第二章 穢れ満ちる④

 態勢を整えてから一行は、再び町に向かって進んだ。

 この国は今、シアルマ教が多数派を占めている。だから受け入れてくれる宿はあるのだろうかとか、そもそも町に入れるのだろうかとか、先ほどの出来事で神経質になったナールが心配したが、そこはサイラスが尽力した。

 町の入り口にたどり着くと、彼はひとり先に駆けていき、あっという間に泊まれる宿を見つけてきた。そしてシアルマ教徒といっても聖森への信仰を持ち続けているらしい人々から、寄進まで募ってきてみせた。

 わずかでも名誉挽回できたと感じたのか、ようやくサイラスの顔には余裕が戻ってきた。宿を確保できたことよりも何よりも、芽衣はそのことに安堵した。急に張りつめたようになったサイラスが、見ていて心配でならなかったのだ。


「おいしそう!」


 食卓に並んだ料理の数々を見て、芽衣は思わず感嘆の声をもらした。宿だけではなく、そこの食堂であたたかな食事にありつけると思っていなかっただけに、喜びもひとしおだ。

 芽衣はまず、パイ包みのようなものに手を伸ばした。フォークを突き立てると、中から肉汁があふれ出す。その肉汁をからめて口に運ぶと、サクッとしたパイがやわらかく解けていく。パイに包んであるのは肉の木の実を砕いたもので、その異なる食感がさらに食欲を刺激した。


「おいしそうに食事してるとこ、初めて見た」


 あっというまにパイ包みを感触している具だくさんのスープに取りかかっている芽衣を見て、エイラが呟いた。また気を悪くさせたのかと、芽衣は食べる手を止める。


「あー、ちがうの。文句言ったんじゃなくて、こっちの食べ物が根本的に口に合わないんじゃないかって心配してたから、よかったなって思って」


 エイラは微笑んで言ったが、自分はこれまでそんなにまずそうな顔をして食事をしていたのかと気づかされ、芽衣は恥ずかしくなった。


「……自分では気づかなかったけど、私ってすごく贅沢でわがままだったの。ないものがないのが当たり前の暮らしをしてたし。でも、大変なことがあったあとだと、みんなでこうしてご飯を食べられるだけで幸せってわかった」


 飢えることは決してなく、一日三食当たり前のようにおいしい食事にありつける――そんなひどく恵まれた生活を、芽衣は当たり前だと思っていたのだ。その上、好き嫌いもたくさんした。気分によって残すことすらあった。

 そんな甘やかされた豊かな生活とこちらの世界を比べ、不平不満を抱いていたなんて、何重にもわがままだったと今はわかる。


「そうして受け入れることができたから、こちらの食べ物を身体が受けつけるようになったのだろう」


 しみじみと、嬉しそうにアラインは言う。芽衣が食事を楽しんでとれるまでにこの世界になじんだことを喜んでいるようだ。


(そういえば、もう身体がふわふわしない。安定したってことなのかな)


 パンに肉を挟んだものを頬張りながら、芽衣もアラインに微笑み返した。


「そういえば、メイ様は元の世界でどのような食べ物が一番お好きだったんですか? 今、一番食べたいものは?」


 ひとしきり食べて落ち着いたナールが、また好奇心の塊に戻っている。キラキラの目で見つめられて、芽衣は考え込んだ。

 好きなものと聞かれて思いつくのは、ハンバーグやカレーだ。それから、魚介たっぷりのクラムチャウダー。炊き込みご飯もちらし寿司も好きだ。

 だが、今一番食べたいものと聞かれて芽衣の頭に思い浮かんだのは、人気コーヒーショップの甘いドリンクだった。


「ショートアイスチョコレートオランジュモカエクストラホイップエクストラソース」


 芽衣はよく頼む、お気に入りのオーダーを口にしてみた。案の定、ナールたちはキョトンとした顔になる。

 それがおかしくて、どんな飲み物なのか見せてもっと驚かせようと思い、ポケットをあさってハッとした。……スマホは、もう手元にないのだ。


「今のはね、私が一番好きな飲み物の名前だよ。ふわふわで甘くて、すっごくおいしいの」

「何だか、店の売り子ごと呼び出すかのような呪文に聞こえたんですが」

「そうだね。呪文、みたいなものかも。私はなかなか呪文を覚えられなかったんだけど、友達がそこの店の呪文を考えるのが好きだったの」


 飲み物の詳細よりも呪文のほうに興味を惹かれた様子のナールに、芽衣は覚えているものをいくつか唱えて見せた。

 何を抜いて何を追加すればより自分たちの好みの味になるかという探求が好きだったのは、繭香だ。もはや早口言葉じゃんと笑いながらオーダーしていたのが、今となっては懐かしい。


