第260話 一筋の道の先

      ◆


 季節は冬が終わり、春になった。

 無姓の侯爵の外屋敷の稽古場で、ついに私は一撃を閃に当てることができた。

 棒の先が肩を引っ掛けるように打ち、閃はその瞬間に大きく飛び退って、私は続きの攻撃を諦めた。

「凄まじいとしか言えんな」

 閃は平然とそう言って、棒が当たった左肩を回すようにした。

「剣を買ってもらえ、時子」

 なんでもないようにそういう剣聖は、いつも通りだ。

「真剣を、ですか」

「次の稽古からは真剣を使う」

 どう応じていいものか、わからなかった。

 しかし深く問い詰めることもできず、私は稽古の後、透を訪ねた。彼は無姓の侯爵の中屋敷と呼ばれる、天帝府の外壁と内壁の間の市街にある屋敷にいた。

 この屋敷は小さい割に人が多いので、大勢が私を見たはずだが、着物を気をつけて選んで行ったので、役人の身内とか、あるいは屋敷の女中のように見えただろう。

 それでもさすがに執務室に乗り込むわけにもいかず、透が仕事を終えるまで、待つことになった。

 彼は日が暮れてから、どこからか私のことを聞いていたのだろう、中庭で猫と遊んでいる私のところへ何気ない様子でやってきた。

「剣を手に入れろと言われました」

 私の方からそう告げると、「希望は?」と透はあっさりと応じて来る。

「驚かないのですか?」

「それくらいの実力にはなる、と思っていたよ」

 私のすぐそばまでやってきて、透は何気ない様子で庭にある木を見上げた。

 大きな木で、まだ葉はほとんどなく、ただ桃色の花が無数に咲いていた。

「時子は、もう無姓の公爵の娘ではなくなるのだね」

 その言葉は私を不安にさせずにはいられなかった。

 私が力を本当に発揮するには、無姓の公爵の存在が、父と娘という関係を超えて、重要だったからだ。

 私はただの暴力装置ではなく、何かを守り、何かを支える存在になりたかった。

 今のところ、私が認めている存在は父であり、兄だった。

 二人の元を離れたら、私は私自身の意志により、剣を取るのだ。公爵の血筋などそこでは意味を持たない。

「何か剣についての注文はないの? 大抵の注文には答えられる。長さとか、幅とか、重さとか、いろいろあるだろう」

 私は、特に何もない、と答えた。

 その後はもう透は何も私の剣について話をせず、話題は最近の天帝府の中枢に関する、雑談というか、愚痴のようなものになった。

 とにかく、財閥と呼ばれ始めた存在が、きっちりとその土台を作り上げている。経済活動によって銭を回し、どこからともなくその銭の一部が、彼らの懐に入っていく。

 銭はこうしている今にも鋳造されているが、金や銀の鉱脈は限られている。

 大なり小なりの銭が財閥に入るということは、どこかの誰かが貧しい生活をしていることになる。

 これからは貴族が政治における発言力を失っていき、あるいは財閥が本当の力を持つかもしれない、と透は口にした。

「貴族は今まで軍と接近しようとした。それが今度は、貴族は財閥と接近する。まあ、我々はそういう権力争いとは無縁なのだから、気楽なものだ」

 我々、というのは、姓を持たない一族、ということだ。

 透は、夕食会に出るか私に確認したが、辞退した。気にした様子もなく、剣は明日には都合する、と透は私の肩を叩いて、去っていった。

 翌日の朝食の後、真由がやってきた。

 真由との稽古は、ここ数ヶ月はほとんどなくなっている。彼女がやってきても、話だけをすることが多い。そもそも彼女の訪問も週に一回程だ。

 話の内容は剣聖府で起こっていることや、若い剣士たちが模索している剣術の新しい手法の解説だったりする。

「あのね、時子」

 話の途中で、すっと真由が姿勢を整えた。

 何かあるな、と即座に私は心の中で身構えた。

「私は、雲州へ武官として赴任することになった」

「へぇ」目を丸くしてしまった。「おめでとう。さすがに剣聖の弟子ね」

 この国の各地にある州庁では、文官と軍の間を調整する役として、武官が配置されている。武官長を頂点として、数人がその職務にあたるが、剣聖府出身者が多い。文官寄りでもなく、軍人寄りでもない、中立な立場が剣聖府の特徴でもある。

「こうしてあなたと話していられる時間も、なくなっちゃうわね」

 寂しげな真由の様子に、私の口から咄嗟に言葉が出ていた。

「誰もが落ち着く場所に落ち着くってことなんじゃない? 真由は認められたし、任されたのよ。それに精一杯にならなくちゃ」

「そういうあなたはどうするの? 時子」

 私はどうするのだろう。

 答えは出なかった。真由も深くは追及しなかった。

 彼女が去っていき、稽古をしているところへ、剣が届けられた。

 私は布に包まれていたそれを道場で取り出した。

 そう、いつの間にか、以前に持たされていた剣は私には合わなくなったのだ。

 そのことを、今、こうして新しい剣を目の当たりにして思い出した。

 自分に与えられた二振り目の剣は、一振り目の剣を与えられた時と、同じ感動を私の中に生じさせた。

 柄をとって、掲げてみる。

 やや重いけれど、問題はない。

 何度か腕だけで振り、次に体を使って大きく振った。

 最初こそどこか覚束ないところがあったが、すぐにピタリと体の延長のように支配できるようになった。

 落ち着くべき場所に落ち着く。

 収まるべきところに収まる。

 私もまたどこかに、はまるのだろうか。

 剣聖との稽古の日が来た。

 お互い、微動だにせず、剣を向けあって動かなくなった。

 仕掛けることを躊躇わせるものが、剣聖の気配にはある。

 私も必死に、決して仕掛けさせないように、気を放射する。

 すっと剣聖が動いた。

 私も動き出す。

 膠着という奴は、一度でも、少しでも動いてしまえば、止まらないのだ。

 剣がすれ違い、刃風が肌を撫でる。

 必死だった。

 パッと二人が同時に離れ、私は剣を構えようとして、体が重いことに気づいた。

 悪くない、と閃が身を引く。

 それを見てやっと、私は剣の切っ先を下げた。さっきと違い、剣を持っているのも辛い。

「殺すつもりで来い、と言っても、無理だろうな」

 そう閃が言うけれど、無理も何も、私に彼を切れるとは、とても思えなかった。

「いいか、時子、私はお前を切ることとする。だからお前も私を殺す気で来い」

 答えることができなかったのは、その剣聖の言葉の調子が冷酷そのものだったからだ。

 私は剣士に憧れていたはずだ。

 剣聖の薫陶も受けたかった。

 しかしそれはこうして、人を殺す決断に至る、一本道でもあった。

 答えることはできないけれど、私は顎を引いた。

 切るしかない。

 そうしなければ、私が切られる。



(続く)

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