直観の忠告。直感の誘惑。
来冬 邦子
直観はささやく
「直観は裏切らないわ」
わたしは指で摘まんだカクテルグラスにささやいた。
「直感に頼るなんてナンセンスだよ。女の言いそうなことだけどな」
夫婦でホテルに食事に来たのは何年ぶりだろうか。いま、最上階のラウンジから、二人で夜景を眺めている。
「あなたの言ってるのは感じる方の直感でしょう? わたしが言ったのは直観。真っ直ぐに観る方よ」
「同じだろ。ていうか、この話題、まだ続けるのか?」
夫が眉間に皺を刻んで、またバーボンを注文する。
「いいえ。どうでもいいわ」
わたしは桃色のカクテルに微笑む。
直観は積み重ねてきた経験や知識に基づいて一瞬で閃く正解だけど、直感は感性から一瞬で湧きだすアイデア。魅力的だけど正解とは限らない。
夫が
「部屋を取っておいたから、今夜はゆっくりしようよ。どうせ
「ほんとうに? どうしたの?」
「たまには女房孝行しようと思ってね」
わたしは泣きそうになって、夫から顔を逸らした。
「夜景が綺麗ね」
七色の光が孤独な闇に撒き散らされて煌めいている。
都市にひしめく喧噪もここまでは届かない。
「そうだろう。お前に見せたかったんだ」
「ここには何度も来るの?」
わたしの言葉が終わらぬうちに夫が急に咳き込んだ。
「大丈夫?」
「おお。わるい、わるい。えっと、何だっけ?」
「ここには誰と来るの?」
恭祐の顔色が変わったのをみとめて、わたしは席を立った。
「化粧室に行ってくるね」
恭祐とは恋愛結婚だった。互いの相性が不整合なことに気づいたのは結婚して一年も経たない頃だった。だが既にわたしのお腹には赤ちゃんがいて、これからお互いが努力して年を重ねれば理想の夫婦になれるだろう、と思ったのは楽観的過ぎた。
化粧室のドアを開ける。フワリと花の香りがした。こんなところにも生花が飾ってある。心遣いが心にしみた。わたしは個室には行かずに、鏡の前に立った。久しぶりに袖を通したワンピースが身に沿わない。涙がこぼれ落ちて、ため息が漏れる。
そのとき、鏡の中のわたしがハンカチを差し出した。
白いレースのハンカチ。
わたしは手を伸ばして受け取り、まぶたに押しあてた。
怪異に遭遇した恐怖よりも現実の悲しみで頭がいっぱいで、誰でもいいから優しい温もりにすがりつきたかった。
「気をつけて。あの男はあなたが信じたいと願っているよりも恐ろしい男よ」
鏡の中のわたしが優しく諭すように言う。
「いま、あなたのグラスに毒を入れたわ」
「まさか!」
わたしはハンカチから顔を上げた。鏡のわたしがわたしの瞳をのぞき込んだ。
「わたしはあなたの直観よ。今日が別離の日になることを、あなたは気づいていたはずでしょう?」
「でも、まさか毒なんて」
離婚したいと言われるのだろうと予期していた。
「このまま席に戻らずに帰りなさい。それが一番良いわ」
「待って」
隣の鏡から、もう一人のわたしが口をはさんだ。
「また知らない振りをするつもり? 後悔しない?」
「それは……」
知らない振りを続けてきたことは愛人だけじゃない。
「席に戻りなさいよ。いま思いついたアイデアを実行するのよ」
「それはどうかなあ」
わたしの直観が難しい顔をする。
直感に従ってわたしは席に戻った。
「どうしたんだ。遅かったじゃないか」
恭祐がイライラした様子でわたしを睨む。わたしは坐らずにカクテルのグラスを手に取った。
「ねえ、乾杯しない?」
「な、なんでだよ」
恭祐は面食らった顔でわたしを見る。
「久しぶりの二人の夜に乾杯するのよ。ほら、グラスを持って」
わたしは夫に無理矢理グラスを握らせた。
「やめろよ。お前、おかしいぞ。どうしたんだよ?」
恭祐の冷え切った手が震えていた。
「はい、それでは。二人の愛に乾杯!」
華やかな音を立てて、グラスとグラスを触れ合わせた。そしてカクテルを飲み干そうとした、そのとき。
「飲むな!」
恭祐の手がわたしのグラスを払い落とした。カクテルのグラスは床で砕け散り、涙の粒のようなガラスが飛び散った。
「ごめん。許してくれ」
恭祐は、わたしを抱きしめて子どものように泣いた。泣きながら何度も謝った。
もう一度、この人を信じてもいい?
「イエス」と答えたのは直観なのか、直感なのか分からなかった。
< 了 >
直観の忠告。直感の誘惑。 来冬 邦子 @pippiteepa
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