第4話 妹の為に

 桃香がうちに来なくなってもう二年――その彼女が今からうちに来ると言った。


 だけど考えてみればサクラ小母さんがそれを許す筈がない。時計を見るともう二〇時を過ぎている。幾ら幼馴染でも女の子が男の部屋に行く事をあの小母さんが許す訳がない。

 それでもアバター調整の為に部屋に広げていた古い美術書や人体解剖図、モデリング資料を脇に寄せて片付け始めた。そんな時、不意に玄関のチャイムが鳴る。


――あ、また……宅配かな……。


 そんな事を思いながら片付ける手を止めて立ち上がった。両親は出先から荷物を送って来る事が多い。僕も学校があるから夜間受け取りが殆どだ。

「……はーい……ちょっと待ってください」

 そう答えながら階段を降りて玄関の前までやってくる。


 そして玄関の鍵とチェーンロックを外して扉を開くとそこには一人の女の子がいた。何処となくX子に似てる気がする。長い黒髪でサイドで編んだ髪を後ろで結った、如何にもお淑やかなお嬢様みたいな子がレースの細かいカーディガンを羽織って立っている。とても可愛らしい小柄な子が緊張した面持ちで頬を赤くしてじっと僕を見上げていた。


「……あ、あの……ミユちゃん? こんばんは、その……お久しぶり、です……」

「え、ええ? えっと――」


 その愛称で僕を呼ぶのは身内とお隣の宮ノ内一家しかいない。まるで女の子みたいな愛称で僕自身母親似だから小学校の頃はよくからかわれた。高校生の今でもそう呼ぶのは両親と、それ以外では――さっきまでVRワールドで話していた桃香以外にいない。


「――え!? え、嘘……も、モモちゃん!?」

 僕が驚いてそう言った途端、それまで恥ずかしそうにしていた女の子の目付きが変わる。

 眉と口元が同時に下がって不機嫌そうな顔になった。


「……その呼び方、辞めてって言った……」

「え、あ……ご、ごめん! え、でも……桃香? 本当に?」


 慌てて謝ると女の子――桃香は不機嫌そうな顔から嬉しそうに変わる。だけど僕はもう驚くしかない。僕が知る『桃香』はこんなふんわりした女の子じゃなかったからだ。

 髪もおかっぱだったし服も男の子みたいな動き易い物ばかりの印象が強い。

 思い出の姿とは似ても似つかない。全くの別人にしか見えなかったのだ。

 無言で眺めていると桃香の顔が訝しげになって尋ねてくる。


「……えっと、ミユちゃん? どうしたの?」

「あ、ごめん……久しぶり。凄く変わってたから、一瞬分からなかったよ……」

「ふふ、最後がミユちゃんの受験前だったしね? 久しぶり過ぎてちょっと恥ずいね?」


 はにかんだ笑みを浮かべる桃香。その仕草も随分と女の子らしい。

 当然だけどアバターと全く違う。彼女のアバター『ミャモ』はもっとボーイッシュでどちらかと言えば昔の彼女に近い。それに合成音声だから本人の声を聞いても一致しない。

 確かにこれなら個人情報保護も完璧で納得だ。


「……でもこんな時間でよく小母さん、許してくれたね……」

「うん。ミユちゃんに会って来るって言ったら『行ってらっしゃい』って」

「え、それだけ? それに……行くって言ってから随分遅かったけど……」

「お、女の子には準備とか色々あるの! ほら、もうお家に入ってもいい?」

「あ、ごめん……はい、どうぞ」


 そう言って扉の前から退くと桃香は隙間から猫みたいにスルッと入って来る。こういう処は昔のままだ。彼女は玄関で靴を脱ぐと綺麗に並べて上がっていく。彼女が脇をすり抜けた時のふわっとした女の子の匂いにぼんやりとその背中を眺めた。


――そう言えばVRワールドじゃ匂いなんて無いもんなあ……。


 アバターが迫ってきても恥ずかしいとは思わない。結局視覚と聴覚だけでそれ以外に相手が存在する事を感じられないからだ。逆に言えば電話と同じで面と向かって言えない事でも言い易い。桃香もそれで僕とワールドで相談しようと思ったのかも知れない。


「……どうしたの、ミユちゃん?」

 勝手知ったる我が家で階段を少し上がった処で桃香がきょとんとしている。

「ああ……桃香が随分可愛らしくなったと思って。ちょっとびっくりした」

 それで桃香は唇を尖らせて頬を赤くする。小さく『よし』と言う声が聞こえてそのまま二階の僕の部屋に上がっていく。その後ろ姿を見て苦笑しながら僕も続いた。


 部屋に入ってペットボトルの紅茶を注いでいると桃香が僕のスマートグラスを手に取って眺めている。基本的にスマートグラスは貸し借りが出来ない。脳波コントロールが最適化される為に所有者以外の脳波パターンと視線行動パターンが一致しないからだそうだ。

 そして小さなポシェットから自分のグラスを取り出すのを見て僕は尋ねた。


「――へえ、桃香もそのモデル、使ってるんだ?」

「うん。だって他のは高いし重いんだもん。便利らしいけど私全然分からないし。BDのスマートグラスが一番安くて使い易いって学校で聞いたからこれにしたの」


 BDというのはスマートグラスの販売メーカーでVRワールド運営でもある。母体は鳳龍院ホールディングスと言う医療系大企業だ。スマートグラスは色んなメーカーが販売しているけどその中ではお手頃で使っている人も多い。

 桃香の正面に座ると自分のスマートグラスを弄りながら玄関で聞いた事を再び尋ねた。


「……でもサクラ小母さん、良く許してくれたね。昔は遅くなると良く叱られたのに」

 時計を見るともう夜の九時を過ぎている。普通なら絶対に怒られる時間だ。だけど桃香は悪びれず小さい頃みたいに笑っている。実は怒っていたのは小母さんじゃない事を僕は知っている。桃香のお父さん、イツキ小父さんが娘を可愛がっていて心配していた為だ。

 小母さん自身はリベラルな人で多分うちの両親といい勝負だと思う。


「まあ、私信用されてるし? ママも知ってるし嘘は言ってないよ?」

「そ、そう……あ、X子見たいって言ってたっけ。早速見てみる?」

「あ、そうだったわ! うん、私その為に来たんだし!」


 桃香が薄いピンク色のグラスを付けて、僕は早速アバターをエディットで立ち上げた。

 三つあるスロットの真ん中で立つX子を選択して共有モードでフレンドリストから桃香のグラスを指定する。そして見易い様にARモードで表示すると桃香は驚いた声を上げた。


「……やっぱり凄い……ミユちゃん、この子本当に凄いよ。これ、実物にしか見えない」

 陶然とした顔でアバターを見つめる彼女と一緒に実は僕も驚いていた。


 ARモードで起動したのは僕も初めてだ。アバターは現実の環境が反映された状態で画面に表示されている。部屋の照明や窓から差し込む星明かり、そして周囲の薄暗さまで反映された姿はまるで一人の女の子が現実に部屋にいるみたいだ。


 立ち上がって見ようとした桃香を止めると僕はグローブで操作した。デフォルトのモーションを選択するとX子は自然な動きでその場に座る。床やテーブルに重ならないのはきっとグラスのセンサーを使っているんだろう。僕もここまで凄いと思って無かった。

 その姿に感動していると桃香がソワソワし始める。


「……ミユちゃん、もう……近くで見てもいい?」

「うん。見易くする為に座らせただけだから」

 そう答えるや否や、桃香はX子に四つん這いで近付いていく。顔を近づけて彼女が手を伸ばすとその手がX子を突き抜ける。それでやっと思い出した様に自分のグローブを着けると桃香はX子の顔や肌を細かく観察し始めた。


「ミユちゃん、これ……やっぱり肌の密度が凄いんだけど、一体どうやったの?」

「ああ、肌は単色に赤と青をノイズでブレンドしたんだ。それを乗算で複数重ねてるよ」

「へぇ……でもどうして赤と青なの? 赤は血の色だと思うけど……」

「肌の下の毛細血管は細胞を通り抜ける光で青にも見えるんだ。古い手法だけどピクセル単位でランダムにモザイク処理もしてる。その密度を最大にして張り付けたんだよ」

「へぇ……そんなやり方あるのね……でも凄い。本当に実物みたい……」


 仕切りに感心しながら次に桃香はアバターの睫毛や唇をチェックし始めた。そして視線を落とすと今度は胸だ。アバターはデフォルトのシャツしか着ていない。そして彼女は唾を飲み込むと少し怒った様な顔で振り返って僕を睨んできた。


