第一章 聖女と竜②
騒々しい足音と気配が近づいてくるにつれて、洞窟の中が明るくなってきた。明るさの正体が松明(たいまつ)なのだとわかったときには、それを手にした人々がずらりと芽衣の前に姿を現した。
「――――!」
松明を手に現れたのは、たくさんの男たちだった。その男たちの先頭に立っていた者が何ごとかを叫ぶと、全員が一斉に地面に膝をついた。
「……何? 怖いよ」
男たちのその姿は、まるでかしずいているようだ。世界史の資料集か何かで見たことがある、中世の騎士のような者たちにひざまずかれ、芽衣は混乱し、震えた。
『聖女様、と呼びかけられたのだ。世界を救う存在として、敬意を払う払われている。だから、怯える必要はない』
「何それ……え……!?」
竜の言葉に戸惑ったのも束の間。さらなる混乱が芽衣を襲う。竜の体がひときわ輝き、その光に目がくらんだかと思うと、そこから人が現れたのだ。
まばゆい銀の長い髪と、宝石のような黄緑の瞳を持つ美貌の青年。それが竜だとわかったが、何が起きているのかまでは頭が追いつかない。
『われは人の姿をとることもできる。……順を追って説明してやりたかったが、人が来るのが早すぎたな。それに、時間もない』
人型になった竜は、スッと芽衣を指差した。
「……何これ!?」
竜の指先と視線をたどって自分の身体を見て、芽衣は今度は悲鳴をあげた。身体が、透けていたのだ。
「消えてる! やだ……私の身体が消えてる!?」
突然現れた騎士たち、聖女という呼びかけ、人化する竜――ただでさえ頭を抱えて逃げ出したくなるほど混乱しているというのに、さらにはかすみのように自分の身体が透けているのだ。恐慌状態に陥らないほうがおかしい。
『娘よ、落ち着きなさい。異界より来たそなたの存在は、不安定なのだ。われが異界の娘であるそなたの力を必要とするように、そなたにもわれが必要なのだ』
「何それ! 意味わかんない!」
芽衣のパニックを前にしても、竜は落ち着いたままだ。低くおだやかな声で、なだめるように語りかけてくる。その様子が芽衣の混乱をまったく理解していないようで、芽衣は腹が立ってきた。
「聖女とか世界を救うとか、意味がわからないよ! 身体が消えちゃうのも! 私、死にたくなかっただけなのに、何でこんな……」
小さな子供が駄々をこねるように、地団駄を踏む勢いで芽衣は叫んだ。だが、そのうちに力が入らなくなり、その場にしゃがみこんでしまう。
『そのような状態で、いたずらに身体を消耗させてはならない。……頼むから、落ち着いて話を聞いてくれ』
さすがに子供のようになられては、竜もうろたえたらしい。まぼろしのように美しい姿をした竜は、騎士たちのように膝をつき、芽衣の肩を抱いた。それから、落ち着かせようと、背中までまっすぐに落ちる癖のない黒髪を撫でた。
『死にゆくそなたを救うには、われにはこれしかできなかったのだ。われはそなたをそばに呼び寄せることしかできなかった。そして、消えぬようつなぎとめてやることしかできない』
竜は繊細な手つきで、芽衣の髪を撫でつづける。初めは頑なにいやいやと頭を振っていた芽衣も、そのやわらかな手つきに次第に落ち着きを取り戻していった。
「……つなぎとめられたら、帰れなくなるの?」
このまま消えたくないと恐れながらも、元いた世界に帰れなくなるのも嫌だった。選択肢がほかにないとわかっていても、それをただ受け入れることはできなかった。
髪を撫でられて思い出すのは、優しい両親のことだ。このまま帰れなければ、彼らにとって芽衣は死んだのと変わらない。ひとり娘の芽衣が死ねば、両親はきっとこの世の終わりよりも悲しむだろう。
彼らに二度と会えないことも、彼らがうんと悲しむことも、芽衣には耐え難い。
『そなたがわれに力を貸してくれ、われが役目を無事におおすことができれば、願いをひとつ叶えてやれる。それで、元の世界に帰りたいと願うといい』
「願いごと……」
帰る手立てがあるとわかっても、まだ納得できなかった。芽衣には何の得もない取り引きに思える。……得とか損ではなく、死にたくなければ竜に従うしかないのも、理解しつつはあるが。
『……すぐには納得できぬだろうな。これは、ほとんどがわれの事情にそなたを巻き込んでいるのだから』
「どういうこと?」
『われは遥か昔に、世界の穢れを払うと人間と約束した。穢れを払うためには、異界の乙女の力が必要になる。だから、われは意思の疎通ができた乙女をこちらに招くのだ。世界と世界の壁を越え話ができるのは死に瀕したものばかり……そのせいで、半ば騙すように連れてきてしまうことを、すまないと思っている』
低く落ち着いた声は耳に快く、いつまでも聞いていたいと思うような魅力があった。そんな声が心底すまなさそうに言うのだ。心を動かされ、芽衣は顔を上げた。
