第10話 舞台前の邂逅
ワールドにログインするとパートナーカフェのロビーが目の前に広がった。平日の上に時間もずれた所為か人もまばらだ。そこで僕は先ず自分――チョメ子の姿を確認する。
あの時モカから借りた衣装のままだ。だけどそれより問題は胸の存在だ。
チョメ子の胸はデフォルトより少し小さい。だけど見下ろして見ると意外とボリュームがあって足元が少し見辛い。これが一番最初に注意しなければならない点だ。
なにせ現実の僕には胸がない。だから意識しないと腕を動かした時に胸のオブジェクトを貫通する恐れがあった。感覚がないからぶつかったとしても気付かないのは厄介な話だ。
人が居ない事を確認すると僕はロビーの片隅に移動した。自分――チョメ子の胸を目を閉じた状態で押さえる。それで実際に自分の胸に手が当たって目を開くと画面の中ではアバターの手は胸を貫通していない。そのまま何度か押したり戻したりを繰り返す。
これはつまりアバターの身体には衝突判定が存在すると言う事だ。と言う事は意識していなくても腕が当たればちゃんと正常に処理される。それで僕はひとまずホッとした。
次に手を胸に当てたまま握ったり開いたりしようとする。これも貫通しない。しっかりと胸は指先に合わせて変形する。でも画面上での視覚的質感がちょっと硬すぎる気がする。
まるでゴムボールみたいに全体的にひしゃげて質感に違和感を覚える。
確か設定に肉体の反発力に関する物があった筈だからこれは後で確認すべきだろう。
そんな事を考えていると突然背中から声を掛けられた。
「お待たせチョメ――ミユちゃん、何してるの?」
明るく柔らかい声が突然チョメ子の胸みたいに固く変わった。
振り返ると桃香――モカが凄く嫌そうにチョメ子の胸元を見ている。それで僕はモカの顔と胸元を見比べて気付いた。ロビーの中で自分の胸を揉む女性アバターがここに一人。
「あ、ち、違うよ!? そうじゃないよ!?」
「……へぇ……」
「べ、別に変な事してた訳じゃなくて!? 単に衝突判定の確認とか……」
「……ふぅん……」
「……その……す、すいません……」
「……ミユちゃん……楽しい?」
何も答えられず、画面の中でチョメ子が膝からロビーの床に崩れ落ちる映像が見えた。
*
「――全く、幾ら人がいないからって、ああいう事しないでよね?」
プリプリと前を歩くモカの後ろを歩いていると少ししてやっとモカが口を開いてくれた。
だけどその声は若干まだ怒っているみたいで何処か不機嫌だ。
「……ううっ……本当にただ、確認してただけなんだよぅ……」
「何の確認よ? 胸の柔らかさとか大きさ?」
「違うよ……凄く違う……胸が貫通しないか、ちょっと心配で……」
その一言にモカが立ち止まりいきなり振り返る。それまで顔に浮かんでいた不審な物を見る目が大きく丸く開かれている。それで僕は更に言い訳を続けた。
「いやほら! 前、ヒールが地面にめり込んでたって言ってたから無い身体パーツって下手に貫通したりしないかなって心配になって。それで試してただけなんだけど……」
だけど僕がそう言うや否や、モカが突然自分の胸を鷲掴みにするのが見えた。その表情は少し青褪めていて手の動きに合わせて形が変わる自分の胸を凝視している。
「……ちょ、何してるの、も、モカ……!?」
「…………」
そこで僕は周囲の人がモカを見ている事に気がついた。ここはロビーじゃなくていわゆる往来だ。当然人だっているしそんな事をしていれば目につかない筈がない。
《ちょ、モカ!? ダメだって、人に見られまくってるってば!!》
慌てて視線を遮る様にモカの前に立ってカクテルパーティチャットをONにすると僕は顔を引きつらせて彼女に懇願した。それでハッと我に返ったモカが慌てて胸元を庇う。
《何してんのさ……もう……》
