうにもだめなのだ。

 この国に暮らす人間たちは、アラインにとってはみな子供のような感覚だ。千年以上守ってきた世界で暮らす人々は、アラインが育んでいるようなものだから。

 そのため、旅を続けるうちにサイラスのことも可愛いと思えるようにはなっている。だが、親が勘の鋭い子供を時に持て余すように、アラインもサイラスを持て余していた。


「ずいぶんとお疲れのようですね。これまであなたが移動中に眠るところなど見たことがなかったのに、最近ではよくメイ様と一緒に眠っているのを見かけますから。メイ様から……聖女から力を得ていないからではありませんか?」


 まっすぐに、射抜くように見ているのだろうとアラインにはわかった。この青年は、自分が正しいと思ったときは遠慮がない。こちらを心配しているのならなおさらだ。

 そのまっすぐな視線を受けて、さてどうしたものかとアラインは考える。


「竜神様は聖女と交わることで異界の気を取り込み、力を発揮すると聞いております。しかし、アライン様がメイ様にそのような意味で触れている様子はないようですが……」


 片方は竜とはいえ、男女のことだ。この手の話題に口出しをしていいのかというためらいがあるにちがいない。だが、それでもサイラスは真剣だ。


「メイからは他の方法で力をもらっているから、大丈夫だ。疲れて見えるのは、われも年だからな。見た目が若くとも、われもずいぶんと長く生きた」

「……あなたは、永遠を生きるのではなかったのですか」


 暗がりの中、サイラスが驚きで目を見開くのを感じた。

 アラインは、自分が失言したことに気がついた。

 年寄りだからと、男女の触れ合いがないことをごまかしてしまおうとしたが、それは不老不死だと信じられている己の存在を否定してしまうことだったのだ。

 相手がサイラスでよかったと思う。……ナールやエイラには、間違っても聞かせられない。

 神が死ぬなどということは、きっと彼らには考えられないことだ。


「永遠ではないな。人のように短命の生き物にとっては、永遠にも等しい時間を生きることにちがいはないが」


 悟られないよう、努めて飄々と言ってみせた。今すぐ死ぬわけではないのは本当のことだ。


「でしたら、今後はもっと年長者にするような扱いをさせていただきますね。――おじいちゃん、もう寝てください」

「……若造が」


 騙されてくれたのか、そうでないのか。サイラスの生意気な発言に、思わず苦笑がもれる。だが、他の者たちのように無条件にアラインを崇め、信頼できるわけではない彼の苦労を思うと、気の毒にもなる。

 サイラスにとってアラインは完全無欠の神ではなく、老いて疲れを見せる人外にすぎないのだろう。


「われのことはいいから、お前こそ寝ておけ。……これから行く先は、ろくでもないところなのだから」

「……申し訳ありません」


 これから行く先のことを思って心配すれば、逆に恐縮させてしまった。他意はなく、本当に身体を休めておけという意味だったのに。


「サイラスが謝ることではない。人が多く暮らす場所に近づけば、環境が悪くなるのは仕方がないことだ。それが王都ならなおさらな」


 浄化の旅の残すところは、王都付近の聖森だけだ。

 王都はその名にふさわしく栄えている。これまでのように人里をなるべく避けての移動はできなくなるし、人が多く暮らすぶん、穢れも濃いだろう。

 近づく前から、そのくらいのことはアラインには感じ取ることができる。

 何より、王都は一番戦災が激しかった場所だ。百年ごときではすすぐことができない穢れが、汚泥のように積もっているのは間違いない。

 そんな場所ではこれまでのように安心して休むことはできないと言いたかっただけなのだが、サイラスはあからさまに動揺し、消沈していた。


「王都は、本当にひどい有様で……申し訳ありません」


 サイラスは打ちひしがれたように、謝罪の言葉を口にした。

 おそらく、シアルマ教徒を代表して謝っているのだろう。そんなことをアラインは望んでいないのだが、そうして謝罪しなければ気が済まないにちがいない。

 この青年に罪はないし、その罪を背負うことすらできはしないのに。


「大丈夫だ。われが何とかする。とにかく、今は休め」


 聞き分けのない子供をたしなめるように言ってみるが、サイラスは何も答えなかった。

 夜が明けてからのことを思うとどっと疲れが増した気がして、アラインは目を閉じた。眠ったところで身体のきつさはどうにもならないだろうが、最後の浄化を無事に終えるために少しでも力を温存しておかなければならない。

 浄化を終えて、メイを無事に還してやらねば――それまで、アラインは休むことはできない。

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