「もしかして……ミユちゃん、この子で……え、エッチな事とかしてないでしょうね?」

「……は? 何言ってるの。これ、僕が作ったアバターだよ?」

「だ、だって……ほら……」


 そう言うと桃香はグローブを付けた手でアバターの胸を掴んだ。肉感的にX子の胸がその指に合わせて変形する。紅茶を口に含んでいた僕は吹き出しそうになって咳き込んだ。


「……ほら、やっぱり!」

「――ゲホッ……な、何が――『ほら』、なんだよ……」

「今ミユちゃん、超反応したし!」

「反応って……単にびっくりしてむせたんだよ……」

「嘘! だってミユちゃんも男の子だし! こうやって揉みまくってたんでしょ!?」

「だから……アバターの胸掴んでどうするんだよ……」

「見て楽しむ! 形が変わる感じとか……きっとそうだと私、ミユちゃんを信じてる!」

「……そう言う信じ方はしないでください……」


 げっそりして答えると桃香は楽しそうに笑った。でも変と言うか、無理やり盛り上がってる白々しさがある。元々桃香は少し特殊な感性の持ち主で昔から突拍子も無い事を口にする。でもこんなはしゃぎ方はらしくない。そして桃香はわざとらしくため息をついた。


「まあミユちゃん、昔から女の子の裸とか全然興味なかったもんね。どっちかと言うとデッサンとか? だから女の子に興味ないんじゃないかって思った事もあったんだよね」

「えー……いや、僕も男だよ? ちゃんと女の子に興味はあるよ?」

「ふぅん……例えばどんな処に?」

「……う……え、ええと……」


 真面目な顔で尋ねられて僕は言葉に詰まった。実は僕は女の子を余り意識した事がない。

 昔から父さんと一緒に裸婦デッサンをしていた所為か、女の子と言われて真っ先に思うのは柔軟な筋肉とか柔らかな曲線とかそう言う造形的な事ばっかりだ。大体僕の身近には桃香に母さん、サクラ小母さんしかいない。流石に母さんは除くとして桃香――は女の子と言うより妹だし。となると他はサクラ小母さんしかいない。

 そこまで考えた途端、VRワールドで桃香に言われた事が脳裏をよぎる。


――あれ? やっぱり僕……サクラ小母さんの事が好き……なのかなあ……?


 いやいや、それは無い。だって僕はイツキ小父さんも好きだし。でも……。

 そして僕が苦悩しているとX子の胸元を見ていた桃香が今度は真面目な声で尋ねてきた。


「――んー、ミユちゃん?」

「えっ? あ、はい、どうしたの?」

「処でこの子……なんかデフォルトの胸より小さくない?」

「ああそれか。デフォルトの胸はちょっと大き過ぎるんだ。リアル風なのにディフォルメーションされてて、年齢や体格を考えて調整し直してるんだよ」


 でもそう答えると桃香は意外そうな顔に変わる。

「へえ……ミユちゃん、女の子の胸とか気にしないと思ってたんだけど……」

「趣味としては気にしないよ? でも写実的って意味なら気にする。そう言えばモデルの外見しか調整してなかったけど柔らか過ぎる気もするね。設定も変えた方がいいかな?」

 さっき桃香が鷲掴みにした時の反応を思い出す。掴んだ指に対して食い込み過ぎだし離した後の物理演算反応も筋肉や脂肪と言うより水風船にプリンを入れたみたいだ。

 そして早速設定項目を確認し始める僕に桃香は更に首を傾げた。


「でも……柔らかい方が男の子には受けが良いんじゃないの?」

「柔らか過ぎると気持ち悪いよ。女性の胸は脂肪と乳腺で構成されてる。モデルもボーンが設定されてるけどちょっと違う。それに物理的、応力的に考えると水風船みたいになる筈が無いんだ。僕の解釈だと鎖骨から胸筋の流れがあって男女関わらず影響が出るんだ」


「……ふうん? そうなの?」

「それに胸の大きさは鎖骨と関係があるんだよ。乳房を頂点として台形型の流れで鎖骨からぶら下がる。だから鎖骨が支えられる程度までしか大きくならないんだと思うよ」


「……え。あの、えっと……」

「だから女性の胸と言っても大きさより造形的形状が重要になるんだ。例えばカノーヴァの『エロスとプシュケ』像とかベルニーニの『プロセルピナの略奪』像辺りが僕は好みなんだけど、アバターも電子的造形と言えるから――あ、ごめん……それで、何?」


