第23話 桃香とチョメ子

 クシナダと別れてすぐ僕はそのまま桃香の家へと向かった。とは言ってもお隣だから玄関を出ればもう見える。そこでチャイムを鳴らすと家からパタパタと足音が聞こえた。

 やがてインターホンから桃香の母親――サクラ小母さんの声が聞こえてきた。


『――はぁい、どちらさまー?』

「あ、すいません、ご無沙汰してます。こんにちは、幹雪です」

『あらー、ミユくん? 入ってきてねー』


 言われるまま柵を開いて扉の前まで歩いていく。こうして桃香の家に来るのは二年以上に久しぶりな気がする。僕は緊張しながら扉を開くと玄関では小母さんが待ち構えていた。


「ミユくーん、久しぶり! 小母さん、会いたかったわあ!」

 そう言うや否や小母さんはいきなり僕に飛びついてきた。抱き寄せられて頭を撫でられ始める。そう言えばこの人、いつもこうだと言う事をすっかり忘れていた。

 流石に高校生になってまで抱きつかれると色々と恥ずかしい。


「だけどごめんねえ、モモ、買い物頼んじゃったのよー。すぐ戻ると思うけど」

「……そ、そですか……んじゃここで待たせて貰って……」

「何ならモモのお部屋で待つ? それとも小母さんとお茶する? お話しよっか?」

 結局、半ば無理矢理リビングに通されて待つ事になってしまった。


 湯気の上がる紅茶を出されて僕は少しだけ口をつけた。徹夜明けで考えてみたら食事も何も摂っていない。熱い紅茶が胃に入る心地よさにホッとため息が出て来る。

 小母さんは正面に座ると頬杖を付いてニコニコとご満悦だ。


「――だけどホント久しぶりねえ。相変わらず線が細いわね……ちゃんと食べてる?」

「あ、その……すいません。全然顔を出さなくて……」

「いいのよー、男の子なんだもん。女の子の家には中々入りにくいでしょ?」


 単に桃香に避けられて顔を出せなかっただけだ。でも小母さんはお構いなしに続ける。

「ミユくんが学校に行ってる時とか、玲子ちゃんが家に居る時はね。お昼とか玲子ちゃんとよく会って食べに行くのよ? モモも一緒な事多いし、連絡もしょっちゅうよ?」

「え……そうなんですか?」

 桃香も一緒と聞いて少し驚く。ちなみに『玲子ちゃん』と言うのはうちの母さんの事だ。


「うん、だから玲子ちゃんも知ってるけど私がミユくんに差し入れ持って行こうとするとモモ怒っちゃうのよ。だけどもう平気よね? また差し入れ持っていくからね?」

 サクラ小母さんにそこまで言われてやっと僕は初めて違和感を覚えた。


 考えてみればお隣で二年も顔を合わせないのは不自然過ぎる。日常生活をしていれば顔を合わせる機会なんて幾らでもあった筈だ。だけどこれまで一度も鉢合わせた事がない。

 それで僕は複雑な心境に変わった。


「……あの、小母さん? もしかして僕……避けられてました?」

「うん、もー大変だったわよお? お隣なのにね。でもモモの気持ちも分かるからねえ」

 あっさりと答えられて僕はがっくりと肩を落とした。まさか本当に避けられていただなんて思っていなくて軽くショックを受ける。だけど僕はすぐに顔を上げて再び尋ねた。


「……あ、あの……桃香の気持ち、って……そんなに桃香、僕を嫌ってたんですか?」

「えー逆でしょ? だってあの子ミユくんの事好き過ぎる位だし。それでこんな事考えたみたいなんだけどね? でも引っ越す前に何とかなって、小母さん安心したわあ」


 そして……何気ない小母さんの一言に僕は部屋を見回した。壁紙が四角く照明焼けしているのにそのまま。確か父さんの絵が飾られていた筈なのに無い。それに部屋の片隅にはダンボールがそのまま置いてある。小母さんはこういうのを嫌う筈だ。


