第一章 聖女と竜④

 それからずっと歩いて、空の端の色が変わろうとする頃、ようやく一行は目的地にたどり着いた。

 芽衣は慣れない徒歩での移動で、心身ともにヘトヘトだった。それに、休憩したときに水を飲んだきりで、何も食べておらずひどく空腹だった。


(せめて飴とか食べられたら、少しはマシなんだけど……)


 そんなことをふと思ってしまうが、持っていたはずのカバンはなく、こちらの世界に持ってこられたものといえばスマホくらいだ。

 ワケありの貧しい旅なのはわかっているから、お腹が空いたということも軽々しく口にできなかった。


「聖森での浄化を終えれば、そのあと奥の神殿で一泊しますので。食事も、それまで辛抱してください」

「はい……」


 サイラスの義務的な言葉に、芽衣は力なくうなずいた。エイラほどわかりやすい刺々しさはないが、それでも彼がサクサク旅を進めたいのは伝わってくる。だから、芽衣の体力のなさに呆れていることも。

 疲れて弱った心には、そういったわかりやすい態度は地味にこたえた。


「シャリファ様は美しい歌声によってアライン様はに力を与えたと伝えられていますが、メイ様はどのようなことをなさるのですか?」


 ゆっくりと森の中を進みながら、ナールが芽衣に尋ねた。その目は好奇心に輝いており、悪気がないのがわかる。


「シャリファの歌声は、それは見事なものだった。メイがどのようなものを与えてくれるのか、楽しみだ」


 蔦が無数に絡まる木――この森の中でそれだけが別格だとわかる――の前に立つアラインが、やわらかな笑みを浮かべて言う。こちらも一切の他意のない言葉だとわかるが、ハードルをあげられた気分に芽衣はなった。


「……じゃあ、バレエという踊りを習っていたので、ちょっと踊ってみます」


 何かしなければすまない空気をひしひしと感じ、芽衣は腹をくくった。

 音楽もなく、しかもローファーで踊るというのは初めてで、正直自信はない。だがそれよりも、歌声にコンプレックスしかないから、歌うという選択肢はないのだ。

 深呼吸ひとつして、芽衣は最初のポーズをとった。

 踊るのは、発表会で披露する予定だった演目だ。

 悲しげなヴァイオリンの入りを頭に思い浮かべて、芽衣はゆっくりと片脚を上げた。そこから、目を伏せて憂いをにじませながらゆっくりと回る。

 これは、結婚する前に死んでしまった乙女たちが森の精霊となって舞い踊るシーンだ。芽衣が演じるのは恋人に裏切られたショックで死んでしまったヒロイン。

 本当は、ヒロインの魂を求めて森へやってきた恋人役の男性とのパ・ド・ドゥなのだが、ひとりで踊らなければならない。だから、男性に抱えあげられるところは、クルクル回るピルエットと、片足を投げ出して高く跳躍するグランジュッテでアレンジした。

 見ている人たちに悲しみが伝わるようにと、芽衣は踊りながらヒロインに想いを重ねてみた。

 身体が弱いが踊りの好きな村娘。彼女はある日、ひとりの青年と出会い、恋をする。だが、彼は本当は身分を偽った貴族で、婚約者がいるのだ。やがて、そのことを知ってショックのあまりヒロインは死んでしまい、森の精霊となる。


(今なら私、ジゼルの気持ちがわかるかもしれない……)


 そんなことを芽衣は思う。踊りながら頭に思い浮かぶのは、裕也と繭香のことだ。

 芽衣の知らないところで、結びついていたふたり。

 会える時間は減るけど応援してると言っていたくせに。

 せっかくの晴れ舞台だから観に行くよと言っていたくせに。

 いつから、どうして、一体何を考えて……そうやって思いがあふれて、気がつくと芽衣は泣きそうになっていた。

 必死で涙をこらえてお辞儀をすると、ふわりと清涼な緑のにおいに包まれた。


「悲しい、だが美しい踊りだった。踊りに思いをのせるうちに、悲しくなってしまったのだな。優れた舞手や歌い手というものは、心の器が繊細だというから、仕方があるまい」


 そっと抱きしめてくれたアラインが、そう言って芽衣の背中をポンポンと叩く。まるっきり子供をあやすしぐさだが、安心して、芽衣の目からポロポロと涙がこぼれ落ちる。

 悲しいのは、彼氏と友達に裏切られたことだけではない。こうしてひとり知らない世界にやってきて、不安でいっぱいだったというのも理由だ。

 家族や慣れ親しんだものが恋しくて、芽衣は泣いた。

 我慢できると思っていたし、泣いてはいけないのもわかっている。だが、いつのまにかいっぱいいっぱいになっていたのだ。


「よしよし。森の穢れにあてられたのもあるのだろう。今、払ってしまうからな」


 アラインはその長く繊細な指で芽衣の涙を拭うと、再び大きな木に向かっていった。

 ナールのローブに描かれた紋章に似た、蔦の絡む大きな木。

 その幹に手を当て、アラインは低く何かを唱えた。

 それはきっと、人間に語りかけるための言語ではなく、自然と対話するための言語なのだと芽衣は思った。そして、この木はアラインが世界に力を及ぼすための依り代なのだと。

 アラインがそうしてしばらく幹に触れていると、木の内側が光り、静かに鳴りながら震え始めた。震えながら、内側の光が小さな粒となって飛び立っていく。それは、洞窟で見せてもらったあの蛍のような光。

