黒珈琲(※グロ注意)
「智、ごめんね。」
「おう。」
「智も…早く良い人見つけて。私のこと忘れてね。」
「おう。」
「………」
「……早く行けよ。男、待ってんだろ。」
「……じゃあ、さよなら。」
「おう。」
俺のぶっきらぼうな返事に恵美は悲しげに笑い、長い髪を揺らすように俺に背を向けて去っていた。
その向こうには俺の知らない男がいる。恵美は浮気し、俺に一方的に別れを告げ、出ていくのだ。
しかし俺の胸のなかには欠片の一つほども悲しみがなく、むしろ茶番劇を目にしているかのような滑稽さがあった。
恵美が浮気をするのはこれで6回目であり、それはつまり5回も俺の元へ戻ってきたのだという事実が俺、武田聡と前原恵美のなかにあるからかもしれない。
☆
「あんたたち、まだ付き合ってるの?」
「ん?…ああ。」
俺と恵美の共通の友人である館前幸子の問いに、俺は曖昧な返事で返した。
「今年で何年になるっけ?高校2年からだから…」
「もう6年、かな。」
「もうそんなに経つのか…いや、まだそんな、かな?」
「…………」
「……前は何日で帰ってきたんだっけ?」
「7日。1週間。」
「それって早いの?遅いの?」
「早い方。」
「恵美が出て行って今日で何日?」
「11日。」
「ふーん。」
さして興味のなさそうな声で幸子が返してきた。そして彼女はそのままコーヒーを口に含む。
黒味がかったその液体はどろどろとしており、なぜか目が惹きつけられた。
どろどろどろどろと、まるで俺の中に流れる血液がそれであるかのように、俺の頭の中はそれでいっぱいになる。
「ねぇ。」
「何?」
俺が頭をあげると幸子は少しだけ顔を赤らめていた。
「ねぇ、智。どうせすぐ帰ってくるとはいえ、今はフリーなわけじゃん。だからさ…久しぶりに………。」
「…………」
彼女にバレないように俺は顔を顰める。しかし少しの葛藤は惰性の日々に押し流され、気づけば俺は頷いていた。
その日、俺は幸子と2年ぶりに寝た。
☆
高校の頃、前原恵美は学校のマドンナだった。整った容姿に親しみやすい性格、成績は学年一位で運動神経も抜群、そして生徒会長を務めていた。
当然、皆が彼女に恋をしていた。しかし、誰も彼女に告白することはなかった。なぜなら、彼女には幼馴染であり生徒会副会長の彼氏がいたからだ。
二人でいるその姿はまさにお似合いといった感じで誰も割り込む勇気はなかったのだ。
そう、俺以外は。
高校の頃、俺は学年の王子様だった。金持ちの息子で、サッカー部のエースで、そして何より俺は顔が良かった。
この面で何度も女を釣っては楽しんだ。美人で有名だった先輩、かわいいと評判の後輩、綺麗だと噂されていた教育実習生。そしてついに俺は前原恵美と寝た。
きっかけは、強姦だ。彼女の周りに誰もいないところを狙って襲ったのだ。背後から抱きしめて服を脱がせた。
彼女は泣いていた。しかし俺はそんな彼女を気にすることもなく、誰に対するものでもない優越感に浸っていた。
俺の犯罪行為を咎める者はこの学校にはいない。いたら揉み消して、すり潰してしまえばいい。この学校の女教師の中にも俺の味方が何人もいるのだから。
結果として、俺は名前も知らない副会長から前原恵美を寝とった。恵美はすんなりと俺のものになった。恵美を奪われたと知った副会長の顔は今はもう覚えていない。彼女を取られた男の顔なんて数え切れないほど見てきたからだ。
俺は自分のものになった前原恵美をすっかり気に入っていた。いつもならすぐに捨てるか、幸子のようにキープするところだが、高校2年の俺は彼女と交際することを決めた。
そして今もだらだらと付き合っている。
しかし、この6年間で前原恵美は変わってしまった。あんなに育ちが良さそうで、品行方正で汚れのなかった彼女は今はもう何度も浮気を繰り返す尻の軽い女になった。
きっと俺には言っていないだけで何度も素性も知らない男と寝ているのだろう。俺にはわかる、俺も同じだからだ。
☆
「じゃあね、智。」
「おう。」
「ねぇ、最後にキスして。」
「……わかった。」
幸子が顔を赤らめてこちらを見てくる。俺はその唇に自分の唇を重ねた。苦い珈琲の味がして俺は吐きそうになったものの、我慢してキスを続けた。
すっかり夜が更けてしまった駅の中はどこもかしこもがむしゃらに光るライトだらけで俺の体は重たくなった。
まるで疲れたことを誤魔化すようなその灯りは俺の心の中の濃い珈琲のような気持ちをよりいっそう強くした。
改札を通り、電車に乗り込む。揺れる車体のなか、俺は窓に映った自分自身を見ていた。
きっともうすぐ恵美は帰ってくる。また泣きそうな顔をして、弱々しい声で俺におかえりと言ってくる。そして何食わぬ顔で俺と同じベッドで寝るのだろう。
