僕の100メートル
狛咲らき
3年間の終わり
『オンユアマーク』
その言葉に各々が目の前のスターティングブロックに足を掛ける。
緊迫した空気。観客の誰もが息を吞むこの時間が、僕は好きだった。
歩数を合わせてスタートしやすい形にし、ゆっくりと深呼吸。
視線の先は100メートル離れた白線だ。
『セット』
腰を上げ、始まりに今か今かと急く思いを必死に抑え、静かにその時を待つ。しかしその時は一向に訪れない。
ならば一体どれくらい待つのか。何秒? 何十秒? だが実際には、きっと1秒も経っていないのだろう。
緊張は全くしていない。
高校最後の試合だというのに、頭に過ぎるのは出かける直前の、「今日の夜はステーキよ」という母の言葉だった。
どうやら最後でも僕はいつも通りらしい。
——ならばいつも通り、楽しい勝負をしようじゃないか。
『バンッ!』
ピストルの音がした直後、僕達は一斉に走り出した。
同時にそれまでの静寂が嘘のように、会場が観客の熱狂に包まれる。
出だしは好調。視界には誰も映らない。観客の熱気に当てられスピードもどんどんと上がっていく。
身体の内側から何かが燃えるのを感じた。
それにしても、たった100メートル先にあるゴールに向かって走るだけのゲームなのに、何故これほどまでに熱く、楽しめるのか。
閃光花火のように一瞬にして始まり、終わる。その一瞬に魅せられなければ、今頃僕は帰宅部となって毎日のようにパソコンに齧りついていただろう。
思えばいろいろあったものだ。最初の試合で中学から有名だった選手を抜かして注目を集めたり、大勢の前で校長から表彰状を貰ったり、練習をサボってゲーセンで遊んだり、コーチにギリギリバレない程度に練習の手を抜いたりと、楽しいことばかりの日々だった。
なのに、そんな日々ももう終わり。3年という時間は長いようで、恐ろしいくらいに短く、一抹の寂しさを覚えてしまう。
……まだ20メートルを走り抜けたばかりだというのに、そんな感慨を抱いて僕は心の中で笑ってしまった。
しかしそれは僕の心に余裕がある証拠だ。焦って身体を力ませることなく、自然と全力の出せる走り方になっている。この調子で最初にゴールへと——。
ふと、観客の声が大きくなった気がした。
最初はそれが、2位と圧倒的な差をつけて走る僕に向けてのものだと思っていた。だがすぐにそうではないことに気が付いた。
視界の隅、隣のレーンから物凄い速さで僕を追いかける者がいたのだ。
誰だ、ちらりと横顔を見覗くも見覚えがない。
残り50メートル。
見知らぬ彼と僕の差は10センチ、5センチ、と少しずつ狭まっていく。どれだけ走っても広がることはない。
何故。何故誰とも知らない奴が僕と並ぶ。
予想だにしなかった状況に困惑する僕を嘲笑うかのように、彼は僕に迫っていく。
残り30メートル。
遂に彼は僕を追い越した。
不味い、と加速を試みるもその差は埋まらず、彼の背中が少しずつ遠くなっていく。
どうすればいい。
この走る他ない勝負で、どうすれば彼に追い付ける? 1位になれる?
水面に顔を出そうとして、直後に足を引っ張られるような苦しさに襲われ、思うように走れない。
そうして僕が藻掻いている間に——。
「あっ」
高校最後の栄光を、僕が取るに違いなかった冠を、背中で嗤う彼は易々と奪い去っていった。
想像では僕に向けられていた羨望や祝福の思いが入り混じった視線。しかし実際にそれを浴びたのは僕ではない。
後続の選手達が続々とゴールする中で、僕はその事実に打ちひしがれる。
「ようやく勝てた」
そんな僕に誰かが声を掛けてきた。見れば、本日の英雄である彼だった。
「……お前は」
汗を噴き出す彼を正面から見て、僕はようやく思い出した。
初めて大会に出た時に最下位だった選手だ。名前は知らないが、その後も何かと一緒に走る機会が多かったから覚えていた。
それでも僕より速かったことはなかったはずだが……。
「楽しい勝負だったね」
一泡吹かせてやったとでも言わんばかりの表情を浮かべて、彼はレーンから出ていった。
その言葉に何故だか無性に腹が立ち、彼の後ろ姿を呼び止めようとして——僕は彼の右手が拳を作っていることに気付いた。
固く握られた拳。
余程僕に勝ったのが嬉しかったのだろう。
何度も共に走り、何度も僕に負けて、ずっと僕を見ていたのだろう。
積み重ねてきた努力があの拳だった。
不意に、コーチと目が合った。
その瞬間、「それだけ才能に恵まれてるのだから、もっと練習しろ」と毎日のようにコーチから叱られた記憶が胸を刺す。
「ああ、そうか」
僕は、走ることが好きなんかじゃなかったんだ。
沈み始める太陽の光に照らされながら、僕は高校最後の大会で初めて涙を流した。
僕の100メートル 狛咲らき @Komasaki_Laki
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