「味の想像はまったくつかないが、きっとすごく楽しいものなのだろう。われも、その店に行って唱えてみたい」


 芽衣の頭にポンと手を乗せ、アラインは笑った。芽衣が少し寂しくなったのを察知したのだろう。さりげなく見てくれているというその安心感に、芽衣の気持ちは慰められた。


「好きな食べ物を聞かれて甘い飲み物を答えるのって、相当偏食でしょ。甘いものを食べすぎて『ご飯いらない』なんてわがまま言ってたんでしょ?」


 甘くなった芽衣とアラインの空気を感じ取ったのか、エイラが芽衣の食事に対する姿勢を指摘した。そんなことないとないと言いたかったが、実際にこのとおりだから言い返せない。


「食事は身体づくりの基本です。旅を終えるまで倒れられては困りますから、今後は私たちがしっかりと食事について指導しましょうか」


 サイラスまで真面目な顔でそんなことを言い出して、芽衣の背筋はひやりとする。


「そんな……誰にだって好き嫌いはあるでしょ。ねえ、アライン。シャリファさんにも苦手な食べ物ってあったでしょ?」


 雲行きが怪しくなり、芽衣はアラインに助けを求めた。好きな食べ物の話をしていたはずなのに、このままでは食事指導が始まってしまう。しかもエイラとサイラスなら、間違いなくスパルタだ。


「そうだな。魚は、どうやら最後まで好きになれなかったようだな。シャリファのいたところでは、魚を食す習慣がなかったらしい」


 少し考えて、懐かしむようにアラインは言った。愛しいシャリファのことなら、それがたとえ苦手な食べ物の話でもいいらしい。そのことにちょっぴり胸が苦しくなって、芽衣は無理して明るく振る舞った。


「そうなの? でも私、魚は食べられる! 大好きよ!」

「そうですか。でしたら明日にでも魚を釣りましょう。次の聖森の近くにはきれいな湖があると、宿の女将さんに聞きましたから」


 いろいろと空気を読んだナールがそう言って、場をとりなした。



 その夜、ふかふかの寝台の上で芽衣はのびのびしていた。

 自室のベッドと比べれば、当然劣る。だが、ここ数日はずっと野宿も同然だったのだ。それを思い出せば、マットレスが少し硬いくらい問題にならない。

 日向の匂いを思いきり吸い込み、芽衣は泳ぐように足をパタパタした。それを見て、桶で身体を清めていたエイラが呆れたように溜息をつく。


「メイ様って、すごく子供っぽいですよね」

「えっ」

「自覚ないんですか?」

「ちがうちがう!」


 エイラの口から飛び出した言葉が嬉しくて、芽衣は思わず寝台のうえに跳ね起きた。おそらく無自覚だったエイラは、その反応に驚く。


「今、名前で呼んでくれた! どうせなら呼び捨てでいいよ」

「そんなこと……」


 できませんと続けようとするエイラに、芽衣は笑顔で首を振る。


「私、聖女じゃなくて須崎芽衣なんだよ。浄化の旅は頑張るけど、それは聖女だからじゃなくて、私が頑張りたいから頑張るっていうか」


 芽衣は、胸にわきあがった決意のようなものを伝えようと、懸命に言葉をつむいだ。役目を負わされたから努めるのではなく、そうしたいと真に思えるようになったのだと、そう言いたかったのだ。


「ようは、嫌々とか義務感じゃなくなったってことね」

「うん、そういうこと」

「あの騎士にも聞かせてやりたい。……まあ、あいつもいくらか意識が変わったんだろうけど」


 芽衣の言葉を噛み砕くように受け止めながら、エイラは身体を拭いた。そして、芽衣とおそろいの服に袖を通す。

 これは、サイラスがふたりのためにといつのまにか調達してきてくれたのだ。

 エイラの身につけているものはあまりにも粗末だったし、芽衣のスカートが短いことがずっと気になっていたのだという。騎士としての義務感からではなく、彼が自主的に動いたことが嬉しかった。


