第二章 穢れ満ちる①
翌朝、目覚ましをかけたかのようにパッチリと芽衣は目覚めた。
アラインに抱きしめられて眠ったはずなのに、寝台は冷たくなっている。ずいぶん前に起きだしたか、一緒には眠らなかったか。
何となく寂しい気持ちになって、芽衣はのろのろと起きだした。
「……何時かわかんないや」
脱いでいたブレザーのポケットからスマホを取り出して時間を確認するも、時計は止まってしまっている。写真を撮ったり見たりすることはできるのに、時計はずっと止まったままなのだ。たぶん、芽衣が濁流に落ちた瞬間から。
電波が届かないせいかとも思ったが、元の世界とすっかり隔絶されてしまったようで猛烈に寂しくなって、考えるのはやめにした。
「お父さん、お母さん、ミーちゃん……早く会いたい」
テーブルに乗ったミイの写真を撮ろうとしたところ、偶然ソファでくつろぐ父とカウンターキッチンで料理をする母が画面に収まったことがある。
その貴重な一枚をながめながら、芽衣は帰りたい気持ちを一層強くした。
浄化の旅を終えれば、アラインがひとつだけ願いを叶えてくれるという。その願いで元の世界に帰るために、頑張らなくてはならない。
決意を新たにし、芽衣は与えられていた部屋から出た。
「おはようございます、メイ様。昨夜はよく眠れましたか?」
食堂に向かうと、もうすでに起き出してきていたナールが、朝食の準備をしていた。彼に眠そうな様子はなく、朝からかいがいしく働いている。
「おはようございます。あの……いいベッドをありがとうございました。おかげでよく眠れました」
明るい中で見ると、あの寝台が急ごしらえなものだったのがわかった。つまり、日頃はこの神殿にないものを、芽衣のために用意してくれたということだ。それがありがたいやら申し訳ないやらで、芽衣は頭を下げた。
「いいんですよ。そういうお世話をするために俺は旅に同行しているんです。だから、そんな丁寧な話し方も俺には不要です。もっと威張っててください」
恐縮している芽衣に対し、ナールは屈託なく笑う。大きな図体に似合わない、少年のような笑顔だ。変にへりくだることはなく、心からよくしてくれようとする彼に、芽衣は本当に感謝した。
ナールの存在は、アラインとは種類の異なる救いだ。
「おはよう。起きていたのだな」
どこかに行っていたらしいアラインがやってきて、芽衣を見ると微笑んだ。
「おはよう」
昨夜のことを思い出して芽衣は少し恥ずかしくなったが、アラインに微塵も気にした様子がないのを見て、意識することをやめた。
「森に果実を採りに行っていたのだ。そなたが少しでも食べやすいものをと思ってな」
そう言って差し出されたアラインの両手には、色とりどりの果実があった。ブルーベリーやクランベリーのような、芽衣にも見慣れたものだ。これなら食べられそうだと思って、芽衣の身体は素直に反応した。
「ありがとう。朝食にはいつも果物を食べてるから、すごく嬉しい」
「パンも食べにくそうにしてらしたので、スープで炊いてみましたよ」
小さな果実を前に目を輝かせている芽衣に、ナールが得意げな顔をして皿を差し出した。その中には、お粥のようになったパンが満たされていた。
「ありがとう」
あまり食欲を誘う見た目ではなかったが、それでもナールの好意が嬉しい。だから芽衣は笑顔で受け取った。
「……甘ったれ」
いつのまにか、エイラとサイラスも食堂にやってきていた。
エイラは、芽衣を見てボソッと言った。聞こえてないと思っているのか、聞かれてもいいと思っているのか。どちらかわからないが、そんなことよりもエイラに鋭い視線を向けているサイラスが芽衣は気になった。
エイラは芽衣が嫌いで、そんなエイラをサイラスはよく思っていない。
旅を進めるうちに、この人間関係もどうにかできないものかと、朝食をとりながら芽衣は考えていた。
***
神殿を出発してから五日、一行は幌(ほろ)のついた荷馬車で次の目的地に向かっていた。
