第三章 花のあと①

 聖森の中心で、芽衣はそっと目を閉じていた。

 遠く、鳥の羽ばたきと風が木の葉を揺らす音が聞こえる。

 だが、ここは穢れを溜め込んだ森だ。静謐せいひつさや清らかさよりも、肌の上をぬるく滑るような不快感を強く感じる。

 それを振り払うのをイメージして、芽衣は踊り始めた。

 頭に思い浮かべるのは、チェレスタとオーボエの音色。

 真夜中の静けさと妖精の神秘的な様子を表現するために、小さな動きひとつひとつを丁寧に行っていく。

 これは発表会で踊ったことはないが、以前どこかで見て憧れていた演目だった。爪先立ちの軽やかな足運びや指先にまで神経を行き届かせる振りが繊細で、初めて見たとき、胸がすごくときめいたのだ。

 この踊りは、チェレスタの不思議な音色と相まって、キラキラしたものが見えてきそうだと芽衣は思っている。

 そのキラキラしたものが少しでもアラインの力になればと、祈るように踊った。


「この前のものとはちがい、明るい舞だったな。だが、妖しげでもある」

「お菓子の精の踊りなので、ちょっと不思議な感じなの」


 踊り終えた芽衣に向けるアラインの視線は、見守る者のそれだ。くすぐったい気持ちになりながら、芽衣はアラインから離れ、エイラたちのそばに行った。

 アラインが聖木に触れると、しばらくしてあの光が空へとのぼり始めた。光はまたたきながら弾け、そのたびに穢れを消し去っていく。


「穢れって、何なんだろうね」


 生まれては消えていく光を見て、芽衣は何気なく呟いた。この世界に来てからずっと疑問だったことを、ようやく口にできたという感じた。


「怒り、憎しみ、妬み……人の心を蝕(むしば)む悪い感情。それらが自然の中にある悪い気と結びついたものだって考えられてる。そういったものが人の住む場所にあったら困るから、聖森に押しつけてるの」


 少し怒りのにじんだ声で、エイラが答えた。だが、それをすぐにナールが否定する。


「押しつけられているのではありません。引き受けているんです。森が人の穢れを受け止めてくれているから、我々は森を、それを司る神・アラインを敬愛しているんです」


 ナールの神官らしい言葉に、エイラは不服そうにしつつも口をつぐんだ。ナールが口にした言葉は、ネメト教の教義なのだろう。


「今のこの国は、森の力を借りるだけ借りて、重く扱うことはない。押しつけているという言葉に誤りはないでしょう」


 そんなことをサイラスが苦々しく吐き捨てたのを聞いて、芽衣たちはギョッとした。シアルマ教の信徒にあるまじき発言だ。戸惑うような、若干とがめるような視線を感じたのか、サイラスは自嘲じみた笑みを浮かべた。


「シアルマの徒である前に、私もこの森の国の民であるということですよ」


 そんなことを言いつつも、サイラスはどこかひとりぼっちだった。そのことが、芽衣は気になっていた。



「ちょうどいい長さの枝に、こうやって蔓(つる)を巻きつけて、その先に餌(えさ)をつけて、ポイッとすればいいわけです」


 まだ乾燥しきっていない若い枝と、他の木に寄生するように巻きついていた蔓植物を組み合わせ、ナールはあっというまに釣り竿をこしらえる。

 それから、硬いパンをちぎって蔓にくくりつけると、目の前の湖にポンッと放ってしまった。

 浄化を終えて森を進んでいくと、宿の女将の言うとおり湖はあった。それを見て、ナールは釣りをすると言いだしたのだ。

 道具もなく、どうするのだろうと見守っていると、ナールが握っている枝の先端が軽くしなった。その次の瞬間、ナールは手首のスナップをきかせ枝を振りあげた。


「釣れてる!」


 引き上げた蔓の先には、ピチピチ動く魚がついている。

 パンで釣りだなんて何かの冗談だろうと思っていたのに、本当に魚が釣れたことに芽衣は驚いた。


「すごいね! 本当に釣れた! この世界の魚はパンを食べるの?」

「まさか! 餌はパンでなくてもいいんですよ。木の実でも、それこそ肉でも。ようは食べられるもので、魚の興味を引くことができたらいいんです」


 芽衣の発言にナールは笑いながら、そのあいだもひょいひょい魚を釣りあげていく。


「訓練の一環で鹿を追うことはあっても、こうして魚を釣ることはできない。すごいものですね……」


 それまで少し離れたところで半信半疑で見守っていたサイラスが、興味津々といった様子でナールの隣に並んだ。


「サイラスさんは町のほうの出身だから、こういう経験がないだけでしょう。俺は田舎者ですからね。慣れてるだけですよ」


 ナールは謙遜するが、それでもサイラスは感心したように見入っている。芽衣も、魔法のように釣り上げられていくのが楽しくてつい身を乗り出してしまい、後ろからアラインに捕まえられた。


