第258話 本当の技能、本当の素質
◆
閃という老人は、どうやら手加減していたらしい。
そう気付いたのは、私が剣を極める意志をはっきりさせた次の稽古で、これでもかと棒で打ち据えられた。
私が技を繰り出す隙などない。
嵐のような連続攻撃が全身をくまなく痺れさせ、最後の一撃が首筋を打って、やっと楽になれた。
気を失った、という意味だけど。
活を入れられ、意識が戻っても立つようにと言われる。
体がグラグラ揺れる。平衡感覚がおかしい。
しかし閃は構わなかった。
また私を打っていく。打たれたくない一心で、受けようとしても、その受けの利かない場所を打たれる。
本能的によろめいて逃げようとしても、そこを打ち据えて、いやらしいことに打つことでまた打てる場所へ私を誘導する。
また意識を失い、活、失神、回復。
強烈な衝撃が頭を打ち据えたところまで覚えているけれど、それからは全てが曖昧になった。
私は眠っているのか、それともただ何も感じないだけで意識はあるのか。
いや、感じないということは、意識はないのだろう。
棒を持っている感覚はないし、そもそも立っているかもわからない。
棒で打たれる。
打たれている。
姿勢を作ることが、不意に浮かんだ。
その刹那、体の感覚が蘇った。
急に魂が身体に納まったような感覚だった。
目の前に閃が立ち、棒を繰り出してくる。
足の位置を少し変える。
上体を脱力させ、打たれた瞬間、力を加減した。
よろめくが、ほんの少しで済んだ。
しかし即座に次が来る。
考えてできることではない。その場その場で、できることをやるだけだった。
打たれても私は立っていた。
打ち込まれる力を、打たれた場所から全身に逃がす。
体が何か、ねっとりとしたもののように感じられた。
急に突きが来た。
胸元を突かれても、私は背筋をそらし、その勢いも消した。
一歩、後退すれば、もう閃は棒を繰り出してこなかった。
「おおよそはわかったらしい」
そんなことを言いながら、こめかみを伝う一筋の汗を老人はシワだらけの手で払った。彼が流した汗はそれだけだ。呼吸も全く乱れていない。
「いいか、時子。常に体の使い方を意識しろ。残念ながら、大半の女は男より非力だ。しかし非力でも、全身を使えばより早く、より強い技を繰り出せる。これは受けにおいても同様のことが言える。たとえ岩を叩き切るような一撃でも、やり方さえ分かっていれば、受け止めることができる」
滔々とそう言う剣聖を前に、私はまだ荒い息をしていて、それよりも全身の痛みにへたり込みたかった。
もう一回、最初から繰り返す、と言われるのでは、と内心、怯えていたが、「体を動かしたほうがいい」と剣聖はボソッと言って、こちらに顎をしゃくった。
「動かしたほうがいい、というのは?」
「体をほぐせということだ。痛みが早く消える」
それ以上の指示がないので、結局、適当に素振りや型を繰り返して、そんな私に何もせず何も言わずに見物していた閃は「時間だ」とあっさり去って行った。
なんなんだ、と思ったけど、その日の夕方から全身に激しい痛みが発生し、呼吸するのもつらいほどになった。
体を引きずるように移動して風呂に入ったけど、全身が紫色になっていてもおかしくない気がするのに、実際には肌はどこも綺麗なままだった。
どうにかこうにか部屋に戻り、その日は痛みに苦しみながら眠りについた。
これがどういうわけか、翌日には何の痛みもないのだから、不思議なものだ。
私は一人で閃が最初に教えた、体の使い方、というものを自分なりに解釈しようとした。したけれど、日常は剣の稽古だけでは済まないので、用意できた時間は短い。
家では東方の文化を学ぶことが多く、華道という奴もそうだが、他にも茶道があるし、香道などというもはや意味不明なこともやらされる。
そんな時間があるくらいなら、棒を一度でも振りたい私だった。
母は私が剣聖の薫陶を受けていることを知らないようで、しかし父は知っているらしい。透がそうこっそりと耳元で囁いた。
「まぁ、母上の説得は父さんに任せよう」
透がそんな風に言うけれど、私としてもそうしたかった。
母はあまり多くを語らないし、指図もしない。ほとんどを自由にさせてくれる。
しかしさすがに、私が剣士になるのを受け入れるとは到底、思えなかった。
父が極端なほど高潔で、権力や暴力、陰謀、買収、懐柔の全てを拒絶して、超然としているのは、特殊なことなのだ。母もそれに倣ってはいるが、別の人間である。父と同じような存在と見るわけにはいかない。
剣聖の稽古の日は、発見の連続だった。
自分の体に思わぬ力が眠っており、今まで見えていなかったものが見え始めた。
季節は冬になり、稽古場では室内でも息が白く染まる。外では雪が舞った。
その冬は稽古に次ぐ稽古、痛めつけられるだけの日々だった。
ただ、痛みは何かを私に気づかせてくれていた。
弱いから打たれる、という簡単なことさえも、いつからか私は忘れていたようだった。
痛みを感じるのは、弱さの証明だった。
誰も言わないが、強いものは決して、傷を負わないのだろう。
私にとっての閃がそうだった。
彼に棒を当てることは、冬が終わり、春を過ぎ、夏が来てもできないままだった。
(続く)
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