太く逞しく
千羽稲穂
太く逞しく
今一度、祖父の話をしよう。
〇たぬきのような祖父
祖父の背中は、小学生の私の目からは弱々しく映っていた。母と共に、祖父母の家に帰省すると、必ずと言っていいほど、祖父は寝ていた。奥まった部屋でたらふくご飯を食べた後のように腹を大きくして、いびきをかく。そんな祖父はたぬきのようで、気味が悪かった。なにをするでもなく子泣きじじいみたいな丸いたぬきがいる。ただ寝ている祖父に、そう感じるのも無理はない。その頃、もう既に祖父はいくつもの病魔で身体を蝕まれ、ほとんどベッドの上で寝る生活を強いられていた。いつでもパジャマで、いつでも寝ていて。そして、時間にルーズで。将棋をうち、孫を打ち負かす。たまに外に出たと思えば、年齢さながらのお洒落をする。ハットをかぶり、上質なスーツをきて、パリッとしたカッターシャツで。行くところと行ったら、だいたい階下にある会社だった。
祖父母の家は、歪な形をしていた。地区の角部屋のような隅っこにあり、一階は会社の事務所、二階の祖父母が暮らす家になっていた。事務所の端には階段があり、そこから二階へ繋がっている。まるで木の上の秘密基地といった風体の祖父母の家。私はそこが苦手だった。まるまると太った、異彩放つ祖父もそうだが、なにより泊まる寝室が、黒々しくて。
布団を敷いた部屋には、お仏壇が置いてあった。誰だかわからない老けた女性と、男性の写真が飾ってある。あの人が私のひいおばあちゃんだよ、と教えられたところで、実際に会ったこともなければ、人肌を感じたことすらない。ひいおばあちゃんは母が高校生の頃に亡くなっていて、お仏壇に飾られていた。その写真が寝ている私を見ているようだった。ひいおばあちゃんの写真に、傍らに黒い表紙のアルバムがずらりと並ぶ。それを見まいと寝返りをうつと、これまたよく分からない見ざる聞かざる言わざるの精巧な猿の陶器が私を見つめてくる。
どれもこれも、子どもの頃の私には、怖いものだった。黒々しく覗き込む目よりも、まだわけのわからないアルバムの方が怖さも和らぐ。だから、私はアルバムを見て、夜は震えて過ごしていた。
今にして思えば、そのアルバムには克明に祖父の歴史が刻まれていた。
「太平洋戦争」と黒い表紙に白い文字がアルバムの背に刻まれていたし、「バブル期」のような活字も見受けられた。私はまだ字も読めない子どもだったからか、この日本の敗戦の歴史の雰囲気に恐怖を抱いていた。
祖父は、こういった第二次世界大戦の物語を集めていたように思う。「おじいちゃん、こういうの好きだから」と言って、にこやかに談笑していたくらいには、祖父にとって深い思い出だったのだろう。
たぬきのような祖父。
たまに会社を見に行く祖父。
病魔に蝕まれている祖父。
これが私の祖父の印象。
〇祖父と祖母
祖父と祖母が出会ったのは、大阪だった。
沖縄から疎開した祖父は沖縄には戻らずこの地に残った。その時の長い長い道を覚えているそうだ。少年・祖父の足は逞しく、何十キロも、何百キロも、これは誇張しすぎだが、空襲で焼け野原になった大阪の道で、何処へ行っても、先へ進んでも変わらない風景をずっと歩いたと言っていた。終戦後、経営者になり高度経済成長期に会社を立ち上げて、ちょっとした金持ちになった祖父のことだ。この時の歩きなんてへでもなかっただろう。ひたすらに歩いて辿り着いたのは大阪だった。祖父はひたすらに仕事をした。食いっぱぐれないように。戦争期の飢えを取り戻すように。
一方で祖母は、大阪の良いところの呉服店の家に産まれた。そこの呉服店は天皇に上納したことがあるんよぉ、なんて本当か嘘か分からない誇張たっぷりの話を武勇伝ひとしく孫に語っていた。その呉服店、本当なのか嘘なのか。いまいち信用出来ないながら、話半分に。
祖父が会社を立ち上げる前、祖母は祖父とお見合いをした。祖父は新進気鋭のばりばりの働き盛り。祖母は良いところのお嬢さん。その二人が出会い、恥ずかしながらもお互いに互いを紹介しあい、そして結婚し、祖母は「比嘉」の姓に相成った。
結婚の写真も、あのアルバムの中にあったのだろうか。あのアルバムの中には、白黒写真が入っていたのだろうか。どのようにスクラップされ、あの日々を写していたのだろうか。戦争の間、写真を撮る隙など、果たしてあったのだろうか。
祖父母が結婚した事実はあるけれど、あのアルバムがあった家はもうないし、あのアルバムも既に存在しない。あれは本当にアルバムだったのかも分からないが、祖父にとって、大事な時期だったのは知っている。
嬉々として話すことはないが、やはり戦争は祖父の青春で、祖母と共に歩んできた道のりなのだ。
祖父母が結婚した時のように、このあいだ写真を撮っていた。恥ずかしそうに祖母は祖父の腕に手を回し、禿げかけた頭を帽子で隠した祖母に何も言わず祖父は写真を見て言った。
