朝の公園、深夜の高速道路

夢月七海

朝の公園、深夜の高速道路


 公園に着くとまず、ストレッチから始める。特に、足首を入念に伸ばす。

 サングラスをかけ直し、帽子のつばの位置を改めて、いよいよ出発。この公園の一周する、よく整備されたジョギングコースを軽めに走る。


 軽やかに上下する手足、まだ息は切れてない上に、汗も微量。朝の光の中を、雀が鳴きながら飛んでいく。擦れ違うランナーが、爽やかに挨拶をする。

 ここでは、一生懸命走ることだけが美徳される。私の姿を見ても、「おお、若々しいお婆さんだ」とくらいにしか思われない。


 そんな瞬間が意外と心地よく、私は頻繁に公園へ足を運ぶ。いつもとは違う自分になれるかのようだ。

 ふと、真横のベンチに、ワンピースを着た女の子が座っていた。ぽかんと口を開けて、走る私を見送っている。あのような反応は珍しく、失礼な子だと思った。


「ちょっと! ちょっと、ばーちゃん! 待って!」


 すると、後ろから女の子の声がして、先程の子が追いかけてきた。片手を大きく振って、ぜいぜいと息を乱している。

 その姿が、どこかで見たことあるような気がして、思い出した。私は、徐々に速度を落とし、その子と並んだ。


「ワラちゃんじゃないの。どうしたの?」

「どうしたのって、こっちのセリフよ。なに、その恰好」


 呆れた様子の彼女の言う通り、今の私は、半袖のスポーツウェアに短いズボンとスパッツ、運動靴を履いている。


「公園で走るなら、普通の恰好よ」

「なんか、こうしてみると、手足がシワッシワね」

「失礼ねぇ」


 やはり、ワラちゃんは子供なので、感想に容赦がない。とはいえ、私は心が広いので、本気で怒ったりはしない。


「でも、こんなところにいるワラちゃんに言われたくないわ。おうちはどうしたの?」

「あー、あっちは、出ていった」

「あら」

「なんか、パパさん、ママさんがいつも喧嘩してて、見てられなくって」

「あらららら」


 ワラちゃんはおしゃまな子だと思っていたけれど、喧嘩を見ただけで嫌になってしまうなんて。親の喧嘩は子供に悪影響と、どこかで聞いたことあるけれど、本当なのかもしれない。


「今は? おうち、探してるの?」

「んー、そんな感じ」

「いい所、見つかった?」

「まあ、そんな本気で探してるってわけじゃあないからね。放浪を楽しんでる感じ。……てか、」


 ずっと私の隣で走っていたワラちゃんが、初めて嫌そうな顔をした。


「一回、止まってから話さない?」

「いやよ。走り出したのなら、ちゃんと続けないと」

「回遊魚みたい」

「ワラちゃん、物知りねぇ」

「馬鹿にしないでよ」


 そう言って、ぶーと口を尖らせるワラちゃんは、子供っぽくて可愛らしい。


「こんなに走ったなら、今夜はお休み?」

「まさか。ここではウォーミングアップよ」


 驚きを隠せない様子のワラちゃんに、私はにっこりと笑い掛ける。


「夜こそ、私の本領発揮なんだから」






   〇






 どうしてこんなことになったのだろう。この三十分間、ハンドルを握ったまま、何度もそんな嘆きが押し寄せる。

 深夜一時過ぎの高速道路、当然のように辺りは真っ暗で、反対車線も車が走っていない。愛車には僕一人だけで、心細さと情けなさで泣き出してしまいそうだ。


 きっかけは、この車で、坂を登っている時に、後ろから追い抜かされたことだった。古い車で、アクセルベタ踏みでも八十キロまでしか出せないから、当然だ。ただ、追い抜かされる直前に、パッシングされたのはちょっと気になった。

 追い抜いた車は、僕のいる車線に戻り、しばらく数メートル進んだところで、急にブレーキを踏んで止まった。一瞬ぶつかりそうになってヒヤッとしたので、車線を変える。


 すると、すぐに僕の車を追い越して、前になる。そして今度は、車線変更の邪魔をしてくる。

 この一連の動きを、この車はなんでも繰り返してきた。「煽り運転だ」と分かっても、どうすればいいのか分からない。路肩に止めて、警察に通報するのが一番なんだろうが、スピードを落としても、ぴたっと前方についてくる。