「こういう服着るの、初めて」


 芽衣たちが着ているのは、襟ぐりの深いブラウスに袖なしの胴衣を重ね、スカートとエプロンを履くという、この世界で一般的な服だ。両親と行ったオクトーバーフェストで見かけた可愛い民族衣装のようなその服に、芽衣の心もわきたっている。


「よく似合ってる。おそろいで町娘だね」


 芽衣がはしゃいだように笑うと、エイラもはにかんで、それから目を伏せた。


「あたしね、あの騎士の言うとおり、奴隷なんだ」


 ポツリと、静かにエイラは語りだす。ただならぬ気配を感じ取って、芽衣は寝台の上の自分の隣を身ぶりで勧めた。


「奴隷っていうより、迫害を受けてる人種ってことかな」

「もしかして、その髪色や目の色が関係してるの?」


 芽衣の問いに、エイラはうなずいた。


「そう。この髪と目は、ネメトの熱心な信徒だった人種の証なの。だから、シアルマ教を広めるときに邪魔ってことで、ほとんど根絶やしにされたのよ。……あたしが生かされているのは、やがて訪れる聖女様に仕えるため。ネメト教を排除したくても、聖森の、竜神と聖女の存在は無視できなかったのよね。だから、あたしは生かされた」


 自嘲気味なエイラの告白に、芽衣は何も言うことはできなかった。生きてきたではなく生かされたという言葉から、彼女のこれまでの人生がどれだけ苛酷だったかをうかがわせる。


「シャリファ様の話を聞いて育ったから、彼女だけがあたしの支えだったの。あたしと同じで身分が高くない少女で、それなのに心が清くて優しくて……そんな人にお仕えして、そばでいろいろお助けするんだって思って、日々祈ってたのよ」

「……それなのに、来たのが私みたいなのでごめんね」


 エイラの告白を聞いて心底申し訳なくなって、芽衣はしょんぼり謝った。だが、エイラは破顔して芽衣に抱きつく。


「今は、あんたのすごいところ、ちゃんとわかってるから。……誰かのために自分の大切なものを差し出せるのって、すごいことなんだよ」

「……大したことじゃない。スマホより、エイラが大事だっただけ」


 しみじみと感じ入ったように言われたのが照れて、芽衣もギュッとエイラに抱きついた。

 元の世界との唯一のつながり。それが手元になくなった心細さはあったが、エイラを失わずにすんだ安堵のほうが当然大きい。後悔は、まったくなかった。彼女をあの下劣な男たちの手に渡すことを回避できてよかったと、思うのはそれだけだ。


「ていうか、部屋分けって本当にこれでよかったの? ほら、アライン様と……」


 しばらく子供のように寝台を転がってじゃれ合ってから、エイラははたと気がついたように言う。彼女が言葉を濁した意味がわかり、芽衣はあわてて否定した。


「ないない! そういうんじゃないんだよ! その……無理を強いることはしないって言ってくれてるし、アラインには必要なことじゃないらしいから」

「……それ、たぶん嘘だと思うけど。まあ、アライン様がいいって言ってるならいいのか」


 どぎつい話をふっておきながら、エイラは平然としている。こういった話題が少し苦手な芽衣は、顔を赤くして目を泳がせている。


「メイはさ、まだ恋人のこと好きなの?」

「えっと……」


 さらりと、先ほどの話題の延長線上のように尋ねられ、芽衣は戸惑った。

 裕也とは、まだ別れていない。そもそも、そういった話し合いをできる状態ではなかった。

 だが、そのことを抜きにしても、胸の一番やわらかいところに引っかかって取れない棘のようなものがあると感じている。

 何も思っていないのなら、胸は痛まないはずだろう。


「たぶん、好き。……そういうの、自分の中で整理する前にこの世界に来ちゃったわけだけど、浮気をされたからって、すぐには嫌いになれないみたい」


 嫌いとか憎いというよりも、納得できないというのが芽衣の気持ちだった。

 不満があったから浮気をしたのか。どうしてその不満を言ってくれなかったのか。そんなことを、ぐるぐると考えてしまう。


「メイの場合、浮気の相手が自分の友達っていうのがつらいよね。頭の中、ぐちゃぐちゃでしょ?」

「うん、ぐちゃぐちゃ。だから私、彼氏の事故のことも、友達からの浮気の懺悔にも、何も言えないままなんだ」

「そっか」


 過剰にいたわらない、その優しさが芽衣にはありがたかった。

 今の芽衣は、別に可哀想だと思われたいわけではなかった。ただ、淡々と自分の感情と向き合い、吐き出したかったのだ。


「ねえ、恋人のどういうところが好きだったの? なれそめは?」


 暗い気持ちにばかりではなく、幸せな気持ちにも焦点をあてようとしてくれるのか、エイラはそんなことを尋ねた。だから芽衣もその気づかいに応えようと、裕也と親しくなった経緯を思い出していた。


