第三章 花のあと②
スマホをなくしてから、芽衣の中では日にちの概念というものがすっかり薄れてしまったように思う。
時計の機能が止まっていたとはいえ、カレンダー機能で日数の経過は把握できていたのだ。それがなくなれば、時間の経過は身体で感じるしかない。
あれから、いくつもの聖森を浄化して周った。
馬車の外に見える景色と体感を頼りに考えると、芽衣がこの世界に来てから、ゆうに三ヶ月は過ぎていた。
さすがにいなくなって四ヶ月も経つとなると、行方不明者として全国放送のニュースでも取り上げられるだろうか。色が変わり始めた木々を見て、芽衣は思った。
「もう秋ですね、メイ様」
今日は御者席ではなく荷台にいるナールが、芽衣ににこやかに話しかけた。
暗い考えを悟られないよう、芽衣も笑顔で返す。
「本当ね。この国の人も、紅葉を楽しんだりするの? 私の国では紅葉狩りっていって、秋になると木々が色を変えるのを楽しむ風習があるの」
「何だか優雅ですね。狩りということは、葉を落として回るんですか?」
明るい話題をと思い話してみると、ナールは狙い通り食いついた。彼はどんな話でもニコニコと楽しんでくれるが、好きなのは知らないものについて知ることだ。長く過ごすと、つくづく彼が学者向きの人ということがわかる。
「葉っぱは落としちゃだめかも。落とさなくても、そのうち落ちちゃうしね。葉が色づいて落ちるまでの短い時間、人はその美しさを愛でるの」
「忙しく働いているのに自然を楽しむ心をなくさないなんて、メイ様の世界の人々はすごいですね」
ナールはしみじみと感心している。同じ世界にもし暮らしていたら、日本のことを面白がって留学してくるタイプの外国人だろうなと、芽衣も何だか面白くなった。
元の世界から離れてしまっているが、こうしてナールたちとの会話を通して、芽衣は自分の世界について深く知ることができている。
「この国には紅葉狩りはありませんが、秋の収穫祭はありますね。実りに感謝し、次の年の豊作を祈るお祭りです」
「へえ。何だか美味しそうなお祭り」
何が食べられるのだろうと考えたのが伝わったのか、アラインが楽しそうに笑った。
「せっかくなら、どこかで祭りを見られればいいな」
「次の聖森の近くの村が、たしか聖森信仰に厚いそうですので、立ち寄ってみましょうか」
ナールがそう提案すれば、それまで静かに座っていたエイラが弾かれたように反応した。
「ねえ、その村ってシャリファ様が浄化の旅を終えたあと暮らしたって言われてるところ?」
声は抑え気味だが、興奮しているのがわかる。エイラが目を輝かせて身を乗り出しているのは、なかなかないことだ。
「俺も聞いたことはありますが、どうなんでしょうね。だってシャリファ様が旅を終えて何年も経たないうちに、シアルマが征服のための戦を始めてますから……この世界に残った聖女である彼女がどうなったかというのは、噂話の域を出ませんよね」
エイラに遠慮した言い方をしつつも、ナールは冷静だ。こういう言い方をするということは、彼がその村の噂について懐疑的だということだろう。
「でも、もしシャリファさんの存在がシアルマ教に握られているのなら、それを大々的に利用しそうじゃない? シアルマ教に関する逸話でそういうものを耳にしないってことは、きっとシャリファさんはこの国のどこかでひっそり暮らしていたんだと思うな」
芽衣は必死に、力強く訴えかけた。それはエイラのためではなく、アラインのためだった。
表情に変化はないものの、アラインがシャリファの話題を気にしていないわけがない。ましてや、それが不穏な方向の内容なら、きっと内心おだやかではないだろう。
「今から行く村で、何か手がかりが得られればいいね」
少しでもアラインの憂いが晴れればいいと、芽衣は笑顔でそう言った。
「そうだな。何か美味なものもあるといい」
アラインも微笑み返して、芽衣の髪を撫でた。その心地よい感触に、芽衣は目を閉じる。そして、アラインのために祈った。
(どうか、この人の心が本当に慰められる日が来ますように……)
しばらく林のあいだの道を走っていると、次第に霧(きり)が立ちこめてきた。視界が悪くなり、サイラスは馬車の速度を落とした。
芽衣は霧を見るのが初めてで、それだけに不安になる。何も見えない暗闇よりも、見えそうで見えない白い視界のほうが不安をかきたてられると知った。
だが、この霧が穢れのように害のあるものではないということも、何となく感じている。
霧は進む者を拒むようだが、それ自体は清らかな気配しかない。
「……何か、不思議な感じがする。どこかに迷い込んじゃいそうだよ」
「こわいことを言わないでください」