おそらくもっとも偉い人だと思われる老いた神官が、旅慣れていない芽衣を気づかって差し出してくれたのだ。「車輪がしょっちゅう外れるオンボロですが、捨てるにはまだもったいないので使ってください」と言っていたが、それはサイラスに対する牽制なのはわかった。
たしかに新しくはないが、今のところ車輪が外れることもなく、荷馬車は役に立ってくれている。
屋根のあるところに泊まれたのは最初の晩だけで、あとは野宿だ。だから、荷馬車は足代わりになってくれているし、夜は寝室の役割を果たしている。
「メイ、気分は悪くないか?」
隣に座るアラインが尋ねた。
御者役のナールやアラインは、たびたびこうして芽衣の様子を気づかってくれる。ただでさえ楽をさせてもらっているのにそんなふうに配慮されるのは恐縮だったが、そのときばかりは助かった。
「ちょっと目が回るかも。何だか苦手なにおいがしてきて、酔っちゃったのかな……」
ごまかしても仕方がないと思い、芽衣は正直に不調を訴えた。頭を低くしていないと耐えられないほど目の前が揺れているのだ。それに加え、胸に溜まるような不快なにおいが先ほどからしていて、気分が悪くなっていた。
「におい、ですか」
「穢れを不快なにおいととらえる者もいるからな」
「森が近づいていますからね。……今から行く森は、あまり状態がよくないんです」
芽衣の言葉を聞いたナールとアラインが、何だか困った様子で話している。どうやら芽衣の体調不良と、これから行く聖森の状態は関係しているらしい。
「浄化がすめば、そなたの身体の不調もよくなる。今しばらくの辛抱だ」
アラインはやわらかく笑って、芽衣の髪をそっと撫でた。アラインに撫でられると、猫にでもなった気分になる。ミイは撫でられるのが好きで、よく人の手の下に頭をすべりこませてまで撫でられようとしていた。その気持ちが少し芽衣はわかった。
撫でられるうちに少しずつ気分がよくなった芽衣は、ゆっくり顔をあげた。そして、エイラの異変に気づいた。
「エイラ、あなたも気分が悪いの?」
向かいにいるエイラを見ると、足を投げ出して目を伏せていた。狭い車内なのを気にして、これまでどんなに勧めても足を伸ばすことはなかったのに。
「穢れが近づけば、そりゃ気分も悪くなりますよ。でも、においまでは感じてないから大丈夫です」
心配されるのが嫌だったのか、エイラは芽衣を一瞥すると、プイッとそっぽを向いてしまった。
(しっかり嫌味を言えるってことは、まだ元気はあるのかな)
苦笑いを浮かべて、芽衣はそれ以上何も言わなかった。
というよりも、馬車が聖森の前に到着し、それどころではなくなったのだ。
「……何だか、息苦しい」
森へ一歩足を踏み入れると、芽衣は全身が圧迫されるような気がした。
芽衣にとって森といえば、澄んだ空気に満ちた場所というイメージしかない。住宅地よりも空気がきれいで、静かで、時折心地よい風が吹くというような。
だが、芽衣たちが今進んでいる森は、そういった清らかなものとは真逆だ。聖森の“聖”の字とは何だろうと、考えてしまいたくなる。
「空気がよどんでいるな。生の気配が感じられない……」
誰も何も言わず歩く中、アラインが呟いた。気になって芽衣は彼の顔を見上げたが、そこに表情の変化はなかった。
ただ、身にまとう雰囲気が普段より硬い。緊張しているのだなと芽衣は気づいた。
重い身体を引きずるようにして歩きながら、芽衣はこの森の雰囲気が富士の樹海に似通っていることに気がついた。キャンプ場やハイキングコースとしての青木ヶ原ではなく、自殺の名所や心霊スポットとしてのだ。
その場所に行ったことはないが、テレビの心霊番組で何度か見たことがある。生きた人間を寄せつけない陰鬱さを感じて、幽霊など見たことがなくても、芽衣はおそろしいと思ってしまう。
そんなことを考えてしまったからだろう。この森の中にもオバケか何か、得体の知れないものが潜んでいるような気がしてきた。じめっとした不快な空気は、そういった気味の悪いものが暮らすにはちょうどいいように思える。