「これで遺影は撮れたなぁ」
その様はふてぶてしく。私の成人祝いの写真が、祖父母の遺影写真をついでに撮る機会になっていた。かたわらで煌びやかな振袖を着た私はあっけにとられていた。
そんな祖父は、まだ力強く生きている。
病魔に蝕まれながらも、何年も太く。
〇走る祖父
「比嘉」は沖縄に多くいる姓だ。祖父は太平洋戦争で沖縄地上戦の直前まで沖縄にいた。つまりは沖縄出身だった。黒々しい肌の照りも、時間にルーズなところも沖縄の血がそうさせるのだと、あなたには沖縄の血が継がれているのよ、と母から聞かされた。そうは言っても、全くそんな気もしないし、そもそも祖母は肌が白いし、私はそっちの血の方が濃そうだな、などと遠くのことのように思えてならなかった。
これは祖父の遠くの記憶。そこから、走って走って、私の前まで追いついた。
当時の沖縄では、沖縄戦前に子どもを学童疎開させようと本土まで船をだすことになっていた。米の魚雷で沈没した「対馬丸事件」もそのひとつだ。祖父が乗ったのは別の船だが。
たとえば、一本電車を乗り逃しただけで地下鉄サリン事件にあわなかったように、飛行機を一本乗り逃しただけでハイジャックに遭遇しなかったように、数奇な運命はちょっとしたことで変わる。祖父の場合、この船だった。
祖父はめっぽう足が速かった。学校の中でも一番。誰にも負けなかった。その日学童疎開の船が出ることを聞き、祖父は意を決して走り出した。強く踏みしめた足で、学童疎開の船まで。祖父の父や母に見送られて、誰かを置いて、それでも生きるために賭けに出た。もうすぐ出航する船。追いつかなければ、背後には陸上戦の足音が響く。祖父は港まで走った。誰よりも速く、生きるために、それだけを思い。
土けぶる夏だった。目まぐるしさに、頭痛がした。もう数日ごはんにありつけていない。空腹を通り越し腹はへこみ、汗すらかけず。ただがむしゃらに走った。まだ見ぬ土地へ。これから先で会う誰かのために。それは大阪の祖母かもしれない。高度経済成長期で立ち上げた会社かもしれない。祖父は躍進し、中小企業を発展させた。小さな会社だったが、私の祖父となるまでに、既に充分すぎるくらいの蓄えを持っている。祖父は祖母と結婚し、子どもを三人産む。祖父はけっして、良い父ではなかった。ふてぶてしく亭主関白。祖母は恥ずかしがり屋でそっと寄り添っていた。祖父は祖母との間にできる三人の子どもに会うために、ひたすらに足を動かした。歴史そのものを踏みしめているかのような、重みを秘めた足取りで。祖父の兄弟は終戦後ほとんど帰ってこなかった。祖母もまたそうだ。だが、祖父は、くじけなかった。祖父はかたときも青春を、忘れはしなかった。苦しい思い出もしまい込んだとしても、きちんと私という孫にこの話を引き継いだ。もう目の前だ。港にはとても綺麗とは言えないが、祖父を本土へと運ぶ船が着いていた。祖父の子ども達は結婚して、孫をつくった。孫は成長して、振袖を着るほどの大人に成長した。会社は、数年前に畳んだが、自身の喪に服する費用すら貯蓄できているので満足している。辿り着いた先で、祖父母は振袖を着た孫の隣に立ち「ついでに遺影撮っとこう」と撮り出すのだ。港についた。船はぎゅうぎゅう詰めで、あと一分もすれば、出航する手筈になっていた。祖父は慌てて乗り込んだ。肩で息をしていた。そして本土へと、わたった。
もし、祖父が走らなければ、きっとこの先には何も産まれなかっただろう。
〇たぬきだった祖父
祖父は沖縄にいたころから、走り続けているのだろう。その身が弱々しく朽ちていこうと、ここ数年「もうきついわぁ」と弱音を吐こうと、生を走っている。黒光りする肌を見て、たまにいつまで走り続けるのだろうか、と不安でたまらなくなる。走る祖父の背中は昔よりもやせ細り、たぬきよりも、きつねみたいになってきた。もうずっと病魔と戦っている。この病魔は死ぬまで一緒で、きっと心中するしかないのだ。
あの秘密基地みたいな家は取り潰され、真新しいマンションに祖父母は引っ越した。黒々しくておどろおどろしい部屋は明るくなり、病院の白いカーテンを思わせるフローリングが敷き詰められている。こちらの方が足腰が弱くなった祖父母にとっては優しい家だ。
だが、祖父はいつも通り、パジャマ姿で将棋を指す。囲碁の棋譜を並べる。私と五目並べをする。そして私を圧倒的経験値でねじ伏せてたぬきのような笑みをぶら下げる。
「たぬきじじいめ」
と、私は呟く。
遺影を撮ったはずだし、喪に服する準備もできてて、「もうきついわぁ」と言いつつ、まだまだ元気に生を走る、そんな太く逞しい祖父の話。
太く逞しく 千羽稲穂 @inaho_rice
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