《……良かった……》
《だから何がだよ?》
《……なんでもない。うん、ミユちゃんが言う通り、確認って大事よね……》
そう言いながらモカは引きつった顔で僕に笑い掛ける。何故かは分からないけどどうやら誤解は解けたみたいで彼女は複雑そうな表情のままチョメ子の腕に飛びついてきた。
《……はぁ……まあ別にいいんだけど……》
だけどホッとため息を付いた瞬間、突然画面の中に接触アラートが表示される。
次は何事かと周囲を見回すと――モカの手が今度はチョメ子の胸を鷲掴みにしている。
《だ、だーかーら、何してんだよ!?》
《……自分じゃなくて、他人が触れたらどうなるかと思って……》
《あ、アバター本体は衝突判定あるみたいだから大丈夫だよ!!》
《……うん、そうみたいね。でも……なんかこれ、硬くない?》
やっと手を離したモカは僕の腕に抱きついたまま顔をしかめた。多分彼女も同じ事を考えたに違いない。まるでゴムの塊を掴んでいる様なそんな見え方なんだから。
《うん。確かアバターの身体設定で調整出来ると思う。また調べとくよ》
それだけ言うと僕達は周囲の目線を避ける様に広場に向かって歩き始めた。
基本的にVRワールドじゃ歩いていて『転倒する』と言う事が無い。これはユーザーが意図して転倒する以外『不慮の事故』が発生しない為だ。脳波コントロールの為にユーザーが認識していなければ段差も無いし障害物も存在しない事になる。明らかに階段なんかがある場合は意識していなくても自然とアバターはそれを処理しているみたいだけれどちょっとした物は無い物として――つまり『貫通』する。
衣類や靴はアバター本体とは別扱いだからユーザーがそれを意識していればある事になるし意識していなければ無い物として普段日常的に行う動作を再現するのだ。
《……うん、チョメ子。もうバッチリね!》
隣を歩いているモカが満足げに呟く。
何だろうと思って顔を向けるとモカは隣を歩きながら僕の足元を見ている。
《ああ、ヒール? うん、流石にあれだけ特訓した訳だしね》
《やっぱり無駄じゃなかったね!》
そう言って笑うモカに僕も少しだけ頬を緩めた。
この世界では兎に角『なりきる』事が重要だ。特に女性アバターの場合は男みたいに足で歩くと言うよりも『腰で歩く』事を意識する。ヒールがある靴では足だけで歩くと自然と踵から着く事になってしまう。もし現実で同じ事をすると転倒してしまうのだ。
だから歩幅は小さく細かく。膝だけじゃつま先と踵が均等に地面につかないから自然と腰を大きく揺さぶる歩き方になる。そうしなければならないと言うよりその方が遥かに楽だからだ。無駄の無い姿勢と腰を中心とした体重移動。それで頭の高さも殆ど変化しない。
広場に向かって歩いていくとその手前に服飾店があって大きなガラスに薄っすらと僕達の姿が映し出される。歩いている姿は何だか別人になったみたいで不思議な感じだ。
そんな時同じ様に大きなガラスを見たモカが大きな声を上げた。
《あっ……そうだわ、忘れてた! ちょっと寄り道するよ!》
そのままモカが腕を引っ張って服飾店の扉へ向かっていく。どうやら桃香はガラスに映ったアバターの姿ではなくウインドウに並べられた衣装を見て何かを思い出した様だった。
*
店から出た僕達はさっきまでとは全く違う衣装に変わっていた。二人共黒いタンクトップの上に首元が大きく開いたオフショルダーのトレーナーを重ねて着込んでいる。チョメ子はパンツルックでモカはスパッツにフレアスカート姿だ。これらは別に店で購入した訳じゃない。単に店にある試着室を利用してモカが準備していた衣装に着替えただけだ。
《……試着室って、こんな使い方も出来るんだねえ……》
《女の子なら割とよく使うんだけどね。近くにカフェが無くても手持ちの服ならこうやってすぐに着替えられるのよ。服を準備する時間が無いから今回はこれで我慢してね?》
