比類なく神々しいような

戸松秋茄子

本編

 源君とはミステリ研究会で一緒だった。わたしが三年生のとき、源君が新歓にやって来たのが出会いだった。


 同級生の付き添いで来たという源君はしかし、同級生が退会した後もミス研に残り続けた。まるで、タンポポの種が風に流されてそこらの道端に落下し、そのまま根を張るように。源君はどこからともなく流されてきて、そして花を咲かせたのだった。作家デビューという花を。


 そのデビュー作の主人公が、わたしをモデルにした人物だった。二作目以降も、平家というその人物はシリーズ探偵として作品に登場し続けている。源君自身をモデルとした語り手で、やはり小説家の後輩である源に、探偵として遭遇した事件をネタとして提供し続けるのだった。


 源君はいまでもよくわたしの部屋を訪ねてくる。小説と違って、ミステリ作家にくれてやれるようなネタなど何もないのだが、平家のモデルとしてインスピレーションを与えてはいるようだ。


「釈迦に説法だと思うんですけど」と、源君は断りを入れた。「『Xの悲劇』に有名な一節があるでしょう? ほら、ダイニングメッセージに関する」


『Xの悲劇』は推理小説界の巨匠エラリー・クイーンがバーナビー・ロス名義で発表した処女作にして、推理小説の古典的名作とされる一作だ。


「死の直前の比類のない神々しいような瞬間、人間の頭の飛躍には限界がなくなるのです」源君は思い出すように言った。「クイーンはダイイングメッセージが生まれる瞬間をこう表現しています。人間の脳はその潜在能力の数パーセントしか用いていないという話は聞いたことがあるでしょう? それが、死の間際にリミッターが外れてフル稼働する。かくして、神ごとき閃きを得た被害者は最後の力を振り絞ってメッセージを残すわけです」


「犯人の名前を書けばいいだけなのに、なんで閃きが必要なんだ」と言ってはいけない。それでは謎解きにならないではないか。


「何もダイイングメッセージの話がしたいわけじゃないんです」ミステリ研の後輩はそう続けた。「ここで言いたいのは、つまり閃きです。死の間際、本当にそのような瞬間が訪れるなら、その瞬間、人は誰でも名探偵になれるのかもしれない。かつての先輩のように」


 それがとんだ誤解なのだがね、とわたしは思う。


 源君が言っているのは、わたしが通り魔事件に巻き込まれたときのことだ。


 その日、残業で夜遅くなった帰り道で、わたしは何者かに鈍器で頭を強く殴られた。


 即席のブラックジャックだったらしい。後に聞いたところではそういうことなのだが、そのときは自分が何で殴られたかなんてことにまで頭が回らなかった。


「クソッ、間違えた」と犯人の男は漏らし、わたしのバッグやポケットを漁るでもなく逃げて行った。わたしはうつ伏せになりながら、足音が遠ざかっていくのを聞き、やがて足音がしなくなると立ち上がった。


 少しくらくらするが、どうにか歩けた。頭を押さえると、少し出血しているのがわかる。


 病院に行かないと。あるいは救急車だ。


 そう思ったが、それよりもまず安全な場所に身を隠したかったし、冷静に考える時間もほしかった。自分に起こったことを認めたくない、という気持ちもあったのかもしれない。わたしは何事もなかったかのように、アパートを目指したのだった。


 ふらつきながら家路を急いでいると、携帯電話がメールを受信した。当時、大学の三年生だった源君からだ。内容は新刊のミステリだったが、ろくに覚えていない。ただ、わたしはふとこの状況を相談してみようと思った。相談しようと思って、メールを打った。


 いま誰かに襲われて――


 それ以降の文面を考えるより先に、わたしの意識は途絶えた。


 脳挫傷の症状が時間差で現れたのだ。


 このとき、わたしは「いまだ」とだけ打って、源君に送信する格好になったらしい。


 そして、


 わたしがそれを知るのは、病院のベッドの上でのことだ。

 


「あのとき、先輩はを経験したんじゃないですか」源君は言う。「犯人の名前を、直観で理解した。襲われたとき得た些細な手がかりが頭の中でつながって、という名前を導き出した」


 ただの偶然を、源君はそう解釈していた。


 犯人が捕まったのは、何も、わたしが源君に送ったメールがきっかけではない。


 地道な捜査の結果、近所に住む男に容疑が向けられ、任意同行を求めるとあっさりと自白した、それだけの事件だった。


 源君はわたしのメールを警察にも見せたらしいが、それが捜査に貢献したという話は聞かない。


「信じてるわけじゃないですよ。ただ、実際にもそういうことがあるかもしれないと思っただけです。それが平家誕生のきっかけになった」


 平家シリーズは、いわゆる本格ミステリに分類される作風で、平家は鋭い洞察力と博学な知識、そして確固たる推理力をあわせ持つ一方、ハードボイルドな私立探偵を気取るどこか滑稽なキャラクターとして造形されていた。