「……何?」
聖木――アラインが力をふるうための依り代――を目指して黙々と歩いていると、ふいに笑い声を聞いた気がして芽衣は足を止めた。一緒に歩いている者たちはみな、そんな芽衣を不思議そうに見ている。
「今、誰かの笑い声を聞いた気がしたんだけど……気のせいだったみたい」
心配そうに見つめるアラインとナールにあいまいに笑ってみせて、芽衣はまた歩きだした。そして、気のせいだと思いこもうとした。
だが、そうして気にしない、気のせいだと思おうとすればするほど、挑発するかのように笑い声は耳にまとわりついてきた。聞くまいとするほど意識がそちらに傾いてしまうのか、頭はその笑い声のことでいっぱいになってしまっている。
そのうち、その笑い声が聞き馴染んだ人たちの声のように聞こえてきた。繭香の声に、裕也の声に、芽衣を笑うふたりの声に。
そう思うと、もうだめだった。
「……許せない」
ドクリと、粘度の高い何かが身体の奥からわきあがるような感覚がしたかと思うと、気がつけばそんな言葉が口から飛び出していた。
怒りが……それを超える何かがドクドクとあふれだしてきて、いつしか芽衣の心を支配する。
これまで考えてもみなかったのに、繭香と裕也に対する“許せない”という感情がせきを切って止まらなくなった。考えないように蓋をしていたはずなのに、その蓋はあっけなく開いてしまった。
あのふたりに笑われるなんて、我慢ならないことだった。芽衣を裏切ったふたりに。裏切っただけでなく、今大変な状況にある芽衣のことを馬鹿にするなんて許せない。
繭香が裕也に横恋慕しなければ、裕也が繭香の誘いに乗らなければ、あの日芽衣は川に落ちなかったかもしれないのに。
川に落ちなければ、知らない世界に来ることもなかったし、家族と離ればなれになることも、まずいご飯を食べることも、ヘトヘトに疲れるまで歩くことも、お風呂に入れず気持ちの悪い思いをすることもなかったはずなのだ。
それなのに、あのふたりが笑っているなんて許せないことだ。
(許せない許せない許せない許せなユルセナイ許せない許せない許せない許せないゆるせない許せない許せない許せない許せない許せないユルセナイ許せない許せない許せない許せない……)
思考が真っ黒に塗りつぶされていく。そのことをわずかに残った理性が恐れたが、芽衣にはどうすることもなかった。
「……しっかりしなさいよ!」
唐突に、ものすごい衝撃が芽衣を襲った。頬に焼けるような痛みが走ったかと思うと、耳の奥でガキンと金属が打ち鳴らされたような音がする。身体がよろめいて、ようやく自分が引っ叩かれたのだた気づく。
「あんた、何を考えてたの!? 目を見開いて返事もしないし、ブツブツ何か言ってるし……あとちょっとで持って行かれるところだったんだから」
「……ごめんなさい」
どこに何を持っていかれるのかはわからないが、自分が非常にまずい状況にあったのはわかった。エイラの剣幕を見れば、彼女が必死で引き戻してくれたのだということも。
「森が溜めこんだ穢れにあてられたのだな。不慣れなメイにとって、ここの穢れは強烈すぎたのだ。今、払ってしまおう」
いつまにか聖木までたどりついていて、アラインが幹に触れていた。
変なものに気を取られていたばかりに舞なしで彼に力を使われなければならないとわかって、芽衣はハッとした。だが、気づいたところでもう遅い。
アラインは木に力を吹きこみ、それは光となって森を満たしていく。光が弾け降りそそぐごとに、森に充満していたよどんだ気は薄くなっていく。
一番最初に聖森を訪れたときは、浄化が終われば芽衣の心も身体も軽くなっていた。だが、今回は浄化が終わっても、芽衣の心は沈んだままだ。
ただただ、憎しみに心を明け渡してしまったことが怖くて、エイラの鋭い視線が痛かった。
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