6.近づきたい


 毎日、スージーの声を聞きたくて同じ時間に部屋で彼女を待ち、掃除をする彼女と少し会話して歌を聞く、そんな日々が続いた。彼女の低い歌声は波紋のように広がって狭い部屋を満たし私を潤してくれる。私の心も体も声の波に揺られ知らず彼女のもとへと打ち寄せられた。

 スージーのまとう空気の中に私も入りたくて、彼女がそばを通るたび流れを乱さないようジッとして彼女の起こした空気の動きを味わった。


 もう少しだけ近付くことができたなら。


 ある日、ぼんやりとスージーを眺めていて紙を落としてしまった。フワリとスージーの足元に落ちたそれを彼女が拾って持って来てくれる。

 紙を持つ指は白くて長く私よりも細かった。こんなに近くから私を見る彼女に目を奪われて動けない。


「はい、これ。……どうしたの? 何か顔についてる」

「い、いや、ち、違う。……あ、あ、ありがとう」


 見惚れていたことを誤魔化したくて焦って手を伸ばしたら、目を奪われた白い手に触れてしまった。

 途端、火傷したときのように体に刺激が走り背中が震えた。咄嗟に手を離したけれど、どうしていいかわからずにオドオドしてしまう。スージーに触れた手は大きく脈打って、その感触を私に刻み付けた。頭に血がのぼった私の顔は熱く、喉が干上がったように乾いて声が出てこないのにスージーから目が離せない。

 驚いて目を見開いた彼女が瞬きをしたあと笑った。


「びっくりした。ふふふっ、ここに置くわね」

「あ、あ、ああ、あり、ありがとう」


 動揺して何も言えないのに紙を置いて離れる彼女を引き止めたくて仕方がなかった。もっと近くで声を聞いて顔を見ていたい。

 彼女が起こした空気の流れに包まれ寂しさを胸に抱いて立ち尽くしていた。



 ***



 私が接触に嫌悪を感じるようになったのは閨教育がきっかけだ。


 母が亡くなり、耳を塞いで人を避けるようになった私を心配した父は早目に結婚が必要ではないかと考え、15になった年に閨教育を施した。

 周囲の反対を押し切ってまで結婚した父が、私にもそんな相手をと願った気持ちは理解できる。ただ、母が何度も説明した私の耳の過敏さが父にまったく伝わっていなかったのが問題だった。


 事前に閨事の説明を受けたところで不安が消えるわけでもない。それでなくても神経はすり減っていたのに、どんな声の相手がくるのかわからない恐怖で極度の緊張状態だった。

 怯える私の部屋に入ってきた女性は、ぬかるみに嵌まった靴を引き抜くような声で挨拶をした。私は自分の体がぬかるみに嵌まってしまったような、嵌まり込んで窒息するような感覚に陥った。

 心配しなくてもいいと言った女性の手が私の腕に触れた途端、全身に鳥肌が立ち私は叫んだ。触れられた箇所から泥に蝕まれ、喉から鼻から目から泥があふれ出すような恐怖が私を襲い、自分の中から泥を追い出そうと声限りに叫んだのだった。


 それ以外は記憶になく夢の中のように現実味がないのに、触れられた箇所から浸食され永遠に苦しみ続けるような恐怖だけは残り続けている。


 思い返せば特に問題のない閨教育だったのだろうと思う。私の耳が過敏じゃなければ。母の声という安らぎを失ったことから立ち直っていれば。

 それ以来、他人との触れ合いにも怯えるようになった私に父は心を痛め閨教育をやり直すことはなかった。


 他人との接触に嫌悪感を持ち恐ろしく思うのは音が体に染み込む気がするからだ。異物が染み込んで消えない汚れになるように思えるから。


 スージーの音は心地良い。心地良い音なら体に染み込ませて満たしたい。子供の頃、母に抱き付いたように。優しい雨音のような声が生まれる体を抱きしめて音の響きを感じたい。

 遊びだと思われるだろうか? 違う、遊びたいわけではない。違う。ただ、近くで声を聞けたらと、私のために囁いてもらえたらと思っただけで。


 ……耳元で囁かれる声はどんな感じだろう。声が混じる吐息は雨を含む空気のように淡くけぶるのだろうか。


 掃除しながら歌うスージーの横顔を眺める。微かに動く唇から優しい声が聞こえる。ふっくらした唇は柔らかそうで穏やかな音が生まれる源泉に触れてみたいと思った。


 1人、ベッドの中で思い出す。

 親し気な響きを持つ彼女の名を口の中で転がした。こんなときばかり舌はなめらかに動き『スージー』という音の波が体の中に広がった。


 ……もう一度、近くに。



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