想いが伝わるその日には

鵠矢一臣

想いが伝わるその日には

 チョコが走っていた。


 ビル3Fにあるこの喫茶店からは、駅舎と駅前ロータリーのぐるりを見渡せる。チョコはロータリーの外周を駅舎の方へ向かって、他の歩行者を次々に躱して追い抜きながら駆けていく。相当なスピードなのだろう。追い抜かれた人々はみなワンテンポ遅れてからビクリと身を縮めている。


 かなり遠くから走ってきたようで、汗の代りに溶けたその身がダラダラと垂れていた。一歩踏み込むごと、足形と飛沫が道路にくっきりと残されていく。ギリシア彫刻のような筋骨たくましい意匠であったと思しき体はすでに凹凸がぼやけ、運動不足の現代人風になっている。


 あれは本命チョコに間違いない。顔もかなり崩れてきているが、ここからでもわかるぐらい真剣な表情をしている。それになにより、どこかで人か車にでもぶつかったのか、左腕がもげて中の空洞を晒している。あんな姿になってまでなお必死に走り続けるのは、どうしても伝えたい想いがあるからに他ならないだろう。


 エプロン姿の女がチョコと同じルートを走っているのが見えた。必死の形相だ。もしかしたら想いが先走ったのかもしれない。だがチョコとの距離はますます開いていく。


 駅舎の入口あたりまでくると、チョコはついに立ち止まった。

 壁に寄りかかってスマホをいじっていた男が顔を上げる。


 チョコは大きな身振り手振りを交え、男に向かって何事か伝えているようだった。だがやがて返事が芳しくなかったのか、男の胸ぐらに掴みかかった。目からはフォンデュのように溶けたチョコが流れ落ちている。


 そこに女がようやく追いついた。膝に手を付いて肩で息をしている。揉み合う男とチョコに何かを言いいたそうなのだが、呼吸が整わずそれどころではないようだ。


 男がチョコの腕を振り払った。白いシャツの襟のあたりにベッタリと茶色い液体が付着している。だがチョコは食い下がり口角泡を飛ばす。男は必死に顔を拭う。事態を収めようとしたのか、女は弁解するようにして男に縋り付いたのだが直ぐに払いのけられ転倒してしまった。


 傍目にも、チョコは激怒していた。男の顔面を目掛けて拳を放つ。頬を直撃した拳は、しかしあえなく砕け散ってしまう。


 激高した男は力任せにチョコを殴り、蹴り、踏みつけ、やがて苛立たしそうに去っていった。


 バラバラに砕けて散らばった欠片を、女は一つ一つ拾い集めている――




 私は、3体の義理チョコに羽交い締めにされながらそんな光景を眺めていた。


 棒人間みたいな雑な形の割に力が強く、食いしばって固く閉じた顎も無理矢理にこじ開けられてしまう。その内の1体が、私の口の中に手を捩じ込んだ。耳元で「食え、食え」と低い声が囁く。


 喉の奥を刺激され嗚咽を漏らしながら首を振ると、今度は思い切り頬骨を張られた。チョコとはいえ完全な棒状になるとそれなりの強度を持つらしい。なおも無理矢理にチョコの棒が捩じ込まれる。私は仕方なくそれを噛んでみるのだが少しばかり棒にめり込んだだけで、とてもじゃないが噛み砕けるような代物ではなかった。


 私の口に手を捩じ込んでいた義理チョコは早くしろと言わんばかりにガタガタと乱暴に腕を振っていたが、すぐに痺れを切らして反対の手で私の顎をカチあげた。歯が折れたらしい強烈な痛みとともに義理チョコの腕は折れ、私の口の中に黒い塊が残された。


 投げ捨てられるように開放された私は顔を押さえて倒れ込む。去り際に私の腹を蹴り上げた義理チョコが耳元で言う。


「来月、きっちり3倍。6千円分な」


 義理チョコたちは高笑いとともに帰っていった。




 しばらく痛みに悶ていると、ふと目の前にレシートが落ちているのに気がついた。


【お買い上げ合計:450円】


 義理チョコ1体150円らしい。だがその金額で3倍返しなどしてしまえば、来年は何をされるかわかったものではない。


 歯のグラつき具合を確かめながら起き上がると、窓外に目をやる。駅舎の方では、通りすがりの人々が女とともに欠片を拾い、誰かが差し出したらしいショッピングバッグに集めている。


 やがてバッグを手渡されると、女はしゃくりあげるようにして涙を流す。




 この日チョコには想いが宿る。ゆめゆめ気をつけて欲しいものだ。



(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

想いが伝わるその日には 鵠矢一臣 @kuguiya_kazuomi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