雨上がり、異界の空の下
猫屋ちゃき
第一章 聖女と竜①
耳のそばでも奥でも、激しい水音が響いている。
ゴボッと口から息がもれて、身体がさらに重くなるのを感じた。
(……このまま、死んじゃうのかな……)
濁流に飲まれ、浮き上がる余裕もないまま
ひどい雨が降っていて、風も強くて、傘があおられた拍子に川に落ちてしまったのだ。ひときわ強い風が吹いたのが、橋を歩いているときだったのがいけなかった。
(……ついてない。不運……ううん、不幸だ)
もうすぐ死んでしまうというのに、いや、死んでしまうからこそ、芽衣は身体と同じように重い心のことを考える。心を重くしている、不幸な出来事について。
『……ごめんなさい、ごめんなさい……』
病院の廊下で、
『あたしのせいで、裕也が……あたしだけ無事で……ごめんなさい』
大雨、バイク事故、重体。
泣いて謝る、友達だと思っていた女の子。
『繭香、サイテーだよね。色仕掛けで友達の彼氏盗るとか』
薄暗い廊下に響く、怒気のこもる声とすすり泣き。
何も言えない芽衣の代わりに文句を言っているもうひとりの友達、
『……気づいてたけど、発表会前に気持ちを乱したらって思って言えなくて……ごめん』
心底申し訳なさそうにしている佳苗の声もつらくて、芽衣は目を閉じて首を振った。そうしないと、真っ暗な気持ちに塗りつぶされてしまいそうだったのだ。だからそのまま、病院を飛び出した。
単語、情景、感情……処理しきれなかったそれらのものが、濁流のように押し寄せてくる。
これが走馬灯だったら嫌だなと、自分の最期を思って芽衣は悲しくなった。
もっと楽しいこともたくさんあったのに、最後に思い出すのがこんな出来事なんて最悪だ、と。
(……死んじゃうなんて、嫌だ。やりたいこと、まだたくさんあるのに)
発表会に出たかった。小さな頃から習っていた、バレエの発表会。プロを目指すわけではないし、来年には大学受験がひかえているから、これが最後の発表会だったのだ。
芽衣の家族も楽しみにしていて、芽衣自身も観てもらうのが楽しみだった。
秋が深まって涼しくなったら、家族で少し遠出する予定もあった。紅葉のきれいな河原で、バーベキューをしようと父親が張り切っていた。年頃になったら家族との外出がわずらわしくなる子もいる中、芽衣はそういうことはなかった。
発表会が終わってバレエのレッスンがなくなったら、友達と放課後一緒に受験勉強をしようとも話していた。どこかでお茶をしながらとか、図書館でとか、いろいろ計画していた。繭香とは、同じ塾に行こうかとも話していたのに。
そのほかにももっともっと、いろんな予定や計画があった。
おでかけも、デートも、勉強も、たくさん。
でも、すべてだめになってしまった。
(……やだ……死にたくない……!)
そう強く思うのに、身体は浮かび上がることはない。
意識もどんどん薄れていく。
これが脳が思考しているのかも、魂の叫びなのかも、もうわからなくなっている。
『死にたくないか』
薄れゆく意識の中で、芽衣はそんな声を聞いた。低く、おだやかな声を。
ゴォゴォと流れる水の音以外、耳に届くはずないのに。
(死にたくない!)