「木の枝や蔓で道具を一から作ってしまうなんて、すごいね」

「まあ、俺は孤児だから、何にもかも自分でできないと、飢えて死んでしまいましたから」


 目を輝かせている芽衣に、ナールも笑って答えた。だが、そのおだやかな顔に少しかげりが差したのに芽衣は気づく。


「村を焼かれ、親を殺されたって、ナールさんのことだったの……?」


 ためらいながら芽衣が尋ねると、ナールは何でもないことのようにうなずいた。


「そうなんです。シアルマ教の一部の過激派の暴走だったらしいんですけど、ネメトの信仰を捨てずにいたうちの村は焼かれてしまいました。……父の釣り道具を持ち出して川で遊んでいた俺は、それを免れたというだけです。たくさん魚を釣って得意になって夕方村に帰ったら、大人も子供もみんな殺されて、村は燃えてました」


 悲惨な話をしているのに、ナールは笑顔だ。恨みや憎しみというものは、一切感じられない。だが、笑顔の奥には静かな悲しみがにじんでいるように芽衣には見えた。


「それから、神殿に行ったんですか?」


 苦しそうにしながら、サイラスは聞いた。シアルマ教の仕業だからか、それとも憐れな少年の人生に胸をつかれたのか、サイラスの顔にはこれまで見られなかった感情の動きがあった。


「いえ、信仰のしの字もわからないような子供でしたから、そんなことは思いつきませんでした。だから、とりあえず人の多いところに行ってみようと、少しずつ移動していきました。人の多いところに行けば、何とかなると思っていたんですよ。でも、実際は町のほうが過酷でした。貧しく弱い者は、誰かから奪うか、奪われるしかないんですよ。死にたくないけど、誰かから奪うのは嫌だったから、こうして釣りがうまくなるしかなかったんです」


 あっけらかんとナールは語った。

 その語りは淡々としていて、湿っぽさは一切ない。それだけに、悲壮感が伝わってきた。


「そこから、どうやって神官になったの?」


 興味を惹かれたらしく、今度はエイラが尋ねた。苦しい身の上が自身と重なったのかもしれない。


「町から離れたあとは野生の動物みたいに釣りをしながら移動してたんですが、そのときたまたま巡礼中の神官たちに出会って、拾われたんです。……シアルマがネメトの神殿をことごとく破壊したのはひどい話ですが、おかげで聖森の管理のために神官が各地を回るようになったから、巡り合わせとは何とも言えないものですね」

「……シアルマ教は、ひどいことばかりしているんですね」


 笑って語り終えたナールに、サイラスは苦々しく答えた。つらい思いをして生きてきたのはナールのはずなのに、それを聞かされたサイラスのほうが苦しそうだ。

 あの盗賊の件以来、サイラスは変わった。彼のこれまでの義務的な感じやおざなりな態度は、盲信から来るものだったのだろう。目をふさいでいた曇りが晴れたほうが苦しいというのは、何だか皮肉だ。


「サイラスさんが思いつめることじゃないんですよ。俺の村を焼いた悪いやつらがシアルマ教徒で、俺を拾ってくれたのがたまたまネメトの神官だったってだけです。もし親切な人に拾われて世話されて、その人がシアルマ教徒だったら、俺だってきっと今頃、立派なシアルマの徒だったんですから。それだけのことです」