改札を通り、家へと向かう。居酒屋の並ぶ通りを抜け、人混みを抜け、静かな道を歩き、そして家につく。
(ああ…やっぱり。)
アパートの左から二つ目、俺の部屋の電気がついていた。俺は重い足取りで階段を登り、鍵のかかっていない扉を開けた。
奥から、スリッパの音がする。
「智、おかえりなさい。」
案の定、前原恵美がそこに立っていた。
「来てたんだ。」
恵美がいることに気づいていたくせに俺は白々しくもそう言い放った。すると恵美は自分が咎められているとでも思ったのだろう。こんなことを言う。
「ごめんなさい。私やっぱりあなたじゃなきゃダメみたい。だからお願い、捨てないで。」
何度も、何度も聞いたセリフだ。
「…ああ。」
俺は生返事だけ残し、彼女を押しのけるように部屋の奥へと入っていく。
「…これ何?」
俺はガスコンロの上に置いてある鍋を指差す。蓋を取って確かめてみればいいのに、彼女に聞いた。
「シチュー、智と一緒に食べようって思って。でももうご飯食べちゃったよね。」
「…おう。」
話をフッたのは俺なのに驚くほどに言葉が出てこなかった。俺は頭を掻き、上着を脱ぎながらソファに座った。
彼女が冷蔵庫の中にシチューを入れる。もうすっかりシチューは冷め切っていたのだろう。
エプロンをつけた彼女の後ろ姿はまさに良妻賢母と言った感じで、俺はなぜか自分が責められているかのような、悪者になったかのようなそんな気がした。
俺は彼女の後ろ姿に投げかける。
「恵美。」
「…何?」
「お前って婆になってもこんな事してんの?」
すると彼女は俺の方を見て、微笑んだ。
「…わからないよ。」
瞬間、俺の目の前が真っ黒に染まった。
俺はソファから弾かれたように立ち上がると彼女の髪の毛を掴んだ。そして引っ張り、自分の方へと寄せる。
そして彼女の頰を思い切り殴った。
彼女の軽い体が部屋の床に転がる。彼女の体の上に馬乗りになり、何度も殴る。
そして俺は彼女の首を力強く締めた。
彼女の綺麗な顔は赤く歪み、何が起こったのかわからないような目でこちらを見る。
「…さど…どうじ……」
「わからねぇじゃねぇんだよ……わからねぇじゃねぇだろうが!!!!!」
徐々に力を入れていく。
「何だよお前!調子乗ってんじゃねぇぞ!!!!浮気なんかしてんじゃねぇよ!!!お前は俺の上でヒィヒィ言ってりゃいいんだよ!!!
体重をかけていく。
「何当たり前みたいな感じで他の男と寝てんだよ!お前はこっち側じゃねぇだろうが!!!一丁前に浮気なんかしやがって!!!お前は俺に食われるだけの肉塊だろうが!!人形だろうが!!!景品だろうが!!!」
指をめり込ませていく。
「…か………は…………」
「何だ?俺への当て付けか?俺のせいでそうなったのか?俺があの時お前を襲わなければそんな風になってなかったって見せつけてるのか?おい!!!!幸せな未来を俺が壊したって言いてぇのか!!!ろくに定職につかない俺を見下してるのか!!!!!」
殺してやる。殺してやる。
「……ち…………」
「何が違ぇんだよ!!!いつもいつも何か言いたげな顔しやがって!!!俺とくっつかなきゃよかったか?あの地味な奴と付き合ってたらよかったってか?そしたら家族に見捨てられることもなかったか?あぁっ!?くそが!!!クソ女が!!!!何か言えよゴラァッ!!!」
「……っ………………」
彼女の体が動かなくなっていくのがわかった。
前原恵美にはもう何も残っていない。温かった家族からは縁を切られ、大切にしていた友達からは嫌われ、愛し合っていた幼馴染は今はもう別の女の子と幸せな日々を紡いでおり、あんなに得意だった勉強は俺に合わせて底辺の大学に入ったせいで役に立たなくなってしまった。
唯一、彼女に残ったのは実家から見放され、就職先が見つからず、女遊びに明け暮れて、そのくせプライドだけが高い俺だった。
かつて皆の憧れだった彼女はもうどこにもいない。
そして恵美は他の男と寝るようになった。最初は金儲けのためだったのかもしれない。そして他の男に恋に落ち、俺の元から離れては物足りなくなり、また戻ってくる。
空虚な心を抱えながら。
「はぁ……はぁ………はぁ…………」
俺の目の前には、もう動かなくなった彼女がいる。このまま放っておくと腐り、匂い、蠅がたかるのだろう。
「……うぷ…おえ…」
強烈な吐き気に襲われて俺は急いでトイレへと向かう。そして扉を開くと同時に俺は膝から崩れ落ちた。
「…おえ…はっ!はっ!…おえええぇ……!」
俺の中から出てくるそれは真っ黒で、苦くて、変な匂いがしていて、ドロドロしていて、俺は珈琲を思い出した。
こんなNTRがあってたまるかぁ! 透真もぐら @Mogra316
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