第四章 黄昏の森②
あたりに満ちているのは、錆くさい鉄のようなにおい。
昨日まで嫌になるほど降っていた雨は止んでいて、そのにおいは洗い流されずそこにある。
「……誰の血?」
かろうじて悲鳴をこらえた芽衣は、震える喉から声をしぼり出して尋ねた。それだけは、確認せずにいられなかったのだ。
心臓が、怖いくらいに早く動いている。
どっと汗が汗が吹き出して、それなのに身体は冷たくなっていく。
血を見たことで混乱し、恐怖しているのだ。
「馬のものです。……何か、獣にやられたようです」
「……そんな」
吸って、吸って、吐くことを忘れて過呼吸になりかけていた芽衣は、ようやく息を吐いた。そして、ふらりとサイラスの背中越しに顔をのぞかせる。
見えたのは、血のにじんだ地面を覆い隠すように広げられたボロ布。そのそばで膝をついているナール。
ボロ布はナールのローブで、その下に馬の亡骸があるのがわかった。
「……かわいそうに……俺が、宿に泊まるなんて言い出さなければ、獣に殺されることなんてなかったのに」
ナールは、苦しそうにしていた。泣いてはいないが、その顔は悲しみに歪んでいる。
芽衣たちですら、旅をするうちに愛着を持つようになった馬だ。ずっと神殿で世話をしていたナールは、それ以上に愛情を以っていたにちがいない。
「このへんに、飢えた狼でもいるっていうの……?」
「腹を満たすためにやったのなら、まだいいんです。…そうではなく、殺すためにうちの馬を殺した何かがいるんです」
エイラはやっとのことで口を開いたのに、ナールの返答を聞いて言葉をなくしてしまった。
ローブの下にあるのは食い殺されたあとの亡骸ではないということ。それがわかって、芽衣もさらに気分が悪くなった。
「あんたら、何やってんだ!?」
尋常ではない雰囲気が伝わったのか、いつもの起床時間にでもなったのか。宿の主人が起き出してきて、戸口で固まっている芽衣たちを怒鳴りつけた。
「う、馬が、殺されてしまっていて……」
「は? うわ……」
怒声に震えながら芽衣が答えると、押しのけるようにして主人は外を見た。そして、惨状を目の当たりにした。
「ま、魔獣の仕業だ! あんたらが森に行くとか言うから、魔獣が来ちまったんだろ! 化けもんがうじゃうじゃいるとこに行くって言うから、化けもんのほうから来たってわけだろ!」
取り乱し、口の端から泡を飛ばしながら主人は言う。そのおかしな様子に芽衣とエイラは怖くなって、サイラスにしがみついた。
「早く出ていってくれ! 最初からおかしいと思ってたんだ! 森に行くって言うし、やたら顔のきれいな薄気味悪い男はいるし。あんたら、化けもんの仲間なんだろ!」
一度宿の中に戻った主人は、芽衣たちの荷物を取って戻ってきた。それを投げつけながら叫ぶ。
「あの森が化けもんを生み出してんだ! ……あんな場所、なくなっちまえばいい!」
半狂乱になった主人は、芽衣たちの身体を外へと追い出して戸を乱暴に閉めた。
あまりにもひどい扱いだが、誰も何も言えなかった。
そのくらい、主人の怯えぶりは常軌を逸し、鬼気迫るものがあったのだ。
「血は、この先の森まで続いていた。獣はそこにいるのだろう」
「アライン……」
呆然としている芽衣たちのところに、アラインが戻ってきた。いなかったのは、馬を殺した獣のあとを追っていたようだ。
疲れきっているその顔を見れば、アラインも先ほどの主人の暴言を聞いてしまったのだとわかる。
「森って、聖森のこと?」
「ちがう。だが、聖森に至るには、どうやらその獣のいる場所を通らねばならないようだ」
「……そうなの」
一瞬、そんな場所に行く必要があるのかという考えが芽衣の脳裏によぎった。
だが、他のどこにも行く場所がないことにも気がつく。
あんな場所、なくなってしまえばいいと言われても、芽衣たちの向かう先は聖森しかないのだ。
「……すみません。出発の前に、この子を埋めてやってもいいでしょうか? このまま野にさらしておくのは、あまりに可哀想で……」
言葉をつまらせながら、ナールが訴えた。誰もだめとは言わないが、言ったところでナールはその場から動かなかっただろう。そのくらい、彼の姿は悲しみに打ちひしがれていた。
「うん、埋めてやろう。こんなところに、置き去りになんてできないよ。サイラス、ナイフ貸して」
ずっと黙っていたエイラが、そう言って前に進み出る。それから、サイラスが懐から取り出したナイフを受け取ると、おもむろに顔の横の髪をひと房、ばっさりと切り取った。
「これ、あげようと思って。あたしの髪をニンジンか何かと勘違いしてたのか、よく口に入れてたでしょ? ……ひとりぼっちで冷たいところに行かせるのなら、せめて髪くらい持たせてやりたいの」
そう言うや否や、エイラは顔を覆って泣きだした。
この馬は、たしかにエイラの髪がお気に入りだった。芽衣の髪には見向きもしないのに、エイラのオレンジ色の髪はよく食んでいた。
忍耐強く従順でいて、そんないたずら者なところがある可愛い馬だった。その子が動かなくなって冷たくなって、血で汚れた地面の上に横たわっているのだと思うとたまらなくなって、芽衣も泣いてしまった。
「あの馬は、いい子だったよね。良い動物は死んだとき、神様がひとつ願いを叶えてくれるんだって。だから、あの子は神様に願いを叶えてもらえるよ。……そう信じてあげよう」
泣きじゃくるエイラを励ますために、芽衣は言った。幼いときに聞いた話だけれど、不思議と印象に残っていたのだ。そしてたびたび思い出しては、良い動物が神様に何を願うのだろうかと考えたものだ。
この世界にも、動物の願いを叶えてくれる慈悲深い神様がいるかどうかはわからない。
だが、いると信じることくらいしか、今このときには救いがなかった。それほどまでに、打ちひしがれていた。
(……世界のための浄化なのに、どうしてこんなひどい目にあうの?)
