第257話 早く、とにかく早く
◆
老人の稽古はいよいよ熱を帯び、私は絶息する場面も増えた。
強烈な打撃で瞬間で意識がなくなり、次には咳き込んでいることで意識が戻ったとわかる。
どういう経歴なのか、老人は昏倒させること、活を入れること、この二つに慣れ過ぎるほど慣れている。
私の棒が老人に当たることはない。しかしきわどいところを走るようにはなった。
季節は長い秋も終わろうとしている。北の山脈の高度のある場所には雪の白が広がり始めている。
とにかく、早く棒を振ること、それが私が見つけた課題だった。
構えを工夫しても、腕の動き、体の動きを工夫しても、どうしても遅れる。
踏み込みを変えても、棒の軌道を変えても、まだ遅い。
老人は私の棒を万全に跳ね返し、やはり私を昏倒させる。
どこかにまだ何かできるはずだった。しかしそれが何か、わからない。
当てるためには早さが必要でも、もうこれ以上の早さが形にならない。
その私の苦闘を老人が知らないわけがない。
諦めろ、と言ってもよさそうだが、言おうとしない。あの老人の中では、まだ私にできる工夫があるように見えているのか。それともこれが私の限界なのか。
いや、限界なら、もう老人は私に関わらないだろう。
ここまでひたすら稽古を積んできて、あの老人がもし、私にこれ以上がないと見れば、そこで稽古は終わるという確信がある。
老人は私の棒をそらしたり払ったりするが、その動きには常に変化がある。
私に学ばせようとする意図が、そこに見え隠れしているのだと思った。
私はひたすら棒を振り、老人がいない時でも、真由がいない時でも、一人きりの稽古場で自分と向き合った。
たまにやってくる透は、「時子は人が変わったな」と苦笑していた。だけどたまに長い時間、道場の隅に椅子を持ってきて座り、じっとこちらを見ている。
棒を早く振るにはどうしたらいいか。
常識的な振り方は全て試した。そして全てが遅い。
なら型にはない動き、常識外の動きを、探るしかないのか。
一人きりの稽古でも汗びっしょりになり、屋敷の風呂で汗を流し、まだ火照っている体を冷やすために、中庭の縁に立った。
木々の葉はすでに落ちていて、その落ちた葉も片付けられて、庭はどこか寒々としている。
風は冷たいけれど、体を冷やすにはちょうどいい。
小鳥がどこからかやってきて、目の前の木の枝にとまる。忙しなく周囲を見ているが、飛び立つようではない。
かすかな気配に、視線を向けると屋敷の使用人たちが飼っている猫だった。名前はなんといったかな、忘れてしまった。
その猫が体を縮めるようにして、音もなく木に近づいていく。
鳥はまだ周囲を見ている。
予備動作なしで猫が飛び上がるが、鳥はその寸前に飛び立った。
猫が着地し、恨めしげに上を見ている。
私はしばらくその猫を見ていた。
猫は防御する必要がないから、私とは違う。
しかし防御を考えないというのは、それだけ速い、ということではないか。
防御を捨てるというのは、考えてできることではない。
常識的な意識、当たり前の感覚を捨て去らないと、本当に防御を捨てることはできない。
「猫か」
思わず呟いて、私はしばらく猫の様子を見ていた。
こちらを気にした様子もなく、猫はゆっくりとした歩調で中庭の縁の下にうずくまった。
頭の中で、何度か猫が飛びかかった動きを思い出し、しばらく私はそこに立ち尽くしていた。
食事に呼ばれた時には、体は少し冷えていて、そんなことにも気づかなかった私がいた。
老人との稽古の日になり、私は構えを思い切って変えてみた。
正確に言えば構えを変えたというより、不合理、非合理な構えを選んだ。
とにかく、棒を振ること、打ち込むために、両腕を振り上げ、棒を背負うようにして、身体をグッと沈める。
老人はやっぱり無造作に間合いを消してきた。
思い切るしかない。
私はほとんど前転するように棒を振り下ろした。
老人が半身になって回避し、返しの一撃が繰り出される。
構うものか。
棒を振り回す勢いで前に進みながら、棒の先が描く弧のその勢いのままに棒を振り上げる。
老人の棒は私のすぐそばを走った。当たってはいない。
老人の方へ向き直る動きをしながら、すでに私の棒は動き出している。
振り下ろす棒を老人の棒が打ち返す。
いつになく強烈な手応えで、噛み合った棒と棒とが停止する。
押し込めるか、と思った時には老人の蹴りが私を跳ね飛ばし、しかしさすがに予想していたので、すぐにもう一度、同じ構えを取り、構えを取った時には突っ込んでいる。
前転するような振り下ろし方を、老人はわずかに背筋をそらして避けた。
なら、もう一回!
床すれすれで下降から上昇に転じた棒は、勢いよく連続攻撃に繋がっていく。
老人が後退する。
三連撃。
横から老人の棒が来る。
相打ちに持ち込めるか。
勝つか負けるかしかない。
そう言ったのは目の前の老人だ。
なら、相打ちでも構わない。
これだけの使い手と相打ちになれるなら、私としては十分だ。
さあ、どうくる?
私の棒に手応えがあった。
棒を棒が横から打っている。
以前も感じた、不自然な手応え。
音を立てて棒が折れている。しかし両方の棒が折れていた。
つんのめった私にいきなり老人の体が密着するようになっていて、勢いを殺す前に、その肘が胸の中心を打ち抜いた。
意識が一瞬で暗転し、次には咳き込んでいた。
胸も痛むが、背中も痛む。
涙と鼻水、よだれが出るのを、乱暴に袖で拭う。
顔を上げると、老人がいつになく不機嫌そうに立っていて、「無謀だ」と唸るように言った。
私は何も答えず、ただ笑みを浮かべてやった。
無謀だろうと何だろうと、この老人は私に初めて脅かされたのだ。
その言葉がつまり、無謀、という表現の本当のところだ。
「名を名乗っておこう」
老人が静かな口調で言うが、名乗られる前に、もう私はこの老人が誰なんか、よく知っていた。
ここまで剣術に長じた老人など、そうはいない。
「閃・ストライムという。剣聖の称号を受けているが、お前のような小娘に手こずるようでは、返上しなくてはいけないかもしれんな」
苦笑いだったが、老人がほんの短い時間、口元を緩めた。
「小娘、お前の身元をもう一度、教えてもらおうか」
「私は、無姓の公爵の娘で、時子、というものです」
「血筋はやはり、侮れないな」
閃はそう言うと、また表情を不機嫌そうなそれに変えた。
「剣聖府に出入りさせるには、お前は血筋が立派すぎる。実力もな」
実力? 今、彼はそう言ったのか?
「当分はまた私がここへ訪ねてくることとしよう。改めて聞くが、剣を極めるのだな?」
私は立ち上がり、まっすぐに背筋を伸ばした。
「極めたいです」
よろしい、と閃は頷いた。
こうして私は正式に、剣聖の弟子のようなものになった。
剣聖府の外にいる、剣聖の弟子である。
(続く)
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