鴨川と歌と全力疾走と
絵空こそら
鴨川と歌と全力疾走と
パスポートをレジ脇に忘れた観光客を追いかけてあたしが鴨川沿いを全力疾走していた頃、憧れの先輩は意中の相手に告白し、めでたく結ばれていた。夜空には大きな花火が咲いていた。
「なんでよっ!」
と、お客様お買い上げの缶ビールを奪ってやけ酒をかっくらいたくなる衝動を抑えて、あたしは今日もレジ打ちをする。邪念は捨てる。そしてあたしは電卓電卓……と暗示をかけながらバーコードをスキャンしていく。アルバイトプロのあたしは失恋ごときで手を緩めたりしない。まあ本業は学生なのだけど。
電卓っぽい笑顔で缶ビールを見送り、次のお客様をお通しすると、不安げな顔で「あのう……」と言われた。嫌な予感。
「どうされましたか?」
「これ、さっきの人が忘れて行ったんじゃないかしら……」
手には銀のクレジットカード。覚えがある。缶ビールの前の人のだ。大量に生活用品を買っていったから記憶に残っていた。
後ろのレジで釣銭機の精算をしていたパートの玉川さんが、話をききつけてやってきた。
「成美ちゃん、どのお客さんか覚えてる?」
「はい!」
「じゃ、悪いけど、届けて来て」
「合点承知です!」
あたしはエプロンをつけたまま店を飛び出した。むわっとした熱気が、クーラーでキンキンになっていた身体を一瞬で包む。辺りをきょろきょろ見回すと、遠くにはちきれそうな買い物袋が見えた。人混みでは人にぶつからないよう、なるべく早足で進み、視界が開けると猛ダッシュする。
「すみませーん!カード忘れてますよお!」
追いかけながら大声で呼びかける。お客さんはびっくりした様子で振り返り、あたしがカードを手渡すと「まあ、ありがとうねえ」となんども頭を下げた。ほっと一息ついて、店に戻るか、と踵を返すと、妙な男がこちらを見ていた。
「今日も……走っているね……」
ギターを手に、着流し風の和服だか古着だかよくわからない服を着ていて、おまけに夜なのにサングラスをかけている。怪しい。怪しすぎる。無視しよう、と思ったけど、次の言葉に思わず足を止めた。
「この前もこのあたりを駆けていっただろう……。そのエプロンが印象的だったからよく覚えている……」
そいつはあたしの働いているドラッグストアのエプロンを指さした。
「あまりにいい走りっぷりだったから、あの時、インスピレーションが降って来たのさ。よかったら聞いてくれないか……」
そう言ってギターを抱え直す彼。
あたしはちょっとだけどきどきした。まるで少女漫画の一ページのようではないか。
彼は息を吸った。弦の音が空気を揺らす。
「ららんら~走るよ全力疾走ガール~今日も走るよ鴨川の~先まで走るよふらいあうぇい」
ひどい。ひどすぎる。あたしも音楽のことはよく知らないけど、ギターがものすごい不協和音というか、みょんみょんいっているし、それに輪をかけて歌が合っていない。
ふうっと息をつくと、彼はちょっと得意げに「どうだった……?」ときいた。
「鳥肌がたちました」
「そう……気に入ってもらえてよかった」
別に気に入ったわけではない。
「僕はたいていここにいるので、もしまた聞きたくなったら来てください……」
誰が来るかっ。そう思いながら曖昧に笑い、もう一度踵を返した。
「よくはないね」
教授はろくに読みもしないでレポートを突っ返した。
「まず論点がずれている。図も縦軸と横軸がずれているし、ページもついていたりいなかったり。まずは主題を明確にしてからまた書いてみてくれる」
研究室を出ると、じっとりした暑さ。外に出たら一段と暑いんだろうなと思うと気が滅入る。
灼熱の停留所でバスを待って、乗り込んで、バイト先へ。車窓から先輩が見えた。白いワンピースの女と、このくそ暑い中手を繋いでいた。
「ポイントカードあったのよ。割引してくれる?」
レジ打ちをしていたら、さっき会計が終わったはずのお客さんが前から割り込んできた。会計が終わってからだと、たまったポイント分の割引はできない。返金するわけにもいかない。新しく何かを買うか、後日使ってほしい旨を伝えると、お客さんは露骨に嫌な顔をした。
「この割引券があったから買い物に来たのに。もういいです、今後ここのお店利用しませんからね!」
