アザラシの死

母親が英介に本当のことを話すと、2回目だということもあって、当然激怒された。ホタルは、その晩、2人の喧嘩の声を聞きながら眠ろうとする羽目になった。


しかし、翌日になると、口論はやめ、冷戦状態になっていた。つまり、全く口を利かなくなっていた。ホタルは、本音を言うと、刺々しい雰囲気を漂わせながら互いに口を利かないよりも、大声で喧嘩し、決着をつけてもらう方が有難いと思った。当然、この本音を口にすることはなかったのだが…。


ある日、学校が終わり、家に帰ってみると、母親の様子はどことなくおかしかった。


ホタルが玄関に入ると、すかさず

「え?今日は友達と遊びに行くんじゃなかったっけ?」

と母親が焦った顔で訊いて来るから、ホタルにはますます挙動不審に思えた。


そして、母親の落ち着かない様子を見て、ふと思い当たった。

「何?…今、来ているの?」


母親は、何も言わなかったが、手が震え出すのをホタルは、見逃さなかった。どうも、図星らしい。


すると、玄関が開く音がした。


英介が今に顔を出す前から、

「まずい!」

とホタルも、ホタルの母親も、思った。


「ただいま。」

英介が元気のない声で言うと、母親が慌てて玄関へ出迎えに行った。


「今日は、帰りが早いね…。」

母親が額から汗を出しながら、言った。


「まあねー。あなたに不倫をしてほしくなければ、たまには、仕事を早く切り上げて帰らないとね。」

英介が嫌味をたっぷり込めた口ぶりで、怖い目つきで言った。


ホタルは、何も出来ずに、ただ固唾を呑んだ。


「勝手なことはしないでよ…。」

母親が呟いた。


「え?僕が早く帰ったら、困るの?」

英介が妻の顔を訝しげに覗き込んだ。


「それは、言ってくれないと困るわよ!…だって、食事の支度とかあるんじゃない?」

母親がお茶を濁した。


「そう思って、おかずを買って来たんだ。久しぶりに明るいうちに、みんなで食べよう。」

英介が、自分の気配りを褒めてもらえると確信し、得意げな笑顔で言った。


ところが、英介がそう言っても、母親の表情は追い詰められたように、だんだんと暗くなっていく一方だった。


「何?…誰かが来ているの?」

英介もしかめっ面になって、尋ねた。


「…来ているわけないでしょう?」

母親が誰でも、嘘だと見抜いてしまうような不安そうな表情でごまかそうとした。


「来ているね…どこにいるの?」

英介が尋問した。


母親は、答えるつもりがないようだった。


「一度見てみたいなぁ…僕の妻を2回も巧みに口説いて、妊娠させた奴の顔!」

英介がそう言い放つと、家の中をしらみ潰しに探し回り始めた。


母親が先回りをして、ホタルの父親が逃げられるように、皮を返しに行こうとしたが、その作戦が裏目に出て、逆に英介を父親の隠れているところまで案内してしまったのだ。


英介が憤慨した顔で、ホタルの父親を睨んだ。


「今でも庇おうとするのか、このやつを⁉︎」

英介の怒声が家中に響いた。


「本当に、彼は何も悪くないのよ!私がこれで操って、私の相手をさせた…これを持っていると、彼は、逃げたくても、逃げられないのよ!そういう生き物なの!」

母親が必死でホタルの父親を庇った。


「これか⁉︎これで操っているって⁉︎」

英介が母親の手からアザラシの皮を奪い取った。


「こんなもので操り人形みたいに弄べる男のどこが僕よりいいというの⁉︎都合がいいだけか⁉︎」

英介が声を荒げて、問いただそうとしたが、母親は何も答えなかった。


「この遊びを今日で、おしまいにする!」

英介がそう断言し、アザラシの皮を真っ二つに破いてしまった。


アザラシの皮が二つになると、ホタルの父親の姿がみるみるアザラシの姿に変わり始めた。


「なんで、アザラシになる⁉︎」

英介が目を白黒させて、叫んだ。


しかし、ホタルも、ホタルの母親も、英介の質問に答えられるほどの知識はなかった。


ホタルは、父親のアザラシの姿を見て、右往左往する母親と英介の姿を横目に、破れた皮とアザラシの姿になってしまった父親を抱き上げ、駆け出して行った。


ヒカルの自宅の呼び鈴を鳴らすと、ヒカルがすぐに玄関を開けた。

「どうした⁉︎あのアザラシは?また産まれたの⁉︎」


ホタルが激しく首を横に振っていると、ヒカルの後ろにヒカルの母親が現れた。ホタルの抱いているものを見ると、一瞬驚きの表情を見せてから、顔に影が差した。

「…どうして、こんなことに?」


「英介が怒って、皮を真っ二つにしてしまったんだ!」

ホタルが説明した。


ヒカルの母親は、ホタルの説明に納得し、悲しそうにつぶやいてから、泣き出した。

「そうか…なら、仕方ないね。」


「お母さん、なんで泣いているの⁉︎」

ヒカルも、ホタルもドギマギした。


「だって、兄だよ!兄が死んだら、泣くでしょう、普通⁉︎」

ヒカルの母親がうわずった声で行った。


「え⁉︎死んでいるの、これで⁉︎」

ホタルとヒカルが一斉に驚いて、言った。


「動いているのに…?」

ホタルが付け加えた。


「セルキーが死ぬと、ただのアザラシになるの…。」

ヒカルの母親が涙ながらに説明した。


「ただのアザラシって…前とはどう違うの?」

ホタルとヒカルが戸惑った。


「…もう陸には上がれないし、記憶とかもなくなる…私たちのことは、もうわからない。」

ヒカルの母親が辛そうに言った。


「お母さんのこともわからないの?」

ヒカルが訊いた。


「わからないよ…死んだんだから…。」

ヒカルの母親はとうとう我慢ができなくなり、慟哭を上げ始めた。


ヒカルとホタルは、どうしたら良いのかまごつきながら、何とか慰めようとしたが、ヒカルの母親はなかなか涙が止まらなかった。

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