 つい熱が入ってしまって気が付くと桃香はモジモジと視線を外している。心なしか胸元を隠す様に両腕を抱いている。そして俯きがちに見上げると口を尖らせて僕を見た。


「……ミユちゃん、なんかエロい。女の私より詳しいし……途中から美術だし……」

「え、えー? 昔から僕達、普通にこういう話してたよね?」

「うー……だけど流石、昔から女装してただけはあるよね……」

「じょ、女装『してた』んじゃなくて『させられてた』の! 桃香と母さんに!」

 上目遣いにボソッと桃香はとんでもない古傷を抉ってくる。それで思わず大きな声で否定すると彼女は目を丸くして小さく吹き出した。


 僕が小さい頃は特に母さんの小さい頃に似ていて事ある毎に女の子の格好をさせられていた。桃香が来る様になってから一旦収まったけど無くなる事は無かった。僕は桃香といつもワンセットで無理やり女装させられていたのだ。

 男の子が欲しかったサクラ小母さんは桃香にボーイッシュな服をよくチョイスしていたし、考えてみたら僕も桃香も小さい頃から周囲の大人達に振り回されっぱなしだ。


 そして二人でひとしきり笑った処で桃香が小さな声で言った。

「――やっぱり一緒に出て欲しい。最後だから一緒にコンテスト、出てください……」


 そう言って桃香は指先に髪を絡めて目を伏せる。それを前に僕は凍りついていた。

 人前に作品を出して他人に評価される――それは途方もなく恐ろしい事だ。どんなに頑張って努力しても『駄目』の一言で無かった事にされる。そしてこの世界は大人が決めたルールでしか見て貰えず、そこから外れた人間は絶対に認めて貰えない。

 だから諦めてしまった。夢や希望も全部大人が作った言葉だ。子供は大人が望む形にしか生きられない。それを経験してから僕は頑張る事なんて出来なくなってしまった。


 でも同時に『じゃあ桃香は?』と言う疑問が湧き起こる。きっとまだ桃香はそんな現実を知らない。頼る彼女に僕は大人と同じ事をするのか――そんな事を考えてしまう。

 結局僕は何も答えられず、彼女は『そろそろ帰るね』と言ってお開きになった。


 彼女を見送ろうと玄関まで出た時、僕はもう二度と桃香は来ないだろうな、なんて事をぼんやりと考えていた。これは諦めの感情だ。彼女も黙ったままでずっと俯いたままだ。

 だけど扉を開いて出ようとした時、不意に桃香は立ち止まった。


「……ねえ、ミユちゃん……一つだけ、聞いてもいい?」

「……え、うん……」

「ミユちゃんが昔、コンクールに出たのって……私の所為、だよね?」

「……え……」

「本当にごめんね。私が『ここでミユちゃんの絵を見たい』なんて言わなきゃきっとミユちゃんも絵を辞める事なんて無かったのに……本当にごめんなさい……」

 それを聞いて会わなかった二年間、彼女が胸に抱いていた物が見えた様な気がした。


 コンクールに出展するきっかけは桃香の一言だ。コンクール展示がされる会場にサクラ小母さんに連れられて行った時、彼女が無邪気に言った一言を聞いて僕は出して見ようと思った。だけどそれは単なるきっかけであって出すのを決めたのは僕自身だ。


――もしかして、桃香が来なくなった理由って……自分の所為だと思ってるから?


 そう思った瞬間、締まりかけた扉を押さえて彼女の背中に向かって言ってしまっていた。

「――桃香、明日まで待って! ちゃんと明日、返事するから!」

「……え?」


 振り返った彼女はキョトンとして訳が分からない顔だった。だけど意味を理解した途端その顔が明るく変わっていく。小さい頃、やっと泣き止んだ時に見せた笑顔みたいに。

「……うん、分かった!」

 そう言って桃香は本当に嬉しそうに笑って帰っていった。



 彼女が帰って静かになった部屋でベッドに横たわる。天井を見ながら考え事をしていた。


 桃香が二年間顔を見せなかったのは『嫌になったから』じゃなくてきっと責任を感じていたからだ。僕が絵を辞めたのが自分の所為だと思っているから顔を出せなくなった。


 もしあのまま断っていればきっと何を言っても彼女は一生後悔したままだ。そんなの絶対に許せない。だって妹を泣かせる兄貴なんて最低過ぎると僕は思うからだ。


 桃香が気にせずにいられる為にはきっと僕自身が動くしかない。例え上手くいっても駄目だったとしてもそれで桃香はもう気にしなくて済む筈だ。


――よし。一度諦めた事だし、どうせなら桃香の為に最後位兄貴らしく頑張ろう。


 そう決意すると僕は目を閉じた。

 何か新しい事を始める――そんな感覚はとても久しぶりで、少しどきどきする事だった。

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