 小母さんは僕が『引っ越す』と言う言葉に硬直している事に気付かず話を続ける。

「でも懐かしいわ。モモが中二の時にミユくん、コンクールでしょげてたでしょ? あの後泣いて帰ってきて『もう会わない』とか言い出すんだもの。何事かと思ったけど、よっぽど妹みたいに思われるのが嫌だったのねえ。ほんとあの子、面倒臭い子よねえ」

「……え……」

 だけどそれを聞いて僕はカップを手に持ったまま固まった。


 僕にとって桃香は妹みたいな物だ。勿論本当の家族じゃないし隣に住む幼馴染だけどそれが桃香にとって嫌な事だったんだとすればこうして会いに来る事自体いい迷惑だ。

 だって僕は昨日、最後に『妹だ』って断言しちゃったんだから。


 小母さんは凍りついたままの僕に気付かず懐かしそうに目を細める。

「……まあ、玲子ちゃんも『好きなら無理やり押し倒せ』とか言ってたんだけどねえ。流石にどうかと思ったんだけど今の子だし。それに相手がミユくんなら小母さんも安心かなーって。だからベッドに潜り込んだって聞いた時はモモ頑張ったなーって――」

「……お、小母さん!」

「――でもミユくんにやり方聞かれた時は小母さん、焦っちゃったわ……ってなぁに?」


 大声をあげた途端小母さんは話すのをやめてキョトンとした顔に変わる。

「小母さん、僕、桃香を妹だと思ってる。でもそうじゃないならどう思えばいいの!?」

「……え? それは……『彼女』とか、『好きな女の子』……とか?」


 それを聞いて僕は本気で頭を抱えた。そりゃあ確かに桃香が『女の子』に見える事だってあった。だけどいつも『妹みたいな物だし、可愛いと思って当たり前』と納得してきた。

 それを今になって実は桃香がそう言う関係を望んでいたと聞けば動揺だってする。

 ドラマや映画でよく見掛ける『鈍感な男』と同じ事を自分がやっていただなんて洒落にもならない。余りの情けなさにもう僕は死にたい気持ちになっていた。


 頭を抱えて俯いてしまった僕に小母さんもやっと気がついた様で慌て始める。

「――え? え、ミユくん、もしかして……モモの事、好きじゃなかったの……?」

「……全然分かんないですよ……そんなの、今更言われたって……」

「え、ちょ……何、上手く行ってたんじゃ無かったの!? え、私……やっちゃった!?」

「……あ、ああっ!! くっそぉ……僕ァどうすりゃいいんですかッ……!!」

「……くあっ……やっちゃった……私、全部言っちゃった……ど、どうしよ……!?」

 そして僕と小母さんは二人、居間で頭を抱えて身悶えする。と、そんな時――


「……ただいま、ママ。買ってきたよ……」

 玄関の開く音と共に桃香の元気のない声が聞こえてきて僕と小母さんは凍りついた。


 逃げる事も出来ないまま玄関からトントンと足音が聞こえてくる。そして居間の扉がカチャリと硬い音を立てて開かれた瞬間僕は反射的にその音の方向へと顔を向けた。

 ビクッとして桃香はそのまま動かなくなる。手からレジ袋が落ちる。目が合って僕達は何も言えずしばらく見つめ合った。そこに遠慮した様な小母さんの声が聞こえてくる。


「――あ……その、モモ……え、えっとね?」

 その声が聞こえた途端桃香はたたらを踏む。僕はソファーから立ち上がって飛び出した。

 桃香は怯える様に二歩、三歩と下がって顔が青褪める。すぐに目元を赤くして今にも泣き出しそうだ。逃げ出そうとする腕を掴み取ると僕と桃香は再びそのまま動けなくなった。

 それまで言おうと思っていた事があったのに何と言っていいのか分からない。桃香も背中を向けたまま腕を掴まれて身を硬くしたままじっと動かない。


 そんなどうしようも無い空気の中で不意に桃香の身体から力が抜ける。

「――ちゃんと、行くから……」

「……え? 行くって……?」