濁流の中で呼びかけてくれたこの声にすがるしかないことを、ようやく理解した。
「……どうやったら、つなぎとめることができる?」
覚悟を決めて、芽衣は竜を見つめた。ペリドットの瞳が、ごく近いところから見つめ返してくる。
『われと番(つがい)になるのだ。番になれば、われはそなたから力を得ることができ、そなたをこの世につなぎとめることができる。竜と聖女とは、そのようにして結びつくのだ』
「番って、夫婦とか恋人のこと?」
『そうだな。この世にただひとりと心に決め、気持ちを傾ける相手のことだ。……そなたの心に、別の者がいるとわかっているが』
どうかこの話を飲んでくれと、そう説得するように竜は芽衣を撫でる。その指先から伝わる優しさに、芽衣はうなずく。
心に別の誰かがいるというのは、竜も同じなのだのわかったから。
『そなたがわれを番の相手と……仮初の番の相手と認めてくれるのであれば、口づけを。そうすれば、そなたの存在をつなぎとめることができる』
肩を抱いて芽衣を立たせると、竜は高いところから見つめてくる。こうしてすぐ近くで見上げて気づいたが、竜はずいぶんと背が高かった。
裕也とは十センチくらいしか身長差はなかったし、父もそこまでの長身ではない。だから、芽衣にとっては慣れない高さだ。
それに、線は細くとも竜はがっしりしていることがわかる。まだ大人の身体になりきっていない裕也とは、そういった意味でもちがっていた。
(……裕也と比べたって、仕方ないのに)
キスが彼氏を裏切る行為に思えて、芽衣はつい裕也のことを思い出してしまっていた。でも、彼は繭香とそれ以上のことをしたのだ。芽衣ともまだしたことがないようなことを。
そのことを思うと馬鹿らしくなって、芽衣は腹をくくって目を閉じた。
『そなた、名は何というのだ?』
「え……芽衣。須崎芽衣」
覚悟を決めたのに、竜はすぐには触れてこなかった。目を閉じたままなのもきまりが悪くて、芽衣は目をあける。すると、すぐそばまで美しい顔が迫ってきていた。
切れ長で形のいい目を縁取る睫毛も髪と同じ白銀なのだとわかる距離まで近づいて、芽衣はあわてて目を閉じた。
『メイ……そうか。われの名はアライン』
息のかかるほどの近さでそう言って、竜は――アラインは芽衣の唇を塞いだ。
触れるだけの、形だけのキスだと思っていたのに、アラインは芽衣をすぐに離そうとはしない。それどころか、キスはどんどん深いものになっていく。芽衣もあまり味わったことのない、大人のキスだ。
当然、芽衣にとって初めてのキスではなかった。裕也にもほんの数回、大人のキスをされたことがある。でも、アラインに与えられるのは、芽衣にとっては本当に未知のものだった。
「んっ……」
角度を変え、深さを変え、アラインは何度も何度も芽衣の唇を吸い上げる。そのたびに身体が熱くなり、力が満ちていくのを感じていた。
目を閉じているから確かめることはできないが、自分が実体を持っていくのがわかる。先ほどまでの不安定な存在ではなくなっていくのが。
(……これは、アラインの記憶?)
力と一緒に流れ込んでくる映像があった。
美しい景色。微笑む人々。アラインを見つめているだろう少女の姿も何人も出てきた。たくさんの映像の中、特にくりかえし出てくる少女もいた。
褐色の肌に黒檀のような黒髪が特徴の、目鼻立ちのはっきりした美少女。彼女を見つめる眼差しの優しさも伝わってきて、その少女がアラインの恋人なのだとわかった。
「アラインが言っていた恋人って、私と同じ聖女だったのね……」
唇を離して、まず最初に尋ねたのはそのことだった。アラインの記憶が流れ込んできたことで、芽衣は彼がどれだけ恋人を愛していたのかも、彼女と離れるときどれほどの苦しみと悲しみを背負ったかもわかってしまった。だから、聞かずにはいられなかった。
「そうだ。シャリファは、先代の聖女だったのだ」
「そうなんだ……悲しいね」
悲しみとあきらめが同居するアラインの顔を見上げ、芽衣は言った。十七歳の、ただ幸福に生きてきた少女にとっては、これが精一杯の言葉だった。
それでも、寄り添う気持ちは十分に伝わったらしい。
「ありがとう。われの悲しみを受け止めてくれて」
そっと壊れものに触れるかのように、アラインは芽衣の身体を抱きしめた。両腕が細い芽衣の腰を引き寄せ、首筋に鼻先をうずめる格好になると、アラインのまとう芳香がただよってきた。
清い水辺の、ほんのりと青さを含む澄んだ水と緑の匂いだ。その香りをかいで、芽衣はこの美しい青年が人間ではなく、自然に近い存在なのだとわかる。
「儀式が無事に執り行われましたこと、見届けました」
「えっ、あ、はい……」
騎士たちの中で一番偉いと思しき人物が、立ち上がり、そう高らかに言った。
唐突に声をかけられ、芽衣は飛び上がりそうなほど驚いた。すっかり忘れていたが、アラインとふたりきりではなかったのだ。
