8.触れ合い Side スージー


 Side スージー


 今思い出してもニヤケてしまう。


 落とした紙を拾って手渡しときに手が触れた。ほんのちょっとよ? なのに、火傷したみたいに勢いよく手を離して、真っ赤な顔になって。

 子供のころ好きだった近所のお兄さんに話しかけられたとき、私もあんな感じだったわ。懐かしい。


 それからちょくちょく紙を落とすようになったレオへ手渡すたびに、受け取る手が近くなっていくのがまた、味わい深くて。いつも赤い顔して受け取るんだもん、私のほうが照れるって。

 そしてなんと、今日、ほんのちょっとだけ手が触れた! 俯いて目を合わせないまま耳まで赤くして、紙を持つ手が小さく震えてるし、どうしようかと思った。この人、可愛らし過ぎて私が触ったら汚しちゃいそう。


 私なんてこんな純情、15のときに置いて来ちゃったわよ。


 下町は男も女も15になったら大人扱いされる。仕事は見習いが終わってしっかり働かされるようになるし、夜這いに参加できて、結婚もできる。

 祭りも夜這いも私達の数少ない娯楽だ。やるやらないは自由だけど、周りの姉さんたちが楽しそうに話すのを聞いてれば興味も湧くし、大体は参加する。お金はない、働きづめで時間もない、あとは寝るだけという理由でもあるけど。


 女の子が妊娠したら、寝た男から好きなのを選んで結婚できるし、乱暴なことしたら誰も寝てくれなくなるから、心配することもない。

 初参加までに経験してなかったら、ちゃんと優しい相手を準備してもらえる。初めての相手に選ばれるのは名誉なことだから、男も女も相手を傷つけるような真似はしない。

 下町の人間はどうしたって立場が弱い。相手の階級が上なら泣き寝入りするしかないから、自然と結束が固く、身内には優しくなる。どこの誰が危ないか、みんなで教え合って自分達を守っていくしかないし、働きに出た先で嫌な目に遭うなんてしょっちゅうだから、男女間のことにも慣れておいて損はない。

 同じ下町じゃなくたって、下働き連中は似たようなもんだし、親しくなっておくとちょっとしたことで助けてもらえたりもする。


 まあ、そんなわけで手も握れないような純情さは消え去ってるんだけど、レオのなんていうか初々しさにまいっちゃってるとこ。書生なんて勉強のできる良いトコの坊ちゃんがやるもんだろうし、下町連中とは全然違うんだろうけど、それにしたって純情過ぎない?

 遊ばれてないけど、遊ばれてるよりタチ悪いわ。こんなドキドキさせられたら、なんでも許しちゃいそうだもん。これが純情を装ってるなら、完璧すぎる。

 それに、つっかえた焦った顔で私に何かを必死にうったえてくるのが、可愛くて守ってあげたくなるというか、なんというか。

 本人は焦ったり緊張したりしてるけど、下町にも結構いるから私は慣れてんのよね。ろれつも頭も回らない酔っ払いが同じことを延々喋ってるのを聞くよりずっといい。それに、喋ることを意識してないときはつっかえずに話せてるし。


 まあ、それはいいんだけど、別の意味でダメになりそう。なんていうか、ちょっとずつ近づいてくるもどかしさが、恥ずかしくて耐えられないというか。体がグニャグニャになるわ。こんなに悶えさせられたこと初めてでどうしていいかわかんない。いっそのこと、私からレオの手を握ろうかしら。手を握ったらどんな顔するかな。

 真っ赤になる? 最初みたいに振り払う? ああ、でも少しずつ触れてくる、その仕草も愛しいのよね。

 こりゃ、私の方が惚れてるのかもしれない。上手くいきっこないのに。しばらくお付き合いしたら、静まるかしら。あと1年で一番下の弟も奉公に出せるし、そしたら結婚しようと思ってたんだけどな。


 レオと寝たいけど寝たくないな。こんなふうにドキドキするの、寝たら消えてしまいそうで。



「なに、ため息ばっかついてんの?」

「そう? そうかも。カールちゃんや、疲れてる姉のために箒をかけておくれ」

「ばかスー。俺だって、使いっぱしりであちこち駆け回って疲れてんだよ。なんであんなに走って、これっぽっちなんだよ。頭くんな」

「成人前の子供だし、代わりはいくらでもいるからね~。他の人が真似できない、お金になることができるといいんだけど」

「なんだよ、それ」

「知ってたら私がやるわよ、たぶん。さあ、晩ご飯食べようか」

「たまにはチーズくらい食いてぇよ」

「父さんのいたときが懐かしいわねぇ。どっかからお金が生えてくるといいんだけど。まあ、カビが生えてないだけ上等でしょ」

「まあな」

「トーマスはまた彼女のトコ?」

「うん」

「結婚ももうすぐかもねぇ。オットーは?」

「親方の家でメシ食うって言ってた」

「じゃあ一食分のパンが浮いたってことじゃない。あんた、しっかり食べなさいよ。これから大きくなるんだから」

「スーは?」

「私はあんたたちと違って、やたらと食べるようにできてないのよ」


 私がそう言うと、一番下の弟は嬉しそうにパンをおかわりして食べた。

 父さんが生きてた頃はもうすこしましな生活だったんだけど。母さんが寝込んでたときの借金を返し終わらないと、どうにもなんないわね。


 ふと、レオを思い出した。質の良い服や、綺麗な肌、清潔な香り。カビの生えた黒パンなんか見たこともないだろうと自嘲した途端、階級の違いをまざまざと思い知らされて胸が塞いだ。レオとかすかに触れた手を見るとガサガサに荒れていて、ものすごく恥ずかしくなる。

 こんな手に握られたんじゃ、ロマンスじゃなくて不愉快よね。何勘違いしてたんだろう。バカみたい。


 せめて不潔にならないよう、前の職場で習った通りに全身を洗って眠りについた。



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