そう言うとモカは僕の頭から足先までを値踏みする様に眺めた。アバターが緻密に見える分どうしてもデフォルトだと衣装の印象が薄くなってしまう。
それを補う為に彼女が考えたのが『デフォルトの衣装を組み合わせる』事だった。
本当なら舞台用に衣装も準備するべきだけどそこまでやる時間がないから苦肉の策だ。
それでも見栄えだけは随分と良くなった気がする。特にモカが準備したのは衣装だけじゃなかった。僕もモカも髪型は少し長めの黒髪で良く似ている。それにモカは手を入れた。
チョメ子は後ろで髪を編まれてルーズシニヨンと言う髪型になっている。対するモカは現実の桃香と似た感じでロングのサイドを軽く編んで後ろで束ねた髪型だ。
店を出て再び広場へ歩きながらモカが満足げな笑みを浮かべた。
《お店の服見て思い出したのよね。舞台に出るかも知れないから、適当に服を準備してきてたのよ。チョメ子はモデル歩きだし、童謡を歌うからその髪型もいいかなーって》
《うん、ありがと。流石は女の子だよね。こういうの、僕……私はよく分からないから》
そう言いながら見たモカはやたらご機嫌で子供が甘えるみたいに腕に抱きついている。
モカの髪型が良く似ている所為だろうか。桃香は今自分の部屋からログインしていて実際には隣にいない。なのにまるで本当に隣にいて笑っているみたいだ。
そして僕達は広場にやってきた。この前に比べると随分人はまばらだ。どうやら時間がずれ込んだ分かなり減ったみたいで……それでもまだまだ多い気はする。
《んじゃ、パフォーマンスのエントリーしちゃうね》
《え……マジでやるの? うーん、まだ多い気がするんだけど……》
《何言ってるの、土日なんてコレの四、五倍は人が増えるんだからね!》
《……うへぇ……》
そう言うとモカは早速エントリーを始めた。ブース利用申請は現地エリアに来ないと出来ない。前は何処からでもエントリー出来たらしいけどその時エントリーとキャンセルを繰り返す妨害行為があったそうだ。それから操作後は一定時間受け付けなくしたらしい。
それがどう言う事かと言うと『もう出る以外に道は無い』と言う事だった。
しばらくしてから髪を弄りながらモカが顔を上げる。
《ふふ、やっぱりエントリー少ないよ。待機二組しかいないし。今やってる人達の次の次が出番だから。がんばろーね、ミユちゃん!》
楽しそうにモカは言った。相変わらず怖いもの知らずだ。片腕にモカをぶらさげて緊張しながら舞台へ近付くと丁度演目が終わったらしく舞台の上から演技者が下がっていく。
――ううっ、遂にあそこに出なきゃ駄目なのか……。
なんだか胃が痛い。スマートグラスの画面がぐるぐる回っている様な気がする。出番はまだなのに心臓だってバクバクだ。こんな感覚随分長い間味わっていない。周囲にいる大勢の観客が全員僕達を見る事になると思うだけでなんだか気分まで悪くなってきた。
《……大丈夫、チョメ子? 顔色が悪いけど……》
《……あ、ああ……うん……だ、大丈夫……多分……》
モカが心配そうに顔を覗き込んで来て、僕は掌を向けて安心させようとする。だけどそんな時突然大きな声が会場に響き渡った。
「皆さァーん、こんばんはァーッ! 『モリグナ』でェーすッ!」
――あれ? この声、前も聞いた様な……?
顔を上げて舞台を見ると以前見たアイドルユニットが舞台に立っているのが見える。
彼女達は観客に笑みを振りまきながら大きな声で再び叫ぶ。
「今日はァー、ちょっぴり遅くなっちゃったけどォー、いつもみたく演るよォーッ!!」
そんな声が聞こえてきた瞬間すぐ傍で観客がボソボソと話す声が聞こえてきた。
(……いやー毎回クシナダに邪魔されっから、避けたんじゃね?)
