走り抜ける

hitori

第1話 走り抜ける

 時は流れるもの。日々の生活の中ではそう思える。だが、思い出となると、過ぎた日々は走り去ったような感覚にとらわれてしまうのは私だけだろうか。


 「母さん、お昼の用意はテーブルの上に置いてあるからね。いってきます」

 「はい、いってらっしゃい」


 母はもうすぐ90歳になる。特別大きな病気もなく過ごしているが、体力の衰えは否めない。食事は好き嫌いなく、残さずに完食。


 「ちぃちゃん、お母さんで書けるから、お祖母ちゃんをみてあげてね」


 娘の千里子はお昼からの出勤、まだ布団に潜っているが、一声かけて出かけるのが日課になっている。


 その日の仕事を終えて、夕方五時すぎに家に戻った。


 「ただいま」


 テレビがついてない。お昼は食べたようで、食器が流しにおいてある。


 「母さん、寝てるの?」


 部屋を覗くと布団をかぶって横になっていた。私は洗濯物を取り込み、風呂の栓を抜き、夕食の用意を始めた。

 母さんにはカレイの煮つけがいいかな、ほうれん草の胡麻和え、汁物は豚汁にでもしようか。

 用意ができて、いつもなら物音で起きてくる母さんが、まだ寝ている。


 「母さん、できたよ」


 呼んでも返事がない。どうしたのかしら、具合でも悪いのかな。部屋に入ってみると、やはり寝たままだった。


 「母さん、ご飯よ。食べない?」


 手で母さんの体をゆすってみた。でも寝たまま。


 「あれ、どうしたの?大丈夫?」


 おでこに手をあててみると、冷たい。私は腰が抜けたように、その場にへ垂れ込んでしまった。どうしたらいいのよ、普段から一応は心の準備はしていたつもりなのに、もう年だから、いつ倒れてもいいようにって。でも、こんなことってある?突然よ。

 何をどうしたらいいのかと、気が動転して、とりあえず娘に電話した。


 「あのね、お祖母ちゃんが冷たくなっているんだけど、どうしたらいい?救急車、それとも警察に電話すればいい?どっちよ」

 「冷たくなっているんだったら警察。私、すぐに帰るから」


 警察の方が来てから、すぐに千里子が帰ってきた。


 「ああ、奥さんの娘さん?今日、何時ごろ出かけた?」

 「12時半くらいです」

 「その時、お祖母ちゃんはどんなだった?」

 「いつもと変わりなくお昼を食べて、テレビを見てました」

 「玄関の鍵はかけた?」

 「はい」


 警察は千里子に母がお昼まで元気だったことを確認した。


 「奥さん、お祖母ちゃんね、誰もいないときに死んでいるし、奥さんが帰ってきたとき、玄関の鍵はかかっていたんでしょ。事件性はないようだから、死体検案書を書いてもらって、それが死亡診断書になります」

 「死体検案書?」

 「うん、こちらで今から担当の先生に連絡するから、あとでその先生のとこに取りにいって」


 朝まで元気な顔をしていたのに、突然の別れだった。身内だけでの簡単な葬儀をすませ、ひと月ほどして、気持ちが落ち着き母の部屋を片付け始めた。

 何の取り柄もない人だったけど、私のことをいつも心配してくれていた。私とは真反対の性格で、怒ったり泣いたり、感情的。見栄っ張りで、人の悪口ばかり。大勢の家族の中で育った母は、そうすることで、自分を守って生きてきたのかもしれない。戦争を経験し、戦後の貧困を走り抜け、駆け落ち、男遊び、酒に溺れ、離婚、そして私を育ててくれた。

 70億いる人類の中の一人だけど、私にとっては、たった一人の母。同じ時を過ごし、笑いあった存在。小さな思い出が積み重なった宝のような存在。戦争で読み書きができず、私が学校で字が読めるようになったことを、何よりも喜び、互いを助け合った。

 母が苦しむことなく、眠るように去っていったことが、最後の愛だったのかもしれない。

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