第二章 穢れ満ちる②
夜になり、焚き火を囲んで夕食をとることになっても、芽衣は気落ちしたままだった。
もう自分は、二度と前と同じように笑えないような気がしている。そのくらい、誰かを恨み憎むという感情は芽衣を打ちのめしていた。
両親に大切に育てられ、友達に囲まれ、幸せに暮らしてきた。誰かのことをほんの少し羨ましいと思ったり、苦手や嫌いだと思ったりしたことはある。
だが、あんなに身体の内と外がひっくり返りそうなほど憎しみを覚えたことはなかった。これからも、きっとないと思っていた。
(……心の中に、黒いシミができたみたい。きっと、私の心はシミだらけだ)
誰にも見られる部分ではないが、透けているような気がして、芽衣は心臓のあたりをギュッと押さえた。
父や母にあわせる顔がない。大事にしてくれる彼らに、こんなに真っ黒な気持ちを抱えていることを知られたくない。
そう思うと、目頭が熱くなって、しみ出すみたいに涙がこぼれる。
「メイ、まだ気分がすぐれないか?」
しばらく落ち込むままにさせておいてくれたアラインも、泣きだしたのを見てついに声をかけてきた。
泣き止まねばと手の甲で涙を拭い顔を上げるも、アラインのくもりのない碧玉のような目を見てしまうとうまくいかなかった。
「ねえ……何があったのか話してください。目の前でずっとそんな姿を見せられて、聖森の浄化にも支障をきたして、それで何も知らされないっていうのな納得できないので」
エイラがまっすぐに芽衣を見つめていた。真っ向から正論をぶつけられて、芽衣はひるんだ。
これまでエイラに鋭い言葉や視線をぶつけられても、少し傷つくだけですんでいた。だが、今はちがう。後ろ暗いことがあるとこんなにも正論が怖いのかと、視線から逃れるように目を伏せる。
「あたし、聖女様が『許せない』って言うのを聞いたんです。穢れは、聖女様の中の恨みとかの負の感情に反応したんだと思います。だから、何に対してなのか、話してください」
口調は丁寧だが、それは詰問と何ら変わらない。
どうしようかとスカートの裾をギュッと握りしめてわずかに顔を上げたところ、サイラスと目があってしまった。
「私もあまり強く言いたくありませんが、聞かせていただければと思います。その、人に話せば楽になることもあると言いますし」
おざなりではあるが、サイラスはエイラに同意するようなことを言う。エイラと同じ意見なのが癪なのか、泣いている小娘の相手が面倒くさいのか。
どちらにしても彼にまで言われては、黙っていることはできない。
ナールもアラインも心配そうな眼差しは向けてくれるが、何も言わずに待っている。
胸の内を明かしても明かさなくても、どちらにしても失望させるだけだとわかって、芽衣は覚悟を決めた。
「……私ね、恋人と友達のことを、許せないって思ってるの」
パチパチと焚き火の中で枝がはぜる音だけが、その場に静かに響いている。
見上げれば、影絵のような木々の葉のあいだから夜空が見える。晴れているのに星々の光は自分には届かない気がして、芽衣は続きの言葉を口にした。
「ふたりは、私の知らないところでこっそり付き合ってたらしくて……深い関係になっていたんです。それで、大雨の日にふたりでバイクっていう乗り物に乗って帰ってるときに事故にあって……彼は意識を失ったままなんです。そのことを知らされた日、私も強風にあおられて増水した川に落ちて……この世界に来ました」
言葉を選んで、それでも本当のことが伝わるように話すと、芽衣の抱えているものはあまりに陳腐なものだった。口にしてみると、これのどこがあんなに力強い憎しみを生み出したのだろうという気持ちになる。
「友人に恋人を寝取られた、ということですか?」
「そうです。……ごめんなさい。大したことじゃないのに、大げさに取り乱してしまって」
「いえ。……それは腹も立つでしょう。憎むのは、ごく当たり前のことです」
意外にも、サイラスが共感してくれた。彼の言葉は実感がこもっていて、適当に相槌を打ったわけではなさそうだ。
他の人たちは、いまいちわからないという顔をしている。アラインは人ではないし、ナールは俗っぽいことには疎そうだから予想通りだった。エイラは、特に何の反応も示さない。「何だそんなこと」と言われると思っていたから、何も言われないことに芽衣は驚いていた。