 相手が、どんな動きをしてくるのかが全く予想できなくて、怖かった。運転席と助手席の窓も曇りガラスにしているせいで、運転手の顔が見えないのも不気味だ。

 料金所はまだ先にある。そこまで行ければ大丈夫だろうけれど、その間、事故を起こさずに走り切れるだろうか……そんなことに神経を尖らせていたので、フロントガラスのその先しか見えていなかった。


 コンコン、と、助手席側の窓が叩かれた。そんなことはありえない。そう理解するよりも、反射的に、音の元を確かめてしまった。

 窓の外、真っ暗闇の高速道路、八十キロのスピードを出しているこの車と並んで、お婆さんが走っていた。紫色の和服を着て、白い髪を日本髪に結い上げて、しわくちゃな手足を短距離走選手のような完璧なフォームで動かしながら、人の良さそうなその顔をこちらに向けている。


 僕は、咄嗟にブレーキを踏んだ。ギャリギャリと、嫌な音を立てて、車が停車する。タイヤの方から、ゴムの焼ける匂いがする。

 ハンドルにもたれ掛かるような恰好で、下を向く。……今の光景は、きっと、初めての煽り運転に疲れて、見えた幻だ。前の車が、スピードを上げて、それを追いかけてるような足音が聞こえたけれど、絶対に気のせいだ。


 ガシャン、と酷い音がして、僕は顔を上げた。前の道はカーブになっていて、その向こうに白い煙が上がっているのが、街灯に照らされて微かに見える。

 僕は、慎重に車を発車させた。カーブの先まで進むと、ヘッドライトがその事故の様子を浮かび上がらせた。


 先程まで、僕を煽っていた車が、斜め前になって、道路を塞ぐように立ち往生していた。ドリフトしてしまったのだろうか、タイヤからは煙が上がっている。

 そして、同じように煙の立つボンネットの上には、僕の見たお婆さんが乗っかっていて、フロントガラスに張り付いている。


 そのお婆さんが、僕の方を見た。七十代ぐらいの、どこにでもいそうなお婆さんが、にっこりと笑った。ただ、それだけなのに、僕の肌が粟立った。

 ――煽り運転は、スピードの遅い僕に怒って、あんなことをしてきたんだと、想像することが出来る。でも、あのお婆さんはその余地すら与えず、ただ、ひたすらに、理不尽だった。


 お婆さんが、前の車のフロントガラスから離れて、直立する。ちょっとだけ、腰が曲がっているのが、生々しく感じる。

 そのまま、一度飛び跳ねた。ボンネットが大きく凹む。再び、宙へ浮かび上がったお婆さんは、僕の車の屋根すら飛び越えて、夜の闇の中へと、消えていった。






   〇






「これ、ばーちゃんがやったでしょ」


 私が拾った新聞のある面を押し付けると、昨日と同じ公園で足首を伸ばすストレッチをしていたばーちゃんは、「あらー」と声を上げた。

 その見出しには、「深夜の高速道路で、煽り運転の車が大破」と書いてあった。


「昨日の今日なのに、情報が巡るのは早いねぇ」

「これ、新聞だから、むしろ遅い方だよ」


 見当違いの感想を述べるばーちゃんに呆れながら、私はあらためてその記事を読んでみる。


「煽り運転をしていた方も、されていた方も、高速道路で車と並走する、着物姿の老婆を目撃……って、大ごとになってるじゃない」

「こんなに注目されるのは、久しぶりねぇ」

「なんで、煽り運転する車を懲らしめるの? 正義に目覚めたの?」


 うふふふと笑うばーちゃんに、冷や水を浴びせるようにそう指摘すると、やっとばーちゃんは「おや」と心外そうな顔をした。


「そんなつもりは全然ないよ」

「じゃあ、どうして?」

「腹が立ったからねぇ。高速道路の上で、私よりも恐れられている存在がいるなんて、許せないよ」


 世間話をするかのようなにこやかさで言い切るばーちゃんに、私は内心、ほっとしていた。

 妖怪は、人間には理解できない理念とプライドで動いている。高速道路で爆走するターボばーちゃんも、取り憑いた家を裕福にする座敷童子も、それは同じだ。


 「さて」と、ばーちゃんはストレッチを終えて、走り出す準備に入った。


「私はひとっ走りしてくるけれど、ワラちゃんはどうするんだい?」

「私は、町をぷらぷらしているよ。帰る家もないし」

「そんなことしてないで、早く家を見つけなさいよ」

「はーい」


 ばーちゃんは厳しい口調になったけれど、正直、妖怪としてのキャリアが私よりも下のばーちゃんに言われても、糠に釘だ。

 今朝も元気に走り出したばーちゃんを見送って、私は公園の出口に向かって、とりとめもなく歩き出した。



























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