思わず芽衣が言うと、サイラスの気弱な返事が御者席から聞こえた。ひとりで馬の手綱を握る彼は、この霧の中で一番心細いにちがいない。
「この光に続くといい」
ふいにアラインが、そう言って指を鳴らした。すると、握り拳ほどの光が生まれ、御者席のほうへ飛んでいった。この光が、馬車を導いてくれるというのだろう。
「メイ、大丈夫だ」
アラインがそっと芽衣を抱き寄せる。
澄んだ緑と水の匂いに包まれて、芽衣は気がついた。この霧の匂いや気配は、アラインのそれにひどく似ているということに。
光の球だけを頼りに、それからまた馬車は走り続けた。
優しい光のおかげか、馬の足取りから不安な様子は消え、いくらか速度は上がった。そして、少しずつ少しずつ風を切るように進むうちに霧は晴れていき、唐突にぽっかりと明るい場所へとたどり着いた。
「……ここは、集落ですね」
霧が晴れた先にあったのは、ポツポツと小さな家々が建ち並ぶところだった。廃れてはいない、人の営みを感じさせる場所だ。
「予定していた場所とはちがうようですが……」
「危険なものの気配はない。このまま進んでみよう」
不安そうにサイラスが振り替えるが、アラインが促した。
たしかに、のどかな田舎という景色が広がっている。だが、秘められた場所という雰囲気は強い。
そんな隠れ里のような空気がただよう集落を進んでいくと、ひょいと人が現れた。
「こんなところに、何しにきよったん?」
背中が曲がった老女が、馬車に向かって声をかけてきた。草陰に隠れて見えていなかっただけで、突然現れたわけではないようだ。
「あの、聖森の浄化を……」
「あ! 黒い髪に黒い目! あんたさん、聖女様やね! よぉ来なすったね。はよはよ、広場のほうに進んでこんね」
老女の妖怪じみた様子にサイラスがたじろいでいると、彼女は幌のあいだから外をうかがっている芽衣に気がついた。すると、それまで訝(いぶか)るようだったのが嘘のように笑顔になり、馬車の前を先導するように歩きだした。
腰の曲がった姿からは考えられないのでほどの健脚で、老女はスイスイと進んでいく。そのあいだにも通りすがる人たちに「聖女様が来なすってね」「ネメトの人たちよ」と声をかけていったため、広場とやらについたときは、馬車はまるでパレードのようになっていた。
「……昔に戻ったようだ」
馬車を取り囲む人々を見て、ポツリとアラインが呟いた。
「すごくにぎやかだったんだね」
さながら映画やドラマで見た大名行列のようだと思いながら、芽衣は相槌を打った。このにぎやかさを知っているのなら、今の五人旅はさぞ寂しいだろうとも考えたが、そのことについては触れなかった。
「ようこそおいでくださいました。聖女様とそのお供の方々」
芽衣たちが馬車を降りると、すぐさま恰幅のいい中年男性が前へと進み出てきた。
その男性の後ろにはたくさんの人々が、笑顔で芽衣たちを見つめてひかえている。
どうやら、ここが聖森信仰に厚いという村らしい。初めて手放しで受け入れられたという感覚に、芽衣は自然と笑顔になった。
「須崎芽衣と言います。それからエイラと、神官のナールと、騎士のサイラスと、竜神様のアラインです」
人々の熱気に気圧されている一行に代わり、芽衣は全員を紹介した。すると、アラインの名を出したところで人々はどよめいた。
白い法衣のようなものに身を包んだアラインは、パッと見て神官に見えなくもない。みんなが驚くのも無理ないことだと芽衣は思った。
「まさか……アライン様もご一緒だったとは。お美しい、神々しい方だと思ったが、人の姿をとられた我が神でしたか」
長と思しきその男性は、感激したように頭(こうべ)を垂れ、拝むように手をすり合わせた。
「あんた様が神様でしたか。長生きはしてみるもんだね。まさか神様にお会いできるとは思っとらんかったよ」
広場まで案内してくれた老女が、まぶしそうにアラインを見上げた。
「シャリファも、もう少し長く生きたら、もう一度あんた様にお会いできたのにねえ」
目頭を押さえ、しみじみと言った老女の言葉に、思わず芽衣は身を乗り出した。
「シャリファって、先代の聖女のシャリファですか? ここにいたんですか?」
「ああ、ああ。おったとも。もう二十年も前に亡くなったが、旅を終えてこの村に来て、孫が大きくなるまで生きなすったよ」
「ここだったんですね……シャリファさんが暮らした村って」
感慨深く語る老女の言葉に、芽衣も棟が熱くなる。
アラインのほうを見てみれば、表情がないまま固まっていた。きっと、驚きすぎているのだろう。だが、同地に喜んでいるのもわかった。
アラインは静かに、亡き恋人が旅を終えたあと暮らした場所の空気を感じているようだった。
