01.10.確保

 教習所にやって来た絵梨菜えりなはいつもの場所にいつもの彼が居ないのを見て顔を曇らせる。


    もう居ないんだ……

    会いたいって言ったら来てくれるのかな……


 自信が持てない理由、それはゆいの存在だった。


    昨日言ってた予定って……

    斎藤さいとうさんだったのかな……

    神月こうづきのあんな顔、初めて見た……


 中学時代から意識していた絵梨菜えりなだったが、そらの嬉しそうな表情を見たことは無かった。実際、そらの置かれた状況ではそんな表情になる事自体がありえないことだったのだが。

 沈んだ気持ちのまま路上教習の予約を入れる。

 絵梨菜えりなが教習所に通い始めたのが遅かった事もあり、ロビーは一時期に比べるて人の数が減っていた。その所為か担当教官が書き出されるのも以前と比べると早くなった。


    斎藤さいとうさんか……


 絵梨菜えりなの担当はゆいだった。沈んだ気持ちは浮上出来ないレベルまで落ち続ける。そしてここにも。


    絵梨菜えりなさん……

    さきったら、知っててやってるんじゃないでしょうね


 本日受け持つ生徒の中に絵梨菜えりなの名前を確認し、複雑な表情を浮かべるゆいがいた。

 とはいえ嫌でも時間は流れ、絵梨菜えりなの路上教習の順番が巡ってきてしまう。


 「宜しく……お願いします」


 「宜しくね、絵梨菜えりなさん……」


    気まずい……

    気にしてるんだろうな、そらとの事

    そらくんなんて呼んじゃったもんね、あの時……

    はぁぁぁ


 気まずかろうが何だろうがこれがゆいの選んだ仕事。生徒の気持ちを上げるような会話までは求められていないが、狭い車内で二人きり、きっちりと指導する義務がある。


 「出たら左……、いえ、右ね」


 「はい」


 コース指示のやり取りだけを交わし、教習車は走る。


    これじゃ余計に怪しまれちゃうかな……

    何か話さなきゃ……


 焦るゆい


    訊いて……みようかな……

    でも、神月こうづきが選んだんなら……

    あたいにそんな事訊く権利ないし……


 思いつめる絵梨菜えりな

 会話もないままの信号待ち。ただただ前方を見つめていると、ゆいの目の前を通りすぎる車の助手席に見覚えのある顔が。


    そら


 間違うはずもない。朝までベッドを共にしていたそらだ。

 信号が変わる。


 「この信号左っ」


 「えっ、でも直進レーンだし……」


 「いいから、左っ」


 交通ルールを無視した指示に困惑するも、ゆいの気迫に負けて無理矢理左折する絵梨菜えりな。当然、クラクションを鳴らされ、焦りまくることになってしまう。


 「あの車を追って!」


 「あの車って……」


 「白い軽よ、ほら、二台前の」


    何? どうしちゃったの? 斎藤さいとうさん……


 わけも分からず後を追う絵梨菜えりなだったが、目の前の信号が変わろうとしていた。目標の車は通過した後だ。目の前の車は黄色から赤に変わろうとしているのに止まろうとはしない。だが、交差する道路側の車も動き始めている。


 「このまま突っ切って!」


 「無茶だよ!」


 大型トラックがクラクションを慣らしながら右から左へと横切る。停止した教習車のすぐ前だ。


 「変だよ、斎藤さいとうさん……。路上教習なんだよね、これ……。あたいに何させたいの?」


 指導するべき立場の人間がルールを無視しろと命令する。普通に考えたらありえない状況。絵梨菜えりなが止まらなかったら大型トラックとの事故になっていたかもしれない。そう思うと怒りも込み上げてくる。


    あたい……、邪魔?

    神月こうづきの事、想っちゃいけないの?

    伝えてだってないのに?