 それらがゆっくりと瞬きながら空にのぼっていくにつれて、森の中の空気が澄んでいくのを芽衣は感じていた。

 息苦しさを感じるのは濃すぎる緑の気配のせいだろうと思っていたが、そうではなかったらしい。


「なるほど……たしかに、穢れが満ちていたのだな」


 黙って見守っていたサイラスが、思わずといった様子でもらした。

 おそらく、実際に自分の目で見るまでアラインのことも、彼の浄化のことも信じていなかったにちがいない。

 心なしかアラインに向ける彼の目が変わったように芽衣は感じた。


「異教徒は穢れなんて意識してないからいい気なもんね。あたしたち森の民は、やっと息ができる思いよ」


 軽く感心するサイラスに腹を立てたように、エイラは鋭く吐き捨てた。だが、彼女が見ているのは芽衣のほうだ。芽衣にも不満があるらしい。


「……異界から来た聖女なのに、森の穢れにあてられるなんてね」


 言外にシャリファと比べられているのがわかって、芽衣の心はチクリと痛んだ。

 アラインの最愛の人だった彼女が、優れた聖女だったことは理解できる。だが、ことあるごとに比べられているような気がするとつらい。


「不慣れなうちは仕方あるまい。気を張るよう言ってなかったわれも悪いのだ」


 アラインがかばうように言うと、エイラはますます面白くないといった顔になる。そのことに芽衣の気持ちはさらに傷ついたが、疲れていてそれどころではなかった。



「……ここが、神殿なの?」


 ナールの案内で森の奥へと進み、一行はある建物の前までやって来た。その建物を見て、芽衣は驚き、落胆してしまった。

 今夜泊まるという場所が、遺跡と見まがうボロボロな姿なのだ。がっかりするなというほうが無理がある。


「ボロボロでびっくりしましたか? これでも、日々せっせと修繕してるんですが。おかげで俺たちは神官なのに、みんな力がついてしまって」


 申し訳なさそうに、恥ずかしそうに頭をかくナールの二の腕には、たくましい筋肉が盛り上がっていた。

 日々、この瓦礫の山のような石造りの建物を直しているのだろう。どうりでがっしりしているわけだと、芽衣は妙なところで納得した。


「大きな地震とか、災害があったの?」


 かろうじて雨風をしのげるといった痛ましい姿の建物を見て、芽衣は尋ねた。ナールの言葉どおり修繕のあとはあちこちに見られるが、それでもどうにもならない壊れ方をしている。


「地震ではなく、百年前の戦のときに……。シアルマは、まずネメトの森と神殿を攻撃することに執心したんです。それが彼の信条で、教義だったらしくて」


 困った顔をして、ナールは芽衣に語った。

 容赦なく壊された姿は災害の爪痕を思わせるのに、これが人の手によるものだとわかって芽衣はゾッとした。日本でいうなら、神社やお寺が攻撃されるようなものだ。


「……ひどいね」

「聖森に穢れを溜め込む機能があるとようやく理解されて、近年は攻撃されなくなったんですけど」

「攻撃しないだけで、重きをおいているわけでもないのだろう」


 神殿をジッと見つめ、アラインが低く呟いた。

 この中で唯一、壊される前の姿を知っているのは彼だ。在りし日の姿を知っているだけに、胸の痛みも強いにちがいない。

 サイラスのほうをチラッとうかがうと、苦々しい表情を浮かべていた。何も感じていないようならどうしようと芽衣は思っていたから、それを見て少しほっとした。


「さて、こうして外からながめていても仕方ありませんから、どうぞ中へ。大したおもてなしはできませんが、休むくらいはできますよ」


 暗い気持ちになっている芽衣たちに、ナールは笑顔で言った。

 疲れてヘトヘトになっていたから、芽衣はうながされるまま神殿に足を踏み入れた。



 その夜、芽衣はなかなか寝つけずに何度めかの寝返りを打った。

 芽衣が暮らしていた現代日本とはちがい、電気のないこの世界は暗くなれば寝る時間となる。だから、芽衣にとって寝るには早すぎるというのもあったかもしれないが、何もかも元いた世界とはちがいすぎるのいうのも、眠れない理由だった。


「……身体が痛い」


 用意された寝台は、わらをぎっしり集めたものに布を敷いただけの簡素なもので、チクチクして痛い。

 それに、食事もあまり喉をとおらなかった。

 神殿の人々は芽衣たちにかいがいしく世話を焼いてくれた。用意された食事は神殿においてはかなり豪勢なもので、精一杯のもてなしだと感じた。だが、疲れ果てた身体にカチカチのパンや噛みごたえのある肉はつらくて、芽衣がまともに口にできたのは具の少ないスープだけだった。