「……よかった。村を焼かれ、両親を殺されたというような話ではなくて。メイ様を苦しめるものが、一緒に抱えて差し上げられるもので」
しばらく考えて、ほっとするようにナールが言った。
「裏切った友人や恋人の話は、いくらでも聞いてあげられます。メイ様の気のすむまで、いくらでも。でも、もし村を焼かれたのだったら、話を聞くこともきっと難しかったでしょう。そういった類の経験は、誰とも共有できないものですから……」
ナールは考えながら、言葉を選びながら言った。それは決して芽衣の問題を軽く扱っているわけではなく、きちんと受け止めた結果のことのように芽衣には思えた。これが彼なりの励まし方なのだろうと。
「……恋人がいたことがないから、正直わかりかねる部分もありますけど、すごく傷ついたっていうのはわかります」
めずらしく、エイラまでそんなことを言い出した。だが、口調も視線も鋭いままだ。これが言いたいことのすべてではないとわかって、芽衣は身構えた。
「聖女様は、その憎しみを他人事にしているのがいけないんだと思いますよ」
「他人事……」
責めるわけではなく、ただまっすぐにエイラは言った。抽象的なようでいて、それは非常に的を射た表現で、芽衣は自分では無自覚でいたことを射抜かれたようにハッとした。
「たぶん、幸せに生きてきて、悪感情を抱くことにあまり縁がなくて、だからこそ憎しみを持て余したってことはわかるんです。憎みたくないって思うのは、理解できますから。でも聖女様は、憎みたくないと思っているくせに許せてもいないのが問題なんですよ。許したいから憎みたくないんじゃなくて、自分の心が汚れるのが嫌だから憎みたくないんでしょう? そんなの、ずるくて汚い……」
心底軽蔑されているのがわかって、芽衣はひどく傷ついた。傷ついたのに、「そんなことない」と言い返すこともできない。エイラの言ったことは、そのとおりだったから。
許すこともできないくせに憎みたくないと思うのは、結局は芽衣のエゴだ。そのエゴを汚いと言われても、否定する言葉が出てこない。
「ちょっと憎むくらい、いいと思いますよ。そっちのほうが、きっと健全です。憎まないなんて、並の人間にできることじゃないんです。無理して歪むより、いっそ汚れてしまったほうがいいんですよ」
「……そうね」
エイラの言うように、ただまっすぐに憎むことができればどんなにいいかと芽衣は思った。それが正しい反応で、健全な心のありようだといわれれば納得できる。
だが、それでもまだそんな負の感情を抱えたくないと思ってしまうのだ。
どうして、裏切ったふたりのせいで、自分の心が汚れなければならないのだという怒りが身の内に存在することに気がついてしまった。
水たまりから抜け出す努力もしないまま、そのくせに泥はねが嫌だと嘆くような矛盾。
それを汚いと言われても仕方がないと自覚して、また芽衣の目には涙があふれてきた。
「はあ!? また泣くんですか? メソメソして、すぐに穢れにあてられて……何でこれが聖女なの」
まさかまた泣くとは思わなかったのだろう。たまりかねたというように、エイラが声を荒らげた。彼女なりに言葉を尽くしたのに芽衣の気持ちが持ち直さなかったことに、腹が立ったにちがいない。
ずっと言わずにいた本音まで、ポロッとこぼれでてしまった。
「お前ごときが選り好みをするような発言をするな! この方が今代の聖女として現れたのだから、お前はこの方にお仕えするだけでいいんだ」
さすがに今の言葉は捨て置けないと思ったのか、サイラスがエイラに怒鳴った。芽衣をかばったというよりも、エイラの暴言を認められないといった様子だ。
それに対して、エイラも黙っていない。
「異教徒は黙っててよ」
「たしかに私は異教徒だが、この旅に付き添う任を受けている。だから部外者のように言うな」
「あんたに何がわかるの? シャリファ様ならこんなことにならなかった。……がっかりするのも仕方ないってもんよ」
「今代の聖女様にお仕えするのがお前の役目だ。批判する立場にないとわきまえろ」
「立場立場って、あんた何なのよ。あたしは、自分の気持ちの話をしてるの!」
目の前で過熱していくふたりの言い争いがつらくて、芽衣はさらに泣いた。口論の原因は自分の存在だ。もっとしっかりしていてエイラに認めてもらえるような聖女であれば、エイラが不満に思うことも、そのせいでサイラスが彼女をとがめることもない。