 「……ごめんね。そらがいたの、あの車に」


 「神月こうづきが……」


 「会って話さないと……」


    会って話すって……


 「神月こうづきと何が……」


 「……」


 答えようとしないゆい

 何台もの車が通り過ぎ、信号が変わった頃には白い軽は見えなくなっていた。


 「このまま真っ直ぐ……」


 「……」


 絵梨菜えりなは黙ってゆいの指示に従った。

 それからどれほど走っただろうか。車内に会話はなく、すれ違う車どころか民家も疎らになってくる。本当にこの道で合っているのか二人にはわからない。白い軽を見失ってからいくつもの交差点があった。どこかで右に曲がったかもしれない。或いは左かも。教習車は只ひたすらに真っ直ぐに走り続けてきた。


 二人が諦めかけた時、絵梨菜えりなが反対車線をこちらに向かって走ってくる一台の軽自動車に気付いた。同じ車種だ。


 「あの車……じゃないか」


 だが助手席にそらの姿はない。


 「いいえ、あの車よ」


 ゆいは運転していた女の顔を覚えていたのだ。


    この道で合ってた……

    この先にそらが居る……


 人気のない耕作放棄地帯を通る一本の古い道路。その道をこらに向かって歩いてくるそらを見つけるまではそれ程時間を必要としなかった。


 「神月こうづき……、何してんだこんな――」


 「そらっ」


 窓越しに声を掛けた絵梨菜えりなの目の前でゆいそらに駆け寄り、そのままの勢で抱き付きついて道路脇へと転がり落ちていく。


 「ゆいさん……」


 「何してたのよ、こんな所で……。心配したんだから」


 「何って……、突然ここで降ろ――」


 「怪我してない? 変なことされなかった? 誰なのよ、あの女。私のそらにこんな酷いことして」


 あの交差点でそらを見かけたときから、隣に若い女の子が乗っているのを見たときから、ゆいは不安で不安でたまらなかった。


    よかった~

    こんな事するなんてそらに好意をもっているってことはなさそうね


 「連れてこられただけですから。怪我をしてるといたら……、ゆいさんの所為ですね」


    そっか、何もなかったのね


 「ごめーん、そら。何も持ってないから……、ツバつけとけば大丈夫よね。何処が痛い? すぐに舐めてあげるから。ねえ、何処が痛いの?」


 「ゆいさんこそ擦りむいちゃってますよ」


 「ほんとだ、じゃあ……そらが舐めてくれる?」


 「いいですけど……」


 「はぁ……、何見せつけられてんだろ、あたい……」



    ◆◆◆◆◆ ◆◆◆◆◆ ◆◆◆◆◆



 「えへ~~~」


 「どうしたのゆい。所長のお説教そんなに良かった? 変な方向に目覚めちゃったの?」


 そらを連れ帰ることはできたものの、教習コースを外れたことにより戻ってくるのが大幅に遅れてしまったゆい

 後のスケジュールにも影響を及ぼしてしまい、業務終了後に所長に呼ばれで小言を聞くはめになってしまったのだが、そんな事などなかったかのようなだらしのない顔でロッカールームへとやって来た。


 「まさか。この後そらとデートなんだ~♪」


 「はぁ……、朝はあんなだったし、全身ボロボロになって帰ってくるし、心配してこうして待っててあげた私に詫びろっ! 私だって暇じゃないんだからね」


 「あはは、ごめん、さき。これは名誉の勲章なのよ。この後そらと舐め合うんだ♪」


 「はいはい、ごちそうさま。よくわかんないけど解決したみたいで何よりだよ。じゃあ先帰るね」


 呆れた様子でロッカールームを出ていこうとするさきだったが、その左手薬指に光る物をゆいは見逃さなかった。


 「さき、その指輪……」


 「ああ、プロポーズされたの。今朝報告しようと思ったんだけどあんな感じだったしね、忘れちゃってたわ」


 「プロポーズ……、おめでとう、さき!」


 「ありがと。ゆいも……」


 何かを言いかけたのだが思いとどまるさき


 「私がどうかした?」


 「まあいいわ、言っても無駄なんだろうけど、そんなにそらくんの事気に入ってるなら今度こそ逃がさないように捕まえときなさいよね」


 「逃がさないようにって……、そらが卒業する頃には30よ?」


 「だからじゃない。若い燕を可愛がるのもいいけどそろそろ真剣に考えたほうがいいよ。都会と違って煩いから、そういうの」


 「私はそれでもいいんだけど……、そらはどう思うのかな……」


    夏休みが終われば向こうに帰っちゃうんだろうし……

    私は休みも不規則だからそんなに会えないだろうから、

    漲る欲望を我慢しろってのも無理なことよね……


 「訊いてみなよ、そらくんに」


 「ええー、重たい女って思われないかなぁ」


 「さあね」


 「そんな無責任な」

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