「なにか特別なことがあったわけじゃなくて、ごくありふれた出来事なんだけどね」


 きっかけは、高一の冬。体育の時間、グラエンドでハードル走をやっていた芽衣に、サッカーをやっていた裕也の蹴ったボールが当たったのだ。芽衣は転倒し、足を捻挫した。

 そのときは謝られて保健室に連れて行かれただけだったが、芽衣がバレエの発表会を控えていたと知った彼に、後日すごく謝罪されたのだ。

 それを機に連絡先を交換し、裕也は日々、芽衣の足の状態を気にした。そして彼は発表会にまでやって来たのだった。


「そのとき、差し入れっていって花束をくれたの。男の子から花束をもらうのは初めてだったし、そういうことに慣れてなさそうな人が一生懸命になってくれるのが嬉しくて……それで、つきあうことになったの」

「へえ。まめなところがある男の人っていいよね。芽衣がその恋人のこと、どうして好きだったのかわかったよ」

「うん」


 話しながら、芽衣自身も裕也への思いを再確認していた。

 さわやかで人懐っこいが、男子とつるむほうが好きなごく普通の子。スポーツが好きで、友達が多くて、バランスの取れた男の子。笑った顔が柴犬みたいに可愛くて、それでいて男っぽい表情も魅力的だった。

 思い出すと、好きだったのだと思い知らされる。


「かっこよかったから、メイの友達も、うんと好きになっちゃったのかもね」


 エイラの言葉に、芽衣は胸がチクリと痛んだ。


「実際のところは、どうかわかんないよ。友達の恋人だから手を出したかっただけかもしれないし、かっこいい男の子をつまみ食いしたかっただけかもしれないし。でも、友達であるあんたの存在を無視しちゃえるほど好きになっちゃったのかもって思えばいいかも。許せって言ってるんじゃないよ? ただ、そう思うほうがメイにとってはいいのかなって。メイが救われるためには」


 エイラは眉根を寄せ、困った顔をして言った。考えながら話してくれているのだろう。芽衣が恨みたくないと言ったのを覚えていて、そのうえで言ってくれているのがわかる。


「……そうやって言ってもらえてよかった。そうだね。そうやって考えて、恨まずにいられたら、すごく楽だ。……楽になりたい」


 心の底から、吐き出すように芽衣は言う。まだ胸が軋むが、無理をしているわけではなく、本音だった。


「楽になっていいんだよ。てかさ、アライン様に乗り換えるのはどうなの? 新しい恋人ができれば、浮気した男のことなんてどうでもよくなるんじゃない?」


 屈託ないエイラの笑顔を見て、芽衣は苦笑した。世界がちがっても、やはり恋の傷は恋で癒やせというのは共通の感覚らしい。

 アラインの心に誰もいないのであれば、あるいはそういうこともあったかもしれない。

 だが、あの美しい瞳は芽衣を通じて亡き恋人を見つめていると、芽衣は感じていた。


「アラインはすごくきれいだし、優しいし、たしかに惹かれるけど……私はきっと、あの人の一途さがまぶしいだけなんだよ」


 しみじみと芽衣は思う。アラインへのときめきは恋に似ているが、恋ではないのだと。


「そんなものか。アライン様はあんたのこと、すごくすごく愛しいって顔で見てるけどね」

「それってたぶん、小さい動物を見てニコニコしてるのと変わらないと思うな。さあ、そろそろ寝なくちゃ。眠れないで起きてるとね、アラインが寝かしつけに来るんだよ」

「何それ。お父さんじゃん」


 腑に落ちない様子だったエイラも、アラインの寝かしつけと聞いて大笑いした。「お父さんじゃん」と言われて、芽衣も笑いながらストンと納得した。


(アラインは、この世界において私の保護者なんだ。手の中の小鳥を可愛く思わない人はいないし、小鳥だって自分を拾った人に懐くのは当然のことよね)

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