口に出せない代わりに、芽衣は心の中で強く叫んだ。
『そうか。それなら、こちらへ来るといい。われのもとへ』
おだやかな声は、そう続いた。
『おいで』
その声は優しく、くりかえし芽衣を呼ぶ。だから芽衣も、その声の主のもとへ行こうと、必死に意識を傾けた。
すると、激しい流れに飲まれていたはずの身体が、スゥッと軽くなるのを感じた。
耳障りな轟音もいつのまにか止んで、浮き上がっていくような気がする。上へ――ここではないどこかへ。
どこへ行くのか、という当たり前の疑問がわいたが、そんなことはどうでもよかった。
(死にたくない。死なずにすむのなら、それでいいもの……)
疲れ果てた芽衣が意識を手放す前に思ったのは、そんな投げやりなことだった。
湿った、少し冷たい空気。ひたひたとその場を満たしているのは、静かな水の気配だ。
水とはちがう、ひんやりとした硬い感触を頬に、全身に感じて、芽衣はゆっくりと目をあけた。
「……生き、てる?」
そう口に出してみる。かすれてはいるが、普通に声は出せた。溺れて、たくさん水を飲んでしまったはずなのに。
薄明かりの中、芽衣は自分の身体をすみずみまで確認した。
手のひらにも、膝にも脚にも、目立った傷はできていない。髪も制服も、湿ってはいるが濡れていなかった。
「よかった……動く」
芽衣はブレザーのポケットを探り、スマホを取り出した。ボタンを押すとすぐさま液晶は明るくなる。防水機能は伊達じゃない、ということらしい。
『目覚めたか、異界の娘よ』
「え……?」
突然呼びかけられ、芽衣は驚いた。ボーッとしていたうえに、流れついた洞窟のような場所にひとりきりだと思っていたから、心拍が一気に跳ね上がった。
でも、知っている声だ。芽衣を呼んでいた、あの低くおだやかな声。でも、今度は頭の中に響くのではなく、きちんと耳に届いた。
その声の主を探して、芽衣は視線をめぐらせる。そして、息を飲んだ。
「……うそ……」
芽衣の視線の先にいたのは、大きな生き物だった。大きすぎて気づいていなかっただけで、それはすぐ近くにいた。そして、その生き物の体は光っている。空間を満たす薄明かりは、目の前の生き物が発していたものだったのだ。
「……竜?」
体表を輝く鱗におおわれた、大きな爬虫類を思わせる生き物だ。芽衣の知っているかぎり、それは竜に似ている。中国のお祭りなので見かける蛇に似た姿ではなく、トカゲに近い西洋のドラゴンのほうだ。
黄緑とも水色ともいえない淡い光を放つ、神々しいまでに美しい生き物。
それを前に、芽衣は自分の肌が粟立つのを感じていた。恐れや嫌悪からではなく、純粋な高揚から。
荘厳なオーケストラの生演奏を聞いたときのような、著名な画家の絵画を見たときのような、そんな魂の震えを芽衣は感じていたのだ。
『竜か……そうだな。そなたの世界では、その呼び名が相応しいのだろう』
日本語でも、芽衣がこれまで聞いたどんな外国語でもない言語で美しい竜は答える。聞いたことのない言葉のはずなのに、不思議と意味がわかる。
『そなたも、われが怖くないのか』
「怖くないよ。……でもこれ、現実なのかな?」
竜に問われ、芽衣は首を振った。驚くほどに竜の体は大きいが、恐ろしいとは思わない。言葉を発するその口にひと飲みされれば即死だとは思っても、同時にそんなことはされないだろうということもわかる。
「いたた……夢じゃない」
『頬をつねって見せるのは、そなたの世界の挨拶なのか?』
「ちがうの。夢なのか現実なのかわからなくて、痛いかどうか確かめたの。……痛いってことは、一応現実なんだね」
頬を思いきりつねって痛がる芽衣を、竜は興味深そうに見ていた。ペリドットのような瞳がキラリと光って、心持ち顔を芽衣のほうに寄せてくる。
『痛いと現実なのだな。覚えておこう』
冗談ではなく真剣に言っている様子なのがおかしくて、芽衣は笑った。それから、そっと竜の鼻先に手を伸ばしてみる。
「……私、生きてるんだよね? あなたが助けてくれたの? さっき、『異界の娘』って言ってたけど、ここはどこなの……?」
心に浮かんだ疑問を、ひとつひとつ口にしてみた。取り乱していないが、宙に浮いたような落ち着かなさがある。たぶん、まだ自分の身に何が起きたのか理解できていないのだ。理解が追いつけば、もしかすると取り乱してしまうかもしれない。
『ここは、そなたのいた世界ではない。そして、そなたは生きているというより、死んではいないというほうが正しいかもしれない。今は』
「どういうこと……? ここは死後の世界の入り口なの?」