 憎まないというのはこういうことなのかと、芽衣は深く感じ入った。同じことをされて自分も憎まず恨まずいられるだろうかと考えると、とてもではないが自信がない。

 ナールの言葉を聞いてサイラスは何か言いたそうにしたが、結局はそのまま口を閉じた。その代わり、枝を拾ってきて見様見真似で釣り竿を作り、ナールの隣に腰かけた。


「メイ、彼らはしばらくああして魚を釣っているだろう。木陰で休まないか?」

「うん、そうする」


 アラインの誘いに、ナールとサイラスをふたりだけにしてやれという意図を汲み、芽衣は素直に従った。

 それに、真剣に踊って疲れてもいたし、昼と夕方の中間のこの時間は無性に眠いのだ。エイラなんて、さっさと居心地がよさそうな場所を見つけて休んでいる。


「ここに座ろうか」


 さりげなく手を取ってエスコートされ、どっしりとした木の下まで連れていかれた。聖木に似た雰囲気の老木だ。様々な植物を這わせてやっているその姿は、おだやかな老人のよう。


「おいで」


 先に腰を下ろしたアラインが、ポンポンと自身の膝を叩く。隣ではなく膝の上というのが何とも言えないが、芽衣は照れながらもそこに座った。

 こんな体勢で座るのは、小さな子供のとき以来だ。小さかった頃は、よく父親にしてもらった。


「ねえ、アラインは、ずっと寂しいの?」


 しばらくふたりは猫の親子のようにただくっついて黙っていたのだが、ふいに芽衣は気になって尋ねた。

 芽衣もよく、何となく寂しいときはミイを抱きしめるのだ。何があるわけでもないのに漠然とした寂しさに襲われることがある。そんなときは愛猫を膝に乗せると、いくらかその寂しさが薄れる。

 だから、芽衣はうっすらとアラインの寂しい気配を感じ取ることができた。


「そうだな……ずっとこのあたりが、隙間風が吹くようにスーッとするのだ。あるいは、何かが刺さっているかのような、そんな感覚がある」


 アラインは胸のあたりを押さえて、困ったように呟いた。

 それは、芽衣にも覚えがあるものだ。ふと、元の世界のことを思い出すと、胸がチクリとするのだ。そして、スースーする。


「仲間に会いたかったり、故郷に帰りたかったりする?」

「いや、そういう感覚はとうになくしたな。他の世界の竜という生き物がどうかはわからないが、われらは住む場所をなくし、それで旅を始めたのだ。だから、帰る場所という概念はとっくにないな」

「そっか」


 あまりにもきっぱりと言いきるから、聞いている芽衣のほうが切なくなった。

 帰る場所がないというのは、想像しただけで不安になる。何より、悲しいことだ。


「じゃあ、やっぱりシャリファさんのこと……?」


 仲間や故郷のことでないとすれば、アラインの寂しさの原因はおそらく彼女だろう。そう思うと、芽衣もどうしようもなく寂しくなる。――結局は、仮初の番でしかないのだと思い知らされる。


「……われはもしかしたら、シャリファのことが心配なのかもしれない。自分の世界に帰らなかった聖女は、シャリファだけだからな」


 噛みしめるようにアラインは言った。言いながらしっくり来たというように、「そうか、心配だったのだ」と繰り返す。


「元の世界に帰らずに、シャリファさんは何を願ったの?」


 信じられない気持ちで芽衣は尋ねた。旅をしてきて、アラインやエイラたちを大切に思うようになった。それでも、元の世界への思いが薄れることはない。だから、帰らない選択をしたシャリファのことがわからなかった。


「仕えていた少女の、病の快癒だ。……あの子らしい願いだ。自身のために何かを欲するということがない娘だったからな」

「そうなの……」


 実に聖女らしい願いだと、芽衣は思った。清らかで尊くて、聖女と呼ばれるに相応しいと。自分にはない心の美しさだと、思わずにいられない。


「……私、シャリファさんと比べたら全然だめだね。何不自由なく育って、苦労を知らない甘ったれなんだもの」


 これでは、エイラに嫌われていたのも仕方ないと思ってしまった。誰かのために願うことも祈ることもできない芽衣のことを、聖女と認めたくないのは当然のことだ。


「そんなことはない、メイ。恵まれていることに感謝はしても、卑下するものではない。幸福に生きてきた者にしかできない選択がある。幸せを知っている者にしかない力がある。愛されて育ったそなたのやわらかさは美徳だ。そのことに誇りを持つといい」


 しょんぼりとする芽衣を、そう言ってアラインは抱きしめた。澄んだ水と緑の匂いに包まれる。


「そうだね」


 いつのまにか、励ます者と励まされる者が逆転してしまった。

 せめてもと思い、芽衣はアラインの胸に手と頬を寄せた。

 少しでも、アラインの中の寂しさが和らぐようにと。

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