第259話 人でいること

      ◆


 待ってくれ、待って。

 フォルダーナ道場で、率が大きく間合いを取り、うろたえる。

 私は足をピタリと止め、姿勢を整える。

「どうしたんですか」

「どうもこうもないよ、時子。殺す気か?」

 そう言われて、思わずぽかんとしてしまった。

 殺す気も何も……。

 もちろん、殺すつもりなんてない。

「ちょっと踏み込んだだけですよ」

「それが危ないって言っているんだってば。怪我をしかねない」

「私が?」

「怪我するのはきみじゃない。俺だよ」

 これにはさすがに私が混乱した。

 怪我をさせるつもりなんてない。きわどいところで棒を止めることもできる。

 その私の確信が、率に通じないなんてことがあるだろうか。

 何も言うことができず、私は率を見て、率は私を見た。

「時子」

 急な声に、私も率も、周囲にいた門人たちも、そちらを見た。

 老人が立っている。フォルダーナ道場の師範である老剣士、倫だった。

 この人の指導は最初こそ受けたが、ほとんど引退している老人だ。しかし門人からの尊敬は曇るところがないし、信頼もされている。

「こちらへおいで、時子。率、他のものと稽古を続けなさい」

 私は率に一礼して、道場の奥へ向かう倫について行った。棒は近くにいた門人に押し付けた。

 道場の奥はフォルダーナ父子の生活の場になっている。率はもういい年齢だが、まだ嫁を取っていなかった。

 短い廊下の奥には、狭い中庭がある。

 秋が来ていて、小さな木の枝が広がり、そこに残っている葉は赤く染まっていた。

「座りなさい」

 先に倫が縁側に座り込み、私はその横に並んだ。

「凄まじい使い手になったな、時子」

 穏やかな口調で倫が話し始めた。

「この道場では、誰もお前には敵わないだろう。あるいは今のお前なら、剣聖府も放っておかないかもしれない。それほどの技がお前の技だよ」

 剣聖その人の薫陶を受けている、とは言えなかった。

 倫もそんなことは知らないだろう。知らないで、剣聖府に適う使い手と認められていることは、正直、嬉しい。

 ただもう、私はただ剣聖府に憧れるだけではなくなっている。

 正直、剣聖府なんて、どうでもよかった。

 とにかく技、とにかく強さこそ、私が今、最も求めているものだった。

 極端なことを言えば、人を切ることができるのか、それが関心の一つでさえあった。

 まだ人と剣を向けあったことはない。

 人を切る手応えも、命がどこかへ消える感触も、私は知らない。

 実際に剣を向けられ、本当の殺意を向けられた時、私がどういう状態になるのか、それさえも知らないのだ。

「技に酔ってはいけないよ、時子。それだけは覚えておきなさい」

「私は、酔っているように見えましたか?」

「見えた」

 鋭い言葉とは裏腹に、倫はこちらに穏やかな微笑みを見せた。

「きみがいつか、もしくは近いうちに、死ぬかもしれないとも思った」

「技に酔っているからですか?」

「酔っていようと、正気だろうと、死ぬことはある。お前が死ぬとすれば、無謀からだ」

「技を過信していると?」

 それとは少し違う、と倫はまだ笑っている。

「お前の技は強い。必殺の技でもある。だから負けることはない。ただ、どこかに無謀さがある。命を大切にするということ、安全を意識すること、そんな当たり前がどこかに消えている」

 答えるべき言葉はなかった。

 私は大切だの安全だの、当たり前さえも、放り出しているのだ。

 倫の見ている私の印象は、間違いなく正しい。

 それを見抜かれても、私は少しも困らないのだった。

 負けなければいい。

 むしろ、今、倫が指摘したことを、閃は私からさらに根こそぎにして、残滓さえなくそうとしている。

 私がどんな存在になるのか、私には見えない。

 倫には見えるのだろうか。

 聞いてみてもよかった。

 聞かなかったのは、私の中にある不安が、そうさせたのだろう。

 仮にこの老人に、お前は人ではなくなる、とか、獣と変わらなくなる、とか、そう言われた時、私はその言葉に引きずられて、人間の領域に留まってしまうのではないか。

 踏み込めなくなってしまう。

 身を崖に投げるような大胆な一歩が勝利を意味するはずの局面で、私は躊躇ってしまうのではないか。

 人でいたい、というただ一つの本能によって。

「剣士になるか、一振りの剣になるか、どちらかだよ、時子」

 ゆっくりと倫の手が私の頭を撫で、彼は緩慢な動作で立ち上がった。

 私は少しぼんやりとして、そんな自分に気づいて慌てて立ち上がると、離れていく倫の背中に頭を下げた。

 道場の方からは、稽古の掛け声が聞こえてくる。

 私はしばらく中庭を眺めて、何のきっかけもなく、はらりはらりと紅葉した葉が宙を流れ、地面へ落ちていくのを見ていた。

 人であることをやめる。

 剣士ですらなくなる。

 刃は、使うべきものが必要なはずなのに、私を使うものが、どこかにいるだろうか。

 もしかしたら、父や兄が、本当の力を求めた時、私は力の象徴として彼らの持つ剣になることができたかもしれない。

 でも実際には、彼らは力を求めていないし、何があっても手にすることはない。

 溜息を吐き、私は目を閉じた。

 意識を意図的に切り替える。

 世界は色をなくし、無数の動きだけになる。

 今は何も動かない。

 深いところに潜り込み、私の目の前に、見知らぬ誰かが立つ。

 刃が、幻が、願望が、交錯する。

 目を開くと、はらりと一枚、木の葉が落ちる。

 意識はもう平常に戻っている。私は私として、剣士として、立っていた。

 いつか、剣になれるだろうか。

 使い手が現れないとして、自分のための剣へと昇華できるだろうか。

 周りから恐れられ、忌避されても?

 それ以上は考えず、私は道場へ戻り、率に断ってその日は屋敷へ戻った。

 天帝府は今日も賑やかだ。

 秋の心地いい気候の中を、めいめいに日々を過ごしている。

 何度か、倫が話したことを頭の中で繰り返した。

 ここにいるのはみんな、人間だ。

 その中に紛れている獣は、さぞかし、異質なことだろう。

 剣聖、閃・ストライムは、果たして、どういう存在だろう。

 剣聖は剣聖で、人ではなく、また獣でもないのか。

 では、剣聖の後継者は?

 少しだけ冷たい風が、すぐそばを吹き抜け、どこからか流れてきた落ち葉を石畳の上で滑らせた。



(続く)

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