そう思うとつらくて、どこかに消えてしまいたくなった。
「……ごめんなさい、ちゃんとするから……」
つらくてどうしようもなくて、それ以上言い争ってほしくなくて、芽衣はあえぐように呟いた。
すると、ずっと黙っていたアラインが、そっと芽衣の耳をふさいだ。それから、安心させるようにやわらかく微笑む。
「お前たち、もうよしなさい」
たしなめられ、ハッとしたようなエイラとサイラスは口論をやめた。互いを言い負かすことに夢中になって、周りのことを忘れてさえいたようだ。
「戸惑って当然だ。傷つき迷い込み、知る者もいない世界にやってきたのだから。本来ならその傷を癒やすことに専念できたはずのところを、こうしてこの世界の事情に巻き込んでいるのだ。それを憐れむことがあっても、責めることなどあってはならない」
めずらしく、アラインが強い口調で言った。それを聞いて、エイラが傷つき、悔しそうにするのを芽衣は見た。きっと「シャリファ様なら……」と言いたいのだろう。彼女の憧れであり、完璧な聖女のシャリファと比べれば、芽衣は何もかも正しくないのだから。
納得いかないエイラの顔を見て、芽衣は申し訳なくなったし、自分が情けなくなった。自分で言い返すことも、自分の正しさを主張することもできず、ただ子供のようにアラインにかばわれていることが恥ずかしい。
聖女の資質などというものがあるのなら、間違いなく持ち合わせてなどいないだろう。
そういったことすら、考えてしまっていた。
そんな芽衣の肩を、誰かがそっと叩いた。
「メイ様。俺は、メイ様が今代の聖女でよかったと思っています。あなたは、裏切られたというひどく傷つく経験を憎む以外の方法で解決しようとした。それは、すごいことなんですよ。弱ければ、不幸なら、憎むことしかできません。でもあなたは、そうではないでしょう? 憎みたくないという思いは、やがて許しに変わります。許しは祈りに通じるものだ。だから、あなたは聖女に相応しい」
ナールは、沈み込んでなかなか浮上しない芽衣の気持ちをすくいあげようと、懸命に言葉をつむいだ。懸命だが、そこに虚飾はなく、彼が心の底からそう信じてくれているのだとわかる。
憐れむだけのアラインとはちがい、ナールは芽衣を聖女だと認めてくれているのだ。そのことは、大きな力になった。
「……私、これからはもっと頑張ります。せっかく聖女になったんだから、ちゃんと役に立てるように」
涙をぬぐい、顔を上げて芽衣は言った。心の中にずっとあった、面倒なことに巻き込まれたという被害者意識は、霧が晴れるようになくなっていた。
「よく言ってくれた。われは、あの水の中でそなたを見出したときから、曇りのない無垢な魂だと思っていたよ」
我が子を愛しむように、アラインは芽衣を抱き寄せ、やわらかく髪を撫でた。彼は芽衣があるがままでそこにいるだけでいいと言っていたが、決意を固めたことは嬉しかったらしい。
「今の世には、シャリファが偉大な聖女のように伝わっているようだが、彼女もメイと変わらない、ただの少女だった」
夕食をすませ、ひとごこちついた空気の中、アラインがポツリと語りだした。
「親はなく、裕福な家の使用人だったシャリファは、その家の子供の病の快癒を祈ってこの世界にやってきた。彼女がいたところは、命を賭すような祈りが推奨される世界だったらしい。多くを持たずに生きてきた彼女は、それゆえ無欲だった。それが語り継がれるときには清く貴いものに感じられたのだろうが、持っているものの本質でいえば、シャリファとメイはとても似通っているのだ。ちがいは、シャリファは不幸で、メイは幸福だということだな」
焚き火はほとんど燃え尽き、音もなく小さな火を灯していた。アラインの声は、その静かな夜にとけていくようだった。これはきっと、誰かに語って聞かせるというより、思わず漏れ出た言葉だったのだろう。
語りながらアラインは、今は亡き恋人のことを思い出しているのだ。
「……メソメソ泣いてたと思ったら寝てるなんて、弱いのか図太いのかどっちかにしてよ」
いつのまにかアラインの膝を枕に眠ってしまった芽衣を見て、エイラは呆れたように言った。だが、その視線にも声にも、もうあまり険はなくなっていた。
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