『そうではない。……そなたの存在は非常に不安定なのだ。死んではいない』
「……そうなの」
ざらりとした納得いかなさがあったが、芽衣はそれ以上追及する気にはなれなかった。というよりも、気力がわかなかった。
目立った外傷はないとはいえ、川を流されて溺れたあとだ。死をも覚悟したその体験は、芽衣の精神をすり減らさせていた。
(何だっけ……MP(エムピー)とかHP(エイチピー)が削られるっていうんだっけ? ゲームだと)
彼氏の裕也が言っていたことを思い出して、芽衣の胸はチクリと痛んだ。
彼の意識は戻っていない。戻るかも、わからない。おまけに芽衣は川に落ちて死にかけて、知らない世界に来てしまった。
ふたりのあいだでなされるべきだった話し合いや別れ話をする機会は、もしかしたら永遠に失われてしまったのかもしれない。
『……悲しいことがあったのだな』
おだやかな声が、そう問いかけてきた。大きな竜の体に背中をあずけて休んでいたのに、そのことには触れない。
見た目でわかるのか心でも読んだのか不思議に思ったが、嫌な気持ちにはならなかった。
『われも悲しいから、悲しい者の気配はわかる』
芽衣の疑問を感じとったらしく、竜はそう言い添えた。優しいごまかしから出た言葉ではなく、本当に悲しげな響きを含んでいることに芽衣は気がついた。
「……彼氏が事故に遭って、ひどい怪我で、目を覚まさないの」
悲しみを抱えた者同士の竜に寄り添おうと、芽衣は口を開いた。バイク事故で、後ろの座席には友達が……浮気相手が乗っていたということまでは、言うことができなかった。
澄んだ水ように清らかな気配の竜を前にして、そんなことを口にするのがはばかられたのだ。頭に思い浮かべるだけでも、ドロリとした何かが胸の内にわきあがるのも嫌だった。
これは悲しみに似ているが、ちがうものだ。だから、芽衣は蓋をするようにその感情から目をそらした。
『そうか……それは悲しいな。その悲しさから、川に身を投げたのか?』
いたわるような思いやりにあふれた声で竜は問う。身を投げるという言葉が自殺を意味するとわかって、芽衣はあわてて首を振った。
「ちがうの。大雨の中を歩いていたら強い風が吹いて、川に落ちてしまったの」
間違っても死にたかったわけではないと、強い思いをこめて芽衣は言う。
病院からの帰り道で気は動転していたが、そういった後ろ向きな感情はなかった。彼氏が意識不明の重体になっても、その彼氏が自分の友達と浮気していたとわかっても、それは芽衣にとって絶望にはなりえなかった。
絶望する前に、死ぬような目に遭ってしまっただけかもしれないが。
『だが、愛する者が眠ったままなのは、やはり悲しいだろう? ……われはそのような悲しい思いを恋人にさせてしまったのだな』
「……どういうこと?」
芽衣を気づかうようでいて、竜自身の悲しみも吐露している。相手に水を向けるうちに自分のことも話しているというのは、人も竜も同じらしい。
『われも、長い眠りについていたのだ。そなたの声を眠りの中で聞いて目覚めたのだが、おそらく途方もなく長い時が経っているのだろう。われにとってはひとときでも、人にとってはその一生よりも長い時間、眠っていたのだからな』
竜のその言葉から、彼の恋人がもうすでにこの世にいないのだろうということが芽衣にもわかった。そして、眠っていたことが彼にとって望まぬものだったことも。
「あなたは、どうしてこんなところにいるの? ここって洞窟よね? ……まるで、封印されてるみたい」
何かの物語のようだと、芽衣はふと思った。でも、それだと竜は悪いことをして、人間に退治されたことになってしまう。
そんな悪いものには見えないのにと、憐れむように竜を見上げた。
『封印ではないが、そのようなものかもしれないな。役目を終え、眠りについていただけだ。そして、その役目のためにまた目覚めた。われは、そういう存在なのだ』
寂しそうな、あきらめたような口調で竜は言う。
それがなぜなのか、どういうことなのかわからなくて、芽衣は尋ねようとした。
だが、それは叶わなかった。
「……なに?」
静寂をぶち破るかのような、騒々しい気配が近づいてきたのだ。大勢の人間の足音だ。話し声も聞こえる。大声で話しているわけではないが、たくさんの声が洞窟の中に反響しているのだ。
「やだ……怖い」
少しずつ見知らぬ世界と折り合いをつけようとしている最中のその出来事に、芽衣は不安になって竜の体に身を寄せた。
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