キスも今の抱擁も、すべて見られていたのだと思うと、顔から火が出そうなほど芽衣は恥ずかしくなった。だが、アラインは気にした様子はない。抱擁をとくと、芽衣の頭にポンと手をおいた。
「彼の話していることがわかるか?」
「あ……そういえば、言葉がわかるようになってる。アラインがやってくれたの? どうやって?」
騎士の言葉は芽衣の知っているどの言語でもないのに、すっかり理解できるようになっていた。アラインの話すことも、意味がわかるという感覚から、まるで日本語と変わらないように伝わってくるようになっている。
「そうだな。そなたにもわかる言葉で言うならば、神力(しんりき)や神の通力(つうりき)と呼ばれるものだ」
「神の通力……アラインは、神様なのね」
今さらのようなことに気がついて、芽衣はハッとした。でも、竜だというだけでもうすでに驚きだし、不思議な力も並外れた美貌も、神だと言われれば納得がいく。
「では、竜神様と聖女様。これより、祠の外にご案内いたしますので」
芽衣とアラインのやりとりを見守っていた騎士は、しばらくしてそう促した。それを聞いて、「ここは祠なのか」と思いながら、芽衣は促されるまま騎士に続いて歩いた。
小舟に乗って、洞窟の中の水路を進んでいく。遠くにぽっかりと出口が見えるようになってから、青く光る洞窟内の景色に芽衣は見入っていた。
外の光で水面が輝き、その水の青さを受けて天井や岩壁も青く見えるのだ。それはまるで夜空を渡っているようで、芽衣はしばらくうっとりしていた。
「明るいのが好きなのか。それなら、こうしてやろう」
芽衣を微笑んで見つめていたアラインは、指をパチンと鳴らした。すると、彼の指先から光が生まれ、弾け、蛍のように飛んでいった。その青白い儚い光を、芽衣は嘆息しながら目で追った。
「すごい。……こんな力があるのに、聖女が必要なんだね」
楽しげに飛び交う光を見つめて、芽衣は考えた。これから自分は何をさせられるのだろうか、と。アラインに何をしてやれるのか、と。
ここではない場所から来たのはたしかでも、それ以外はいたって普通だ。むしろ、特技という特技はないに等しい。バレエを習っているから身体が人より柔らかいことくらいだ。踊ることは好きだが、それが特技と言えるかは微妙だ。
「異界の娘は、異界から来たというだけでわれに力を与えてくれるのだ。竜は本来、時空を越えて様々な世界を旅するものだ。そうして旅して力を蓄えるものなのだが、われはひとつの世界に……ここに留まることを選んだ。だから、穢れを浄化するほどの力をふるうには、異界から来た娘が必要なのだ。娘がその身に帯びた異界の気が、われの力になると言えばわかるか?」
「いるだけで、いいってことね」
アラインの説明を聞いても、芽衣はわかったようなわからないような気分だった。だが、特に何もしなくていいと言われれば、とりあえず飲み込んでおくほうがいいだろう。
「そういったお話は、もうされているかと思っていましたが」
それまで無言で小舟を漕いでいた騎士が、そうポツリと口を挟んできた。たくさんいたはずの騎士たちは、もう先に出ていってしまったようだ。残されたひとり、リーダー格らしい彼の物言いが、芽衣は少し引っかかった。
「おぬしたちが早く来たせいで、ろくな説明もできなかったのだ。本来ならば、こちらにつなぎとめ、落ち着かせてから様々なことを話してやるべきだったのに。……メイの心を無用にかき乱してしまうことになった」
騎士の物言いが気になったのは芽衣だけではなかったようだ。アラインは、ずいぶんと冷ややかな口調で騎士に文句を言った。芽衣に対してアラインの声は笑みを含んだやわらかいものなのに。
「それは失礼いたしました。ネメトの神官が旅の支度を整えて、いち早く来ておりましたので。『森がおかしなほど騒いでいる』と」
アラインの冷ややかさに騎士はわずかに面食らったようだが、それで態度が変わることはない。慇懃無礼(インギンブレイ)というのだなと、芽衣は騎士を見て思った。
「神官さんが来たから急いだって、その人はアラインを待っているんですか?」
これからどこへ、誰と向うのかということが気になって、芽衣は尋ねた。
おそらく、この騎士とはずっと一緒なのだろう。それなら、他にも同行者が欲しいと思ったのだ。できれば慇懃無礼ではない、アラインに感じのいい人が。終始ふたりがこのような雰囲気では嫌だから。
「そうですよ。これから竜神様と聖女様の浄化の旅に同行する者たちが外で待っております」
騎士がそう言ったところで、洞窟の出口を小舟がくぐった。
外の世界はまぶしく、芽衣は思わず目を閉じた。
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