すさびる。『人生はいつからでも変わる』

晴羽照尊

人生はいつからでも変わる


 ある年の、ある日、あるとき。ある一報が入った。だから私は走った。

 走ったのなどいつ以来だ? 少なくとも、記憶はない。


 生まれたときから、まったりとした子どもだったらしい。母親の胎内から出るときも、随分と時間のかかったものだと、よくじいさんに聞かされた。保育園に通い始めたころから、時間通りに起きたことはないらしい。小学校へも――小学校が走れば一分かからずに行けた距離にあったことも理由ではあるが――始業のベルが鳴るまで家を出ないほどだったという。


 初めて恋人ができたのは、二十歳を越えてからだった。そんなまったりさも含めてか、そのまま結婚し、いまに至る。職に就いてからもまったりさは変わらず。時間ぎりぎりに出社し、定時をゆるやかに見過ごしてから、帰路についた。いつも利用する電車にも、走ったことなどない。いくら出社に間に合わなそうでも、私はのほほんと歩いていた。


 不思議なことに、それで社内での私の評価が悪くなったことはないように思う。むしろ、自分で言うのもなんだが、職場のムードメーカーとして、がんばりがちな新入社員へのよい見本として、私のまったりさは取り上げられていた。


 そんな私だから、逆説的に、時間には余裕を持って行動する癖があった。


 ぎりぎりの登校・出社。それは、慣れや感覚による、完全なる計算の上に、決定的な場面には決定的に遅刻しないように、緻密に組み上げた生活リズムによって形成されていた。だから、試験のときや、重要な会議のときなどには、前日から睡眠を早めにとったりなど、細々と生活行動を律することで、間違いなく遅れないように振る舞っていたのだ。


 しかし、今回は読み切れなかった。だから、走る。走る走る走る。


 使ったこともないような筋肉が膨張し、体の節々が痛む。息が、苦しい。もちろん、人生で一度も走ったことがないとは言わない。学生時代には体育の一環で、長距離を走らされたこともある。とはいえ、これほどまでに一心不乱、一所懸命に駆けることなどなかったに等しい。なぜなら、やらされた長距離走のときは一心不乱、一所懸命に手を抜いていたからだ。悪目立ち、叱責を頂戴するほどには遅くなく、順当に目立ち、体育大会に参加させられるほどに好成績は出さない。それを常に意識していた。


 走る走る走る走る。私は、走る。


 車の運転は、もうやめた。家族に心配されるから。こんなときに限って電車は、人身事故で遅延しているという。そもそも、昔と比べて電車は、あちらこちらへ蜘蛛の巣のように張り巡らされ、もはや私には、どの路線を利用すればどこへ行けるのか、解らなくなってきてもいる。なんだ、あの西瓜スイカとかいうのは?


 目的地へ到達。私は、息を切らして、その扉の前へ立った。この歳になっても、見栄は張りたい。息を整える。汗は……もう歳だ、新陳代謝が悪くなっている。だから、うっすらとしか浮かんでいない。そういえば、私がまったりとした性格なのは、汗をかきやすい体質だったからだ。と、後付の理由を思い出す。若いころは確かに、よく汗をかいていた。それが恥ずかしくて、焦るのをやめたのだ。


 まあ、生まれるときからまったりとした人間だったのだから、やはりそれは、後付のものでしかないのだが。


「……おじいちゃん!」


 落ち着きを取り戻してから、扉を開ける。するとすぐに、疲れたような、やりきったような表情で、孫が言った。病室を見渡す。娘も、娘婿も、孫の旦那も、もちろんみな、揃っている。


「生まれたか?」


 私は、さものらりくらり、いつも通りにまったりとここまで来たように、緩やかな言葉遣いで、孫に問う。


「…………」


 孫は、黙ったまま頷いた。得意気な、満足気な、そして、どこまでも幸福気な表情で。

 新しく世界へ踊り出でた、小さな生命を抱き上げて。


「おお……おぉ……」


 いったい、私はいくつになったのだろう? そんなことを、不意に考える。


 もう、一世紀弱も生きたはずだ。子を持ち、孫を持ち。親族や、親族以外にも、多くの生命が生まれ、そして死んでいくのを見てきた。


 それなのに、まだ世界は、これほどまでに私の心を、自分では制御できないまでに動揺させるなにかを齎してくる。


「ほぉら、ひいおじいちゃんですよ~。うふふ、あなたが生まれるからって、走ってきてくれたんだよ?」


 孫が、ひ孫に語りかけた。


 その言葉に、一同が『えっ!?』という顔で私を見た。やめろ。見るな。恥ずかしい。


 そして、なぜ解った。孫。息は整えた。汗もかいてない。言葉遣いもまったりと装ったのに!


「なに言ってるの。おじいさんが走るわけないじゃない」


 ばあさんが言った。年甲斐もなく、ウインクなどしよってからに。……いや、皺くちゃにまぶたがつぶれただけかもしれんが。


 ともあれ、私が走ってきたことは、どうやら親族間でなかったことになったらしい。


 まったく。孫といい、ばあさんといい。……女はすげえな。



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