(お風呂に入りたい。着替えたい。甘いものが食べたい。ミーちゃんを抱っこして癒やされたい……)


 元の世界のことを思い出すと、途端に自分がワガママになったように思えて、それもまた芽衣は嫌だった。


「せめて、ミーちゃんがいれば……」


 かなわないとわかっていても、こんなふうに眠れない夜は愛猫のミイが恋しくなる。

 芽衣が中学生のときに縁あってもらわれてきたミイは、長毛種の雑種で、サバトラの甘えん坊な猫だ。気まぐれだが、芽衣が眠れずにいる夜は、決まってベッドに来てくれる優しいところがある子だ。

 あの手ざわりとぬくもりを思い出すと、寂しい気持ちが刺激されて涙が出そうになる。泣いてもつらいだけだから、泣くまいと決めているのに。


「起きているのか?」

「……!」


 音もなく部屋の戸が開き、誰かが入ってきた。突然で驚きつつも、声と物言いで芽衣はすぐに誰かわかった。


「アライン……どうしたの?」

「そなたが眠れずにいるのではないかと思ってな」


 言いながら数歩で近づいてきて、アラインは寝台に腰をおろしていた。アラインの重さで寝台がかしいで、転げそうになった芽衣は彼に寄りかかる格好になる。


「身体がきついか?」

「……うん」

「まだ、こちらの世界に安定していないからだろう」


 急に距離が近づいてドキドキしたいる芽衣とはちがい、アラインは平然としている。観察するように芽衣を見つめると、唐突に顔を寄せてきた。


「んっ……」


 抵抗するまもなく唇をふさがれる。また、あのキスだ。洞窟の中でした大人のキス。

 深く深くつながるように口づけられるうちに、身体の中に何かが満ちていくのを感じる。それにつれて、ぬかるみにはまっていたかのような全身の怠さが、少し薄らいでいく。


「……アラインが、力をくれたの?」


 呼吸を乱して見上げれば、アラインが微笑んでいた。


「聖森での浄化は、聖女も消耗するからな。消耗したぶん存在が揺らぐから、われがそれを補う必要がある。それにこうすれば、少しは寂しさが紛れるだろう?」


 言いながらアラインの指は芽衣の髪を、それから輪郭を撫でた。そんなふうにされると、まるで猫にでもなった気分だ。

 気持ちがいいと思ってしまい、言い表せない高揚感と後ろめたさかわ胸の中にわきあがってくる。


「……あ、あの……番(つがい)って、夫婦とか恋人ってことだよね? ってことは……するの?」


 キスの先の行為を想像して、芽衣は身構えた。

 裏切られたとはいえ、芽衣には裕也がいる。にもかかわらずアラインとキスをしたり、それ以上の関係になることはためらわれた。

 それに何より、まだ経験したことがないから、怖い。

 美貌のアラインを目の前にすると胸がときめくが、それとこれとは話が別だ。


「そのような、無理を強いることはしない。口づけは、われからそなたに力を分け与えるのに都合がいいからしているだけだ。そなたに力をもらうのは、舞を見せてもらうだけで今は十分だから、安心するといい」


 落ち着かせるように優しく笑って、アラインは芽衣の頭に手をおいた。ジッと見つめてきても、その目の中に熱情はない。どこまでも凪いだ、おだやかな眼差しだ。大人が子供を見守るような、そんな優しさに満ちている。


「……シャリファもこちらに来たばかりの頃、眠れなくて困っていたのだ。だから、メイもそうなのではないかと思ってな」

「そっか」


 アラインの心には先代の聖女・シャリファがいるのだと、芽衣は思い出した。思い出して、勝手にドキドキしたことが恥ずかしくなる。


「人の身体には眠りが必要だ。今宵はそばにいてやる。だから、安心して眠りなさい」

「はい」


 アラインは小さな子供をあやすように芽衣を抱いて、寝台に横になった。この行動に下心がないのがわかるから、芽衣も抵抗しなかった。

 清らかな水と緑の香りに包まれて、芽衣の高ぶっていた気持ちは少しずつ静まっていった。あれほど眠れないと感じていたのに、目を閉じると心地よい眠気がひたひたと身体をおおっていく。

 普通なら、出会ったばかりの男性に抱きしめられて同じベッドに入るようなことはありえない。だが、こうして抱きしめられてもアラインが相手だと、まるで大きな木に寄りかかって休んでいるような安心感しかないのだ。

 それに、アラインには思っている人がいる。もう死んでしまっていても、二度と会えなくても、ずっと愛しい相手が。その一途さが眩しくて、芽衣にとっては信頼できた。

 そうして静かにふけていく夜の中、優しい他人のぬくもりを感じながら芽衣は眠りについた。

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