旅の終わりの始まりで、芽衣は泣きながらそんなことを思った。
「……ひごいところだね」
立ち枯れた木々のあいだを歩きながら、芽衣はぽつりと呟いた。
あれから宿を出て一行がたどり着いたのは、死んだ森だった。
森と呼ぶのもはばかられる、生の気配を感じられない場所だ。木々はすべて乾き、枯れ、嵐でもくれば一本残らず倒れてしまいそうな様子だ。
溜まりきった穢れが瘴気を生み、それが木々を枯らさせたというのがアラインの見立てだった。
そんなところに馬の亡骸を埋めたくはなかったが、ここより先の聖森がよりひどい場所だというのが予想できた。だから、芽衣たちは適当なところの土を掘り、哀れな馬を寝かせてやった。
ここまで巡ってきた聖森も、穢れが濃いところはひどい場所のように感じられた。まるで富士の樹海のようだとも。
だが、今歩いている場所はそれとは比べものにならない。
一歩踏み出すほどに、ひとつ呼吸をするたびに、生気が奪われるような感じがする。
気分が悪くなるような臭気と、まとわりつくような嫌な湿度に満ちている。その中に鉄くさいにおいを感じ取って、芽衣ははっとした。
「囲まれたな……用心しろ」
不安になってアラインの袖を引くと、その背に守るように身体を引き寄せられた。アラインの背後からうかがうと、サイラスとナールも緊張しているのがわかる。
ジリジリと、不穏な気配が確実に迫ってきていた。
「……ひっ」
木の陰から現れたそれを、芽衣は最初、影か何かだと思った。だが、すぐにちがうと気がついた。
動く影だと思ったものは次々に、四足で芽衣たちの前に姿を現したのだ。
それは、四足歩行の獣と表現するよりほかなかった。これまで見てきたどんな生き物ともちがう、禍々しい姿をしている。
大きさは大型の犬くらいのものから、ライオンくらいのものまで。それぞれがまったく統一性のない形をしていながら、すべて共通して醜悪な様相をしている。
たとえるなら、融(と)けた闇だ。
生きながらにして腐り、臭気を放っているような禍々しいものたちが、血に汚れた牙をむき出しにきて芽衣たちに近づいてきた。
「下がって!」
一匹が勢いよく躍り出たところに、サイラスが腰に帯びていた剣を振り抜いた。
ドブのような悪臭のする血を撒き散らしながら、獣の体が飛んでいく。
また次のものが、別のものが、猛烈に迫ってくるのを、サイラスは一太刀一太刀で仕留めていく。
彼は名ばかりの騎士なのではないかと芽衣は思っていたが、決してそんなことはなかったのだ。
「狙いはメイ様たちか!」
サイラスがさばききれなかったものが、芽衣たちに襲いかかろうとしていた。そこへナールが走ってきて、拳を叩きこむ。
肉が潰れる湿った音がして、獣の体は弾けた。それを地面から拾い上げると、ナールは次に飛びかかってきたものに向かって振るう。
サイラスとナールは強かった。だが、倒すほどに彼らは返り血を浴び、汚れていった。
切るたびに、殴るたびに、腐ったトマトを潰すかのように獣の体から体液がほとばしり、彼らの身体を汚していく。
浄化の旅をする騎士と神官なのに、このままでは穢れに赤黒く染まっていくかに見えた。
「……見て、あれ……!」
芽衣が戦うふたりに見入っていると、怯えた声でエイラが叫んだ。
「……何、あれ?」
エイラが指差す先を見て、芽衣も震え上がる。
獣の死骸が、動いているのだ。死骸だったものが融けだして、ドロドロと波打ちながらどこかへと流れていっている。
サイラスに斬られた、あるいはナールに殴り倒された獣は、地面の上で動かなくなると、少しすると湯煎にかけたチョコレートのように溶けてしまう。
だが、しばらくすると融けた体は沸騰するようにプスプスと泡立ち、それに合わせて動き出す。
それらは意思を持ったかのようにそれぞれ寄り集まっていき、やがてひとつの形を成し始めた。
「ほ、本当に化け物なんだ……!」
あまりの醜悪さに、芽衣の身体は激しく震える。身体だけでなく、脳も、内臓も、大きく揺さぶられている気がする。どっと汗が吹き出して、口の中が酸っぱくなって、それを抑えるために叫び出してしまいたかった。
目だけを動かしてエイラのほうを見ると、瞼(まぶた)と唇をギュッと閉ざして震えていた。頬も口元も濡れている。泣くのと吐くのをこらえているのがわかった。
「――目を閉じて、息を止めなさい」
ふいに、アラインがそう言った。