 平家はよく作中で頭を殴られて気絶する。チャンドラーのマーロウものをはじめ、一昔前のハードボイルドではよく見られる展開なのだが、それを半ばギャグとして徹底させているのが平家シリーズの特徴だった。


「半分は真面目ですよ。ああやって平家は比類なく神々しいような瞬間を体験し、閃きを得てるわけですから」


 平家は最初の作品でわたしと同じように殴られ、犯人が誰か悟る。少なくとも、本人はそう主張している。作品は終始、ワトソン役たる源の視点で進行するので真偽のほどはわからない。


 それは二作目以降も同じだ。平家は最初の事件と同じように犯人に殴られたり、純金の招き猫が頭に落ちたり、脚立から転落して頭をぶつける。その度に彼は「わかった!」と叫び、すべてを悟ったように源や知り合いの警部に指示を出し、証拠を固めていくのだった。


「でも、実は作者的には、平家が毎回同じ人物とは思ってないんですよね。だってですよ? そんなものがそう何度も同じ人間に訪れるわけないじゃないですか」


 また身も蓋もないことを言い出す。


「だってそうでしょう。先輩の件だってただの偶然かもしれないんですから」源君は言う。「だから、あえてシリーズに矛盾を作ってるんです。ブログでシリーズの年表を作ってここが破綻してるっていう読者がいますけど、わざとなんです、わざと。キャラクターの言動もずらしてみたりして、とにかく同じ世界じゃないんだってわかるように。同じ世界でそう何度も奇跡なんて起きないんだってわかるように書いてるんです。まあ、読者が補完して一貫性を持たせるのは自由ですけどね。二次創作も容認派ですし」


 それが困るのだけどな、と内心で苦笑する。


 平家シリーズは最初からシリーズ化の構想があったわけではないらしい。ただ、たまたま身近なところで事件が起きたのでそれを題材に小説を書いてみたらそれが新人賞を受賞して好評を博し、キャラクターにもファンがついてシリーズ化したそうだ。


 そのファンには女性読者も多く含まれていた。平家と源の関係性が受けたのだ。彼らの関係はBL的な文脈で解釈され、そうした内容の小説や漫画やイラストなどの二次創作がネットに投稿されている。


 平家のモデルとしては勘弁してほしい。


 しかし、わたしにそれを伝える術はない。


 わたしは瞼の上げ下げすらできずベッドに横たわっているのだから。


 あの日、頭を殴られてからずっと。



 ――犯人が捕まりましたよ。今田っていうそうです。


 源君はそう報告した。


 ――先輩を襲ったのは、人違いだったそうです。つまり、犯人は先輩とは何の接点もない人でした。なのに、先輩はどうして犯人の名前を知ってたんです。現場で名前を知る機会があったんですか。それとももっと間接的な手がかりから類推してわかったんですか。


 偶然だと言いたくても、口が動かせない。


 ――すみません。変なこと訊いて。でも、先輩が目覚めないのが悪いんですよ。また、来ますね。


 宣言通り、源君はよく部屋を訪ねてくれた。


 ――あの事件をもとに小説を書こうと思ってるんです。と言っても、ほとんど原型留めてないんですけど――じゃないとミステリになりませんしね。先輩にあたるキャラも性別変えときますから安心してください。ついでにわたしも男になります。


 何を安心しろというのかよくわからなかったし、その後のことを考えると二人とも女のままの方がよかった気もする。


 ――わたし、作家になっちゃうみたいですよ。びっくりしました?


 ああ、びっくりした。まさか、友達に連れられてきただけの君がミス研一の出世頭になるとは。


 ――なんだか不思議なんです。平家は最初こそ先輩がモデルでしたけど、二作目以降はもう完全に架空の事件ですし、気づいたら私立探偵になってますし。先輩とはもう別人? ですかね?


 そうなのかもしれないが、平家の活躍を聞くのは、まるで自分が体験したかのように胸が踊ったものだった。新作が書き上がる度、彼女は病室で本文の朗読を交えながら筋書きを語ってくれた。「読者への挑戦状」がさし挟まる箇所では、わたしに考える時間を与え、謎解きの醍醐味を味あわせてくれた。


 平家の活躍も、源君の躍進も、この暗闇の中では慰めだった。


「先輩、いつか教えてくださいね。が本当にあるのか。比類なく神々しいようなその瞬間が」


 そのときが来たら、平家はどうなるのだろう。そんなことを思う。そんな瞬間はないと知った彼女は、それでも名探偵を描き続けることができるのだろうか、と。


 いや、問題ないかとわたしは思い直す。


 そのときはまた別人の平家になるだけだろうから。

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