Bloody runner 伝説になった男【KAC20212】
江田 吏来
血まみれのランナー
スーパー戦隊のヒーローになって感謝されたい。
ドラマの主人公みたいに病で苦しむ人を助けたい。
誰も成し得なかった偉業を達成して有名になりたい。
幼い頃はそのような事ばかり考えていた。
でも俺は生まれ育った町から出ることもなく、小さな世界で生きている。
所詮、どこにでもいる一般人。歴史に名を残すなんて天地がひっくり返ってもあり得ない。それでも愛しい妻と愛らしい娘に囲まれているから、このまま慎ましく生きて行ければそれでいい……はずだった。
「もう、お父さん聞いてよ。放課後はリレーの練習をするって決まってたのに、男子全員、来なかったのよ」
ただいまの挨拶もなく怒りをぶちまけたのは、小学生の娘。最後の運動会なのに男子が協力してくれないようだ。
「美羽はお母さんに似て運動神経がいいから、放課後の練習も楽しみのひとつかもしれないが、運動が苦手な子もいる。無理強いは良くないよ」
やさしい口調で語りかけても、美羽の怒りはおさまらない。ぷくっと頬を膨らませてすぐに反論してきた。
「それじゃ優勝出来ないよ。あたしたち六年生なんだよ。最後の運動会なんだから、真面目にやらないと。あー、もう、どうして分かってくれないのかな」
俺は練習をサボった小学生じゃないのに、ため込んでいた不満を一気にぶつけてきた。
怒りを吐き出せばスッとする。なんていう言葉もあるけど、美羽の場合はますますヒートアップしている。これは困ったと思ったとき。
「美羽! 学校から帰ったら手洗い、うがいでしょう」
キッチンの奥から妻の声が飛んできた。
美羽は「はい、はい、分かってます」とため息交じりの返事をしてから洗面所へと消えた。
「運動会か……」
どこか懐かしい気持ちになるが、俺は運動音痴。
運動会の前日は「雨になれっ!」と必死で願ったが、雨天中止になったことはない。
記憶に残る思い出はどれも酷いものばかり。
『柴田くーん、ワンテンポ遅れてるよ。しっかり数えて』
創作ダンス中に飛んできた先生の声。俺は一生懸命、精一杯頑張っているのに、朝礼台の上から拡声器で拡散された。すると後ろの奴が笑い出す。小さな笑い声はやがて大きな波のように周囲を巻き込んで大爆笑の嵐になった。
思わず「ぬうぉぉぉぉぉっ!」と訳の分からない叫びを上げたくなるほど恥ずかしい思い出だ。
他にもある。さっき話をしていたリレーだ。
逆上がりができない。二重跳びがうまく飛べない。それらは個人競技だからうまく出来なくても俺が落ちこむだけ。しかしリレーは団体競技。クラス全体に迷惑がかかってしまう。それが本当にイヤで雨乞いを必死にやっていた。
「あー、あー、Bloody runnerがサボる男子に鉄槌を下してくれないかなぁ」
手を洗って、おやつのクッキーを頬ばる娘がまた愚痴をこぼしはじめた。
「Bloody runner?」
「お父さん知らないの? お父さんもあたしと同じ小学校だったんでしょう。血まみれのランナーの話だよ」
「聞いたことないなぁ」
「白血病で亡くなった小学生の幽霊よ。小学校最後の運動会に参加したけど、血を吐いて死んだの。リレーが好きで好きで、大好きで、たくさん走りたかったのに走れない。そのくやしい気持ちを抱えて死んだから、リレーをサボる奴らを呪い殺すって」
「わははははあ」と豪快に笑ってしまった。
「美羽にとって都合の良い幽霊だな」
「笑わないでよっ! 本当なんだから。校長室に写真があるんだよ」
「死んだ男の子の写真か? 学校に心霊写真を飾るわけないだろ」
「そうじゃなくて、血に染まったバトンの写真よ。お父さんも校長室に行って、見てよ。びっくりするんだからっ」
「おいおい、お父さんが校長室には入れるわけ――」
小学校六年生の時の担任が、二年ほど前に母校の校長になったと聞いたことがある。
会いに行こうと思えば会えそうで口をつぐんだが、もうひとつ、イヤな記憶が鮮明によみがえった。
小学校最後の運動会。その日は雲ひとつない青空で、俺は泣きそうになっていた。
一位は赤組で二位は青組。俺たち白組は三位だったが、その差はわずか。六年生の男女混合リレーで白組の俺たちが一位を取れば優勝出来る。白組の気合いは充分で、負けは絶対に許されない雰囲気に恐怖を感じていた。
「六年生の皆さんは、入場門に集合してください」
アナウンスが死刑宣告に聞こえる。
きっと鈍足の俺が足を引っ張って優勝を逃す。そのような未来しか思い付かない。
「もうダメだ」と頭を抱えてしゃがみ込んだとき、ガツンと鼻に激痛が走った。
「ごめん、柴田くん。大丈夫?」
何が起こったのかわからなかった。じんじん痛む鼻を押さえてまばたきをくり返していると。
「どうした?」
担任の先生が駆け寄ってきた。
「リレーが……はじまる前に……」