シャリファが暮らしたというその村は、噂どおりネメト教の信仰が厚い村だった。というよりも、シアルマ教の影響を受けていない、本当に隠れ里のような場所だったのだ。
よく霧が出るこの村は、用のないものには近寄れないのだという。村の人たちはあの霧を、森の加護だと信じているらしい。そのため隠され、秘められ、長きに渡ってこの国の昔からの聖森信仰を守り続けられたそうだ。
そんな聖森信仰に厚い人々に大いに歓迎され、芽衣たちの周囲は一気に騒がしくなった。
少し先に予定していた収穫祭を早めに行うことにしたということで、ナールとサイラスは力仕事の男手として駆り出されてしまった。エイラは自主的に女性たちの手伝いに行った。
広場に残された芽衣とアラインのところには、ひっきりなしに人が訪れている。
「ほら、連れてきましたけね」
芽衣とアラインを取り囲むようにしている人々のあいだをぬって、一番最初に出会った老女が、また人を連れてやってきた。その連れてこられた人たちを見て、芽衣ははっとした。
「この人らはね、シャリファの子や孫、それからひ孫ですよ」
そう言って老女に紹介されたのは、この村の人々よりもわずかに肌の黒い人たち。褐色の肌に黒髪という、話で聞いたシャリファの特徴をわずかに受け継いだ人たちだった。
おじいさん、おばあさん、おじさん、おばさん、若い女性の腕に抱かれた小さな赤ん坊まで、ひかえめな絵顔を浮かべてアラインと芽衣を見ていた。
「……そうか。シャリファは伴侶を得たのだな」
シャリファの子孫である人々を前に、アラインが呟いた。
最初、芽衣はアラインが傷ついたのではないかと心配した。
眉根を寄せ、そっと下唇を噛みしめる表情は、悲しみに耐えているように見えたのだ。
だが、しばらく見つめていると、そうではないとわかった。
やがて深く息をつくと、アラインの顔には晴れやかな笑みが浮かんだ。
「そうか。ここで愛する者を見つけ、愛されて生きていったのだな」
満たされたやわらかな表情でアラインは言った。その言葉に、おじいさんが深々とうなずく。
「父は、母を十年かけて口説いたそうです。頑なに、誰とも添わず神に仕えると言っていた母も、十年かけて父の愛を受け入れたんです」
「愛を知ることは、いいことだ。……そうか。何も持たず不幸だった、祈ることしか知らなかったシャリファが、こんなにたくさんの家族を持つことができたのだな」
「母は、我が神アラインが愛を与えてくれたからだと、ずっと言っていました」
シャリファの息子に言われ、アラインはゆっくり顔をおおった。繊細な指のあいだからは、パタパタと涙の雫がこぼれて落ちる。
芽衣はただ黙って、その美しい涙を見つめていた。永遠にとけないと感じられた硬い氷がとけるように、救われたことによって泣く者の姿を。
「あの……この子なんですけど、抱いてもらってもいいですか?」
芽衣より少し年上くらいに見える女性が、そう言って腕に抱いていた赤ん坊を芽衣に差し出してきた。
「あ、赤ちゃん抱っこするの、初めて……」
「大丈夫です。もう首もすわってますから、そっとやさしく抱いたら」
「わあ……」
芽衣は腕を伸ばし、おっかなびっくり赤ん坊を受け取った。
左腕全体で支えるように乗せ、右手で包むように抱くと、そのやわらかさに思わず溜息がもれた。
赤ん坊は知らない人間に抱かれたというのに、泣きもせずキラキラした目で芽衣を見つめていた。そして、少しのあいだそうして見つめたあと、気に入ったというようにニパッと笑ってみせた。
「……かわいい」
まだ歯の生えていない口から甘い香りがほのかにただよってきて、芽衣の心は鷲掴みにされた。
「この子だけ、ばあちゃんに抱っこしてもらえてないから。まあ、ひ孫だから仕方ないんだけど。でも、今の聖女様に抱っこしてもらえてよかったです」
シャリファの孫である女性は、本当に嬉しそうに笑った。肌は白いが、黒い髪と目が美しくて、在りし日のシャリファはこんなふうだったかと思わされた。
「ねえ、アラインも抱いてあげて。赤ちゃんってね、あったかくてやわらかくて、すごいよ」
赤ん坊の母親に目で尋ねると、快くうなずいてくれた。だから芽衣はアラインの腕に、そっと赤ん坊を抱かせる。
「アライン、すごいね。こうやって、命って続いていくんだね」
「そうだな。素晴らしいことだ」
戸惑いながらも、アラインは赤ん坊を抱きしめた。小さくても熱い、立派に生きる命を。
愛する少女から続いてきた、たしかな生命の営みの証を。
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