そう言って去って行った。
そっちが、会計の時に出し忘れたんじゃん。あたしポイントカードありませんかって、ちゃんときいたじゃん。
一応、あたしも人間なわけ。失恋して傷心なわけ。バイトして、生活費稼いで、勉強して、一生懸命生なわけ。でも、そんなの誰にも慮る余裕ないんだろう。あたしは一介の学生であり、レジ係、電卓。何者でもない。
「申し訳ありませんでした」と頭を下げたら、レジ脇の棚にぶつかってお菓子が一個落ちた。
やってられんと思って、ビールを一缶買った。家で飲むつもりだった。汗かきまくりの小ぢんまりしたビニール袋を手に提げて、電車を待つ。
「今日は……走ってないんだね……」
あの、妙に語尾が尻すぼみな声が聞こえて、ばっと振り返った。でもサングラスも着流しも見当たらなかったので、きょろきょろ辺りを見回す。すると、真後ろにいた男性が「ここ、ここ」と言って手を挙げた。
「えっ?!いっつも鴨川でギター弾いてるひと、ですか?」
「ストリートミュージシャン……と呼んでくれたまえ……」
いっつも鴨川でギターを弾いてるひとは、スーツを着て、肩までの髪を後ろでひとつに括っていた。いたって普通の会社員に見える。
「びっくりした。お仕事ですか?」
「いいや……探し求めているところさ……」
「まさかの就活中?」
「経営していた会社が……なくなってしまってね……。今は……借金まみれさ」
彼は突然「ハハハハハッ」と高笑いした。ホームにいる人たちがぎょっとしてこちらを見る。恥ずかしくてあたしは声を潜めた。
「じゃ、ギターなんか弾いてる場合じゃないでしょう」
「そう……なんだけどね……。あたふたしても何かになれるわけでなし、好きなことをしていようと思ってね……」
そのとき彼のスマホがピロンと鳴った。「失礼」と言って彼は、メールを開いた。
「また……お祈りされてしまった……」
スマホの画面をこちらに向ける。文面には「遺憾ながら採用を見送らせていただくことになりました」云々。どんな声をかければよいのかわからない。
「さて……全力疾走ガールは、どうしたんだい?」
急にこっちに話を振ってきたので、慌てた。
「嫌なことがあったのかい……?」
電車はまだ来ない。
「別に」と答える前に「待って」と手で遮られた。
「インスピレーションが降ってきた……聞いてくれたまえ」
彼は息を吸うと、アカペラで歌いだした。
「君は全力頑張っているガール走れない~日もあるさそんな日もふらいあうぇい~夢を掴めげったどりーむ」
およそ人から発せられるべきではない不安定な調べがホームに流れて、周りのひとは皆一様に顔を顰めた。確かに、声量さえないものの、ジャイアンリサイタルが突然開かれたような殺傷力だ。
それでもその歌をきいて、あたしは不覚にも泣きそうになってしまった。あたし、ちゃんと頑張っているようにみえるのか。そう思ったら胸にじんときてしまった。くそ音痴だけど。
周りのひとのざわめきが大きくなる。「もういいから!」と言って、あたしは男の歌を止めた。電車が来る。
「これ、あげる!」
手に提げていたビールを彼に押し付けた。そして行列から脇へ抜ける。
「電車は……」
「走って帰る!」
あたしは改札までの階段を駆け上がった。途中で振り返ると、彼は電車の中からこちらを見ていた。あたしは親指を立てて腕をぐっと突き出す。彼は笑って、ビニール袋を掲げた。
「これ、台に置いてあったんですけど」
バイト中、差し出されたパスポート。またか。
「成美ちゃん!」
玉川さんの声。
「合点承知!」
あたしはパスポートを掴んで店を飛び出す。うだるような人混みを抜けて、鴨川へ。背の高い外国人の集団が遠くに見える。
「ららら全力疾走ガール~今日も走るよ~頑張れ頑張れふらいあうぇい~」
横から下手な歌がきこえた。うるせーっつの!と思いながら笑ってしまう。風を切る。遠くで花火が咲いている。
何者にもなれないけれど。あたしは今日も鴨川沿いを、走る、走る。
鴨川と歌と全力疾走と 絵空こそら @hiidurutokorono
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます