心身共に走った話

miyoshi

第1話

 誰もが浮かれて町へ繰り出す花の金曜日。赤ちょうちんの屋台もこじゃれたバルもウィークデイを無事に乗り越えた企業戦士たちであふれている。

自分もその一員になるべく奔走したのが一年ほど前。年度明けには二年目社員の看板に掛け変わるのだ。

そしてもう一つ。来週予定しているプロポーズがうまくいけば妻帯者の看板も所持することになる。

その相談をすべく入社以来面倒を見てくれている上司とエントランスで待ち合わせているのだが、相談を持ち掛けた際の彼の表情が曇っていたことが非常に気がかりである。まるで、停学処分を下された我が子を見るような目つきだったのだ。

 ぼんやりと道行く人々を眺めていると、見慣れた長身の影が小走りで近づいてきた。

「すまない。待たせたね」

「ちっとも待ってませんよ。メールチェックの暇もなかったくらいです。今日はお時間をいただきありがとうございます」

「構わないよ。僕で力になれることがあればいつでも声をかけてくれといっただろう」

華やかな顔立ちに穏やかな性格のこの上司は社内でも有名な愛妻家である。正確な年齢は知らないが、自分の両親より若く兄よりも年長であるところを考えると、自分の叔父くらいの年齢なのだろう。長い脚で隣を歩く姿も、店の扉を開く姿も非常に洗練されている。ついた店は上司セレクトのおしゃれなカフェ&バーである。きっと昼のカフェの時間も回転率の良い店なのだろう。

 席に着くと各々注文を済ませ、一杯目のグラスで今週も無事に仕事を終えられたことに乾杯した。唇を湿らせたところで本題に入る。

「……あの。昼休みにも少しお話したんですけれど、差し支えなければ先輩の体験談をお聞かせ願えないでしょうか」

途端に昼間の曇り顔になる上司。

「……デリケートな話だけど、大事なことだからストレートに聞くよ。……きみの恋人は妊娠しているのか?」

「? いいえ。古臭い言い方だと、清らかな関係です」

「なんだ、そうだったのか! 変な誤解をしてごめんね。まだ若いのに結婚を急いでいるから深刻な話だと思って早とちりしてしまった」

上司の曇り顔の理由はこれだったのか。どうやら午後いっぱい気をもませたようで申し訳ない。

「まだその時じゃないってずるずる先延ばしにしていると、いつまでたっても結婚できないと思いまして。それに恋人が他の男に取られてしまいそうで、少し焦っています」

今度は一変して、生まれたての我が子を見るような視線を送られた。どこか懐かしむような、優しい表情だ。きっと上司の溺愛する双子の娘たちが生まれた時もこんな顔をしていたのだろう。

「それなら、あまり参考にはならないかもしれないが、僕の話を聞いてくれるかい」


 今から十年ほど前、仕事もプライベートもうまくいき、まさに順風満帆といったひとりの男がいた。そしてその男にはかわいらしい恋人がいた。学生の頃から交際していた恋人は、一人娘ということもあり、非常に大事にされていた。箱入り娘、という言葉があるが、本当に桐の箱にでも入っていたのではないかというほどに大切に育てられていた。きっと両親は大事な一人娘の嫁入りなど考えたこともなかっただろう。まして、世間で騒がれている「できちゃった婚」など無縁の言葉だと思っていたに違いない。

 そんな彼らに衝撃が走ったのは秋の佳き日のこと。近隣の小学校で運動会の歓声が響き渡っていた、よく晴れた日のことであった。まさに青天の霹靂だっただろうなぁ。まだ腹は薄いが妊娠したかわいい娘と、顔面蒼白の青二才が玄関で菓子折りもってたたずんでんでいるのだから。


ピスタチオの殻を割りながらそう締めくくる上司。

つまり、先ほどの話を鑑みるに、自分が過去にデキ婚していたので後輩である若者のことを心配していたのだろう。

「それは知りませんでした。ご両親に殴られたんじゃないんですか」

「なにせ両親ともに武道の達人だから、殴られる覚悟はしていたさ。そのための防御もしていたし」

「防弾チョッキでも着ていたんですか」

「さすがに手に入らなかったから、腹に桃缶だのトマト缶だのを平たく潰して晒で巻いた。脇腹と背中に巻くのが難しくて何度も巻き直したよ。その準備のせいで彼女の家に行くまで全力疾走する羽目になったんだけどね。精神的にもずっと緊張が走っていて、その日の僕は心身ともに走っていたんだよ」

カラカラと笑って上手いことを言っている風だが、破天荒なひとである。

上司の意外な一面を知り、今まさに、自分の心に衝撃が走っているのだが。

「指輪はもう用意したのかな?」

「いえ、サイズがわからないので来週のプロポーズがうまくいったら彼女と一緒に買いに行きます」

「まあ、それがいいよね。サイズ直しができるとはいえ切ってしまうのはよくないし」

「今度は夫婦、というか家庭円満の秘訣も教えてくださいよ。結婚してからもずっと仲よくいられるにはどうすればいいんですか」

「ああ、それはね……」

夜は穏やかに過ぎていった。

俺のプロポーズがうまくいったのかは、神のみぞ知る。

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