この空間において、唯一清浄と呼べるような、そんな澄んだ声だった。濁流の中で芽衣を導いてくれた、あの声だ。
アラインの声に従って、芽衣は目を閉じた。
その直後、今度は歌うような声が響く。
聞いたことのない言葉だ。聖木に触れたときに唱えている、あの言語だろう。人ではなく、自然に語りかけるための言葉。それを低く流れるような声で朗々と歌い上げている。
アラインの声はバリトンではなくテノール。
そのテノールの歌声が、淀んだ空気を押し流していく。場を清めていく。歌声に混じって、水が流れる音もする。
足が冷たい、と思ったときにはあっというまに水は顔のあたりまで来て、すっぽりと飲み込まれてしまった。息を止めろと言われたのはこれだったのかとわかって、芽衣はあわてて鼻をつまんだ。
だから、匂いなど感じることはできないはずなのに、あたりが緑と水の匂いに満たされていくのがわかった。
さっきまでこの場を満たしていた腐臭と鉄錆くさいにおいが、清められていく。清浄な匂いで、空間が塗り替えられていく。
「……っ!」
瞼の向こうに強い光を感じた。目を閉じていてもわかるほどの、強烈な光。
だが、それは一瞬のことで、やがてそれが収まると、水の音もアラインの歌声も聞こえなくなっていた。
「もう、息をしていい。目も開けて大丈夫だ」
アラインに言われ、芽衣は目を開けた。そして、目の前の光景に息を飲む。
そこにあったのは、緑の大地だった。立ち枯れた木々はそのままだが、枯れた草ばかりで茶色かった地面に、若い緑が芽吹いている。
まだひょろひょろとした、か弱い緑だ。それでも、そこに生命がたしかにある。死に絶えた地面も、醜悪な化け物もなくなって、代わりに生命がそこにあった。
その緑の大地の上に、アラインはたたずんでいた。その身体は、あわく光っている。洞窟の中で初めて出会ったときのように。
「……アライン!」
そのほのかに光るアラインの身体に、芽衣は抱きついた。
神々しい姿のはずなのに儚げで、このままどこかに消えてしまいそうな気がして、何だかおそろしくなったのだ。
「大丈夫だ、メイ。もう恐れることない。われが、すべて浄めたからな」
おだやかで優しい声でアラインは言う。だが、その声はひどく疲れていた。姿形は、美しい青年のままだ。それなのにその声には、彼の隠しきれない疲れと衰えがにじんでいた。
今の行為が、彼の生命を消耗させてしまうものだったと芽衣は悟った。
「サイラス! ナール!」
芽衣の横で呆然と立っていたエイラが、何かに気づいて走り出した。向かった先は、蔦が絡みついて緑の塊に姿を変えた枯れ木。
エイラがあわててその蔦をむしりとっていくと、中からサイラスが現れた。蔦が繭のようになって、サイラスを包み込んでいたのだ。
それに気づき、芽衣ももうひとつの塊に向かって走り出す。
震えはまだ完全に収まっておらず、足がもつれてなかなか前に進めない。それでも何とかそばまでいくと、かじかんだように自由のきかない指先で蔦を引き剥がしていく。
「……た、助かった。森に、召されるかと思いました」
芽衣がやっとのことで緑の中から救出すると、酸素を求め大きく息を吸ったあと、ナールはしみじみと言う。その彼らしい言葉に、無事だったのだと芽衣もほっと息をつく。
「すまない。この場の穢れを浄めるため、手あらな真似をしてしまった」
「いいんです。おかげで狂わずに、不浄のものに飲まれずにすみました。あのまま獣の血を浴び続けていたら、最後は私たちがあの姿になっていたのでしょう」
ナールよりひと足早く態勢を立て直したサイラスは、きれいになった手のひらに見入っていた。
返り血を浴びて汚れていたはずのサイラスは、何事もなかったようにさっぱりしていた。服についた汚れすらも、洗い流されていた。
「あれは、何だったんですか?」
よろよろと立ち上がったナールが、誰に言うともなく言った。あれとは、あの禍々しい獣のことだろう。
この世のものとは思えない、醜悪な存在。
だが、宿の主人はあれのことを知り、恐れていた。
「あれは、魔獣と呼ばれるものです。……私も、実物を見るのは初めてでしたが、聖森から来ると、多くの人々が信じています」
ナールの疑問に答えるように、サイラスが口を開いた。そして、彼の知る魔獣について、王都における聖森の扱いについて語りだした。
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