クラウチングスタートの形
そうま
第1話 クラウチングスタートの形
ぼくが一番好きなのは、腰を高く吊り上げた
号砲と共に彼は華麗にスタートダッシュを決めて、急加速していく。ぐんぐん周りを離していくその後ろ姿は、動きにまったく無駄がない。腕と脚が高速で回転して、ぼくとの距離が開いていく。
ぼくは彼より常に0.2秒遅い。
練習後、陸上部の部室で何気なく守の走りを褒めた。それまではたしかもうすぐ発売する国民的ゲームタイトルの話をしていたのだが、話題からするすると脱線していき、気がつくとぼくは彼の走る姿勢について、手放しの称賛を述べていた。
「お前だって速いだろ」
彼は汗ばんだ練習着を脱ぎながら言った。たしかに、ぼくは部内で彼に次いで二番目のタイムを保持している。彼が県内でもトップクラスの実力を持つことから鑑みると、ぼくのタイムもけっして悪くない。でも、ぼくが語りたかったのは記録の如何じゃない。それがきれいかどうか、だ。ぼくは自分の走るフォームをきれいだとは思ってない。だから、彼のぼくに対する評価に、つい否定的な態度をとってしまった。すると、彼はきれいな眉の間にしわを作って、
「なぁ。お前さ、ぼくなんかって言うの、やめろよ」
それまで比較的穏やかなムードが流れていたので、ぼくは彼の深刻な声色に少し面食らった。
「そんなこと言うやつに褒められてもうれしくねーし」
彼は荷物をエナメルバッグに手当たり次第突っ込むと、なんだか早足で部室を後にした。ぼくはぽかんとして、シューズを手に持ったまま閉まるドアを見ていた。
翌日、教室で金子と机をあわせて昼食を食べていた時にその話をした。した、というかこれまた自然の流れで守の話題に移行したからつい口がすべってしまったという感じなのだが。金子は日焼けした顔でぼくをじっと見ていたが、閉まるドアのくだりまでいったところで、
「それはあんたが悪いでしょ」
と即判決を言い渡してきた。そこまで白黒はっきりつけるような行いでもないだろうと反論したが彼女はそれを無視して、きれいに巻かれた卵焼きを口に運びながら「あんたそういうところあるのよ」と一人納得したように頷いていた。
ぼくは、あくまで自分の走行フォームへの自己評価を素直に吐いただけだ、と食い下がった。だが、彼女はいつものようにいつのまにか論点を巧みにずらして、
「わたしは陸上のことよくわかんないけど、あんたの走り、すっごくいいと思う」
と、往年の名コーチを思わせる貫禄たっぷりの世辞をぼくに言った。「よくわからないけどいい」とは、なかなか自信に満ちた評価の基準だと思った。というかそれはどちらかというと感想に近いのでは、とも思った。
「別にいいじゃん。世の中なんてわからないことだらけなのに、いちいちその都度専門的な知識を求められたって困るわ。常にそれを前提に話せなんて強要されたら、みんな何も言えなくなるじゃない。わたしは、わたしがいいと思ったからいいと言ったの。だって、わたしがそう感じたことは、はっきり事実でしょ?」
いつものように彼女の持論が内包する謎の説得力に打ち負かされて、ぼくはその話題を乗り捨てた。論点をカップルYouTuberの隆盛に大幅シフトし、なんとか昼休みを乗り切った。
陸上部員の走っている姿は映像に記録されていて、だれもが好きな時に見ることができる。ぼくは守の100m走のチャプターを再生した。手のひらに収まるビデオカメラのモニター出力でも、彼の走りはきれいに映った。
対して、
「お前、体の使い方ちぐはぐだぞ」
となりで画面をのぞき込んでいた守が、ぼくの走っている映像について率直すぎる感想を洩らした。そう、ぼくには悪い癖がある。体の重心が走っている内にだんだん左へ傾き、完璧な最短距離をなぞって走れない。小学校の徒競走の頃から変わらないし、しかし直すことも出来ない、ぼくの悪い癖だ。
ぼくは大嫌いだった。これの所為でいつまでも速く走れないからだ。ゆえに、自分が走っている映像から逃避する癖がつき、より一層状況に改善の兆しはない。0.2秒の差は、いつまでたっても縮まらなかった。
「まぁ、逆に考えれば、まだ伸びしろがあるってことだろ。頑張れよ」
守はそう言ってぼくの肩を叩いた。彼の言うことは間違っていないが、全てにおいて間違っている。遅いからまだまだ速くなれる、そんなのは所詮言葉遊びで、屁理屈で、ただの妄想だ。ぼくは今より速く走れる自信なんてない。今より速く走れる未来なんて想像出来ない。彼みたいに速い人たちは、はじめからずっと速いのだ。
グラウンドの草の上に座りながら、彼の練習風景を後輩と見ていた。後輩は「やっぱ守先輩すごいっすね、めっちゃ速いっす」と言いながら彼がトラックを往来する様子を熱心に眺めていた。
「守先輩ってなんであんなに速いんすか?」
来年からウチの部のエースになるであろう男から質問されたので、ぼくは守の腕の振り方や足の踏み出し方、全くブレない体幹などを指摘して聞かせた。すると、
「へー……さすがっすね先輩。陸上オタクと呼ばれているだけあるなぁ」
ぼくがまさか影で陸上オタクというあだ名を襲名していたとは露ほども知らなかったが、まあそれはいい――というか別にオタクというほどでもないだろう。守の走りについてだれもが思っているであろうことをそのまま言ったまでで、言語化以外の価値は特にない。
「そうっすか?そうやって分析したことを説明するのって意外と難しいと思うんですけど。友達に問題の解き方教えるのって、結構自分の思ってること伝わんなかったりするじゃないですか」
それとこれとではまた少し違う問題な気もしたが、後輩はぼくのことを知らず知らずのうちに褒めてしまっているようで、何だか悪い気分はしなかった。
守がスタートラインに着き――号砲が鳴る。彼の走り方。腕の振り、足の踏み出し、ブレない背中。それらすべてがきれいだとぼくは思えるし、それをきれいだと思える自分が――少しうれしい。
0.2秒の差はいまだ大きい。
クラウチングスタートの形 そうま @soma21
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