泣き出しそうな声を出したのは木下さん。トップバッターだから緊張した体をほぐすためにバトンも持ったまま腕を大きく振ったら、俺にぶつかったらしい。
周囲をよく確認してなかったかと何度も謝ってくれたけど、俺が急にしゃがみ込んだせいだ。
鼻まだ激痛を走らせている。それでもここはにっこり笑って「大丈夫」と言わなければ、かわいい木下さんが泣いてしまう。
勢いよく顔を上げると――。
「きゃぁぁぁぁっ、血、鼻血っ!」
「え? えええぇ?」
「柴田、テントに。朝礼台横のテントに保健の先生がいるから」
担任の先生に背中を押されながら、俺はリレーの列から外れた。
これはチャンスじゃないか。鼻は痛いが、走らなくてすむ。優勝を逃した戦犯にはならない。
濡れたタオルで顔をゴシゴシされてから、鼻の穴に脱脂綿が突っ込まれる。
リレーはもうはじまっていた。
「はい、これで大丈夫。いってらっしゃい。がんばってね」
「は?」
「は? じゃないよ。最後のリレーでしょう。まだ間に合うから、さあ早く」
運動会が大嫌いな生徒もいる。
走りたくない生徒がここにいる。
それなのに「最後の運動会だから悔いのないように走ってこい」と背中を叩く。走れば悔いしか残らないということを、誰も理解してくれなかった。
「柴田、こっち、こっちー」
担任の先生が手招きをしている。三番目に走るはずの俺が、アンカーにバトンを渡すという大役に変わっていた。
全身の血が足もとへと流れ落ちて、ふらりと倒れそうだったが。
「柴田くん、大丈夫? 本当にごめんね」
かわいい木下さんに謝罪されては「大丈夫」と言うしかなかった。しかも白組は二位で微妙な位置に。三位とは少し離れているが、一位には追いつけそうな距離でレースが進んでいる。
どうせ俺が足を引っ張って白組はビリになる。これは決定事項だから足が重い。だが、一番にバトンを受け取ったのは青組の小西くん。
相撲クラブの小西くんは俺よりも足が遅い。ドスドス走りはじめた姿に、歓声が一気に大きくなった。
「柴田、チャンスだー。絶対に抜かせー」
抜かせるかもしれない。
希望を胸にバトンを受け取った。
毎年雨乞いをして、イヤイヤ参加していた運動会。もしかして、最後の運動会は良い思い出になるかもしれない。
走り出すとすぐに小西くんと肩を並べていた。それと同時に、後ろから強烈なプレッシャーを感じた。
「赤組、宮田くん。速いです!」
三位から追い上げてきたのは赤組。
かなり距離があったはずなのに、赤組の宮田くんは黄色い声援を浴びながら俺たちを抜かそうとしている。
「くそっ」
ごぼう抜きなんてかっこいい真似は阻止してやるっ!
ももを引きあげて、腕を大きく振った。ぐんと歩幅が広がってトップを走る小西くんを追い抜いたが「ひっ」と短い悲鳴を耳にした。
その悲鳴を最後に、小西くんはどんどん失速していく。
「?」
その時はスタミナ切れとしか思っていなかったが、ぐんぐん追い上げてきた赤組の宮田くんも「うわっ」と声をあげて転倒した。
なんだ? なにが起こっている?
よくわからないまま俺は一位になった。
アンカーの山本くんが「よくやった!」と言わんばかりの笑顔で大きく手を振っている。それなのに俺が近づくと山本くんの顔が歪む。
まるでオバケにでも遭遇したかのような表情で、俺からバトンを奪い去ると逃げるように走り出した。
「なんだ?」
ゼェゼェと肩で息をしなが両手を膝に当てると、鼻水が落ちた。
やべっ、と思って腕で拭うと腕は真っ赤っか。鼻血がボトボトと地面に落ちていく。
女子の悲鳴が上がり、俺はまた朝礼台横のテントへ。
濡れたタオルでガシガシ顔をふかれて、真新しい脱脂綿が鼻の奥へと詰められる。処置が終わってテントから出ると足を引きずる宮田くんがいた。
「柴田ぁ、てめぇ汚いぞっ」
「えっ?」
「俺に鼻血のついた脱脂綿を投げつけただろっ!」
何にことか分からないが、おそらく走っている最中に脱脂綿が抜けて宮田くんを直撃。
あとで聞いたら、小西くんも「鼻から血を流す柴田くんが怖くて走れなかった」と……。
「気にすんな、柴田は鼻血が出ても頑張ったんだ。その頑張りが優勝に導いた。鼻血ごときでうろたえた小西と宮田の気合いが足りないだけだ!」
先生の言葉に少し救われた。
白組の白いバトンには俺の血が染みついていたが、それを高く掲げて記念写真を撮った。
「Bloody runner……」
娘の言葉をオウムのようにくり返す。
あの担任が校長先生になり、あのときの写真を飾っている……となると。
「俺、何十年も語られすぎだろ」
運動会は嫌いだ。
走るのはもっと嫌いだ。
でも、歴史に名を残すような有名人になりたかった。
願いは意外なところで叶っていたかもしれない。
Bloody runner 伝説になった男【KAC20212】 江田 吏来 @dariku
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