 彼女の掠れた声が聞こえてくる。僕は間抜けにもオウム返しにしか返事が出来ない。

「……今晩、舞台行くから……コンテスト、最後までやるから……」

「え……あ、うん……」


 それで掴んでいた腕を離すと彼女の肩ががっくりと力なく下がった。

 無言のまま何も言わず僕の方も振り返ろうとしない。まるで小さい頃の様にトボトボと拗ねて歩く子供みたいな背中が階段を気怠そうに上がっていく。

 僕はその背中が見えなくなるまで見送るとため息を付いて俯いた。こんな時何を言えばいいのか分からない。どう言えばいいのか分からない。何が正解でどう言えばちゃんと伝えられるのかが分からなくて結局何も言えなかった。


 仕方なく今日はもう帰ろうと居間にいる小母さんに声を掛けようと顔を覗かせると、

「――うわーん、玲子ちゃん、私やっちゃったー!!」

 電話口に向かってベソをかく小母さんを見て結局何も言わずに僕は玄関に向かった。



 自分の部屋に戻るなり僕はぼんやりとアバター『X子』の調整を始める。作業をしながらさっき小母さんから聞いた話を思い出して考えていた。


 桃香が最初コンテストの話をしてきた時に隠していたのはきっと引っ越す事だ。夢の為とか将来の為とか確かにそれもあるだろうけど本心はきっとそこだ。そしてやっぱり彼女は何でも一人で何とかしようとする。今回だってきっと自分一人で何とかしようと思ったに違いない。


――全く変わらないな、桃香……そんなの相談すればいいのに……。


 僕は小さく笑うと『X子』のモデルを引いて全体像を眺め直した。

 もう修正する処なんて無い筈なのにアバターが気に入らない。少し前まではこれでいいと思っていた筈なのに僕の中にあるイメージと違う感じがして気持ちが悪かった。


「……目や口はいいとして……髪の毛かな? 桃香の髪型って――」

 作業に没頭する中で無意識に思考が独り言として出た時、僕は愕然とした。


――桃香、だって!? 僕は一体、何を言ってるんだ!?


 元々チョメ子――『X子』と言うアバターは何となく作っただけだ。誰かを模してデザインした物じゃない。これまで会っていなかった桃香をモデルになんて出来る筈がない。

 だけど……僕は最後に玄関で見た桃香――さっき彼女の家で見た髪型をチョメ子の髪で再現する。それでクシナダの『幼くなった』と言った意味をやっと理解した。


 ARモードで部屋に現れたチョメ子の姿――それはどう見ても『桃香』の姿だったのだ。

 僕は部屋の本棚を漁ってアルバムを次々に開き始めた。ネットに掲載された今現在のチョメ子になる以前の姿を探して比べると随分印象が変わっていて苦笑する。


 子供の頃、中学の時。コンクールより少し前の写真がある。僕と桃香、母さんとサクラ小母さんが映った写真だ。それを見つけ出して眺めた時僕はがっくりと項垂れた。

 僕は……チョメ子を最初に作った時。最後に見た桃香が成長した姿を小母さんの姿で補完していたのだ。母さんも小母さんも相当若く見えるから余計にだ。


 結局、桃香の事を『妹』でも『幼馴染』でも無く『女の子』として見ていた。

 僕の中にある『女の子』のイメージとして。

 僕の事を心配してくれた優しい女の子。心折れそうになった時に励まそうとしてくれた女の子。そして……最後にまた傷付けてしまった女の子だ。


――大丈夫だよ、ミユちゃんは凄いって私、ちゃんと知ってるもの――。

――ちゃんとミユちゃんらしいよ。ミユちゃんの絵、見てて楽しいもの――。

 あの時――中学最後の時、彼女が来なくなる直前に言ってくれた言葉が蘇る。


「……そっか……僕はずっと昔から、桃香の事が……」

 小さく呟いて笑うと僕は再び作業に没頭した。

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