(……そいや、クシナダはいつもみたくソロライブしてたらしーよ?)
(……やっぱそっかー、モリグナ、音で負けてるもんなぁ……)
どうやら彼女達『モリグナ』とあの少女アバター『クシナダ』は有名らしい。毎回同じ時間に舞台をやっていてモリグナは毎回クシナダに負けているみたいだ。だけどそんな風に冷静に考えていた処にモカの声が聞こえてくる。
《……あ、ミユちゃん。私達、あの三人の次だわ、舞台……》
《……うぇっ、マジで……!?》
顔を引きつらせながら舞台を見ると丁度彼女達『モリグナ』が歌い始めた。
アバター自体はやっぱりデフォルトに近い。モーションで動作に中抜きが起きているのはきっと動作が激しいのに衣類の装飾が過剰過ぎる所為だ。だけどそれが動きを一層シャープに見せている。動きに切れがあってそれが人気なのかも知れない。それに演奏自体は舞台用だからか簡単な楽器で音自体は軽いけど下手じゃない。歌声も殆どチューニングしていないのに上手く聞こえるのは歌い方、きっと声の出し方が本当に上手いんだろう。
全員が歌う上にそれぞれがショルダーキーボードを下げていて演奏までこなしている。
聞こえる音色は本来のキーボード、ギターにベース、そしてドラムだ。軽いと言ってもちゃんとステージの体裁が整っていて『ライブ』としてきちんと成立している。
あの三人の後で舞台に出るなんて無謀もいいところだ。
《あ、あの……モカ? やっぱりこれ、厳しいんじゃ……》
《ヨユーヨユー! チョメ子の声を聞いたら絶対、皆黙り込んで――》
だけど自信満々にモカが言い掛けた時、すぐ近くで大きな歓声があがった。黙り込んでしまったモカと一緒に視線を向けるとハッピを着た人達が異様に盛り上がっている。歌に合わせて大声を張り上げる奇妙な集団に思わず苦笑が出てしまう。
《……凄いね、あんな応援団みたいなファンもいるんだ?》
《ああ、あれは三人の追っかけよ。ファンクラブとか言ってるらしいけど》
《へぇ? 有名なんだ、あの三人組って?》
《……本人達より取り巻きがね。すっごい評判悪いのよ……》
《まあまあ。何処にだって熱心過ぎるファンっているだろうから……》
聞こえてくる騒ぎに本気で嫌そうな顔をするモカを宥める。だけど彼女の不満そうな顔は変わらない。そして三人組の舞台が終わる頃、やっと桃香の言葉を理解する事になった。
演目が全て終わって手を振って三人が立ち去ろうとした時いきなり声が上がったのだ。
それも一人や二人じゃなくまとまった声で『アンコール』を求める様に。見てみるとハッピを着た集団が舞台に立つ三人組――『モリグナ』の名前を連呼し始めている。照明が落ちた後になってもそれは収まらず更に手拍子みたいな物まで聞こえてくる。
いつの間にか周囲にいた関係ない人達まで調子にのって声を上げ始め消えた筈の照明がついたかと思うと再び三人の少女アバター達の姿が舞台の上へと現れた。
「……よーし、それじゃあサービスしちゃおっかなー!!」
ツーテールの少女アバターが大きな声でそう言った途端ハッピ姿の集団が拍手喝采を始めて、代わりに隣にいるモカの表情が険しく変わった。
僕は舞台の作法を知らないし路上ライブなんてこんな物だと思っていたけど本来禁止されているらしい。単独ライブではないし人が交代しながら舞台に立つんだから当然の話だ。
だけどファンの声援と手拍子、他の観客達の戸惑うざわめきの中で『モリグナ』の三人が演奏を始めようとした時、突然僕達のすぐ近くから冷たい氷みたいな声が上がった。
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