第256話 攻撃と防御

      ◆


 老人の名前を聞くのはためらわれた。

 まず身なりはそれほど立派ではない。しかし気配は気品があり、技は超一流。

 どことなく私自身と重なるものがある。フォルダーナ道場へ、無姓の公爵の娘という身分を隠して通っている私とだ。

 老人もどこかの、高い地位にいる人物なのだろう。

 その技を見せてくれる、ぶつけてくれる、ということで今は、満足しておこう、となったのだった。

 老人は週に三回、きっちり同じ時間にやってくる。

 棒を取って向かい合い、しかし私から仕掛けることはそれほどできなかった。

 老人は無造作に間合いを消してくる。

 そして繰り出される棒の軌跡は、光が瞬くようなものだ。

 受けることは一度はできる。

 しかしその一回できっちりと崩される。

 次の一撃は私の体のどこかしらを打つけれど、明らかに手加減されていた。

 手首を打たれて棒を取り落としても、足を打たれて膝をついても、胴を打たれて悶絶しても、老人は手を貸すことはないし、「次だ」とだけ口にする。

 これは言葉で教えようという姿勢ではない。

 実際的な体の動きで、技を体得させようということらしい。

 十回目の稽古に臨むにあたって、私は自分が受けに徹しようとしていることを、捨てることにした。

 真由に教わった技は、なるほど、使い道がありそうだったし、今、私の中で一番熱い技能で、熟練の域に達したいとも思っている。

 だけれど、どこかで私とは合わないようだ。

 老人の稽古はそのことを教えようとしているのではないか、とさえ思ったのだった。

 老人がやってきて、棒を構えて向かい合い、間合いを消そうとするのに、私は一直線に前に出た。

 もちろん、老人が動揺したり狼狽することはない。

 そもそもの技能に差があり、経験値は比べるまでもない。

 二人がすれ違い、向き直りながら間合いを潰し、またすれ違う。

 棒が空を切る音だけが稽古場の空気を震わせ、床は鈍く、高く、音を立てる。

 棒と棒が触れ合う。

 軌道が変化し、即座に手元の捻りで、軌道を再修正。

 老人の棒の動きが不規則になる。

 棒を棒で逸らすはずが、老人の棒との間には空間がある。

 再度の修正、打ちに変更。

 上体を捻る。そこまでの棒の振りを殺さず、一方で回避を試みる。

 とっさの動きに、足がわずかに流れる。重心が乱れ、姿勢が乱れ、振りが不完全に変わる。

 そして老人の棒は正反対に加速。

 またこれか。

 棒が肋を強く打ち、息が詰まり、体が蹌踉めく。

 目の前で棒が振り上げられる。

 集中が痛みを無視させる。

 棒を突き込み、打ち下ろしに自分の棒を沿わせ、無理やりに逸らそうとする。

 老人にはそれは予測できたのだろう、私の棒を絡め取ってくる。手元に不規則な力、それも強い力が作用し、棒がもぎ取られた。

 宙に棒が舞っても、私は老人を見ていた。

 ピタリと棒の切っ先が眉間で停止する。

 軽い音を立てて棒が床に落ちた。

「次だ」

 老人はいつも通りだった。私が戦い方を変えても、何も気にしているようではない。

 急に胸が激しく痛み、そうか、肋を打たれた、と思い出した。

 手で押さえながら、落ちている棒を拾い上げ、構える。手の震えが止まらない。でもそれは言い訳にはならない。

 私のこの時、何度も何度も老人にぶつかっていき、その度に跳ね返された。

 いつも通りの稽古を終える時間になり、老人は「ここまで」という一言で棒を下げた。

 ありがとうございました、と私が一礼すると老人が声を発する気配があった。自然、耳に神経が集中した。

「お前には攻めの方が向いている」

 顔を上げると、老人は仏頂面でこちらを見ていた。双眸には冷酷な光が見えた。

「意地でも相手を打ち倒すという稽古をしろ。相手を倒すことだけを考えろ」

 どう答えていいかわからないでいると、老人が壁際の定位置に棒を戻し、稽古場を出て行ってしまう。

 初めて声をかけてもらえた。

 攻めの方が向いている、と言っていた。

 相手を倒すことだけを考えろ、とも。

 どう解釈すればいいだろう。今までのような受けからの技ではなく、攻め倒すような技を磨けということか。

 でもどういう攻めが私に合っているかは、何も言わなかった。

 攻めの型、か。

 その翌日、真由との稽古があり、私は彼女を相手に攻めを意識した技を繰り返し、試した。

「ちょっと本気すぎない?」

 休憩の時、真由は両手をぶらぶらと振りながら、そんな風にぼやいていた。棒を受け過ぎて疲労したんだろう。

 フォルダーナ道場に行っても、私はやっぱり攻めを意識した。打ち倒さないように手加減はしたが、とにかく速く、そして一撃必殺を思い描いて、棒を繰り出し続けた。

 老人との次の稽古の日にはあっという間になった。

 いつも通りに老人は私と向かい合い、そしてやっぱり私の技を全て凌ぎ、徹底的に私を打ち据えた。前回よりも激しく、私は打たれた足が痺れ、立ち上がれなくなった。

「貴族の娘だから手加減されると思っているのか。

 棒を杖にしようとした私のその棒を、老人が跳ね飛ばした。

「稽古なら死なないと思っているのか。死なない稽古に意味などあるか。剣術家、剣士は体でも命でも時間でもなく、意識ですらなく、ただ勝敗が全てだ」

 言葉と同時に私は棒で突き倒され、起き上がろうとしたところを、上から胸を突かれて押さえつけられた。

「遊びで剣術をやるのなら、ここまでだ。どうせいいところの貴族の娘なのだ。適当に文化的なあれやこれやの稽古をして、贅を凝らした着物でも来て、髪飾りをこれでもかとつけ、厚化粧で、相応の身分と銭と血筋のある男に嫁に行けばよかろう。そこで適当に生活し、子を作り、育て、老いていけば良い。退屈だろうが、幸せだろうしな」

 答える前に、私は自分の胸を突いているままの棒を掴んで、無理やりに押し返した。

「まっぴらよ、そんな未来は」

 言いながら、私は棒を押し返し、転がっている自分の棒を手に取った。

「殺せるものなら、殺してもらって構いません。しかしあなたの片腕くらいは、もらいます」

 頭の中で熱が渦巻き、考える前に声が出て、次には体が動いていた。

 棒でうちかかった動作は、本能そのままだった。

 老人の棒が私の棒を跳ね返す。跳ね返される自分の棒の動きが読めた。

 勢いを生かして、さらに加速させて次の一撃を繰り出す。

 老人がまた受ける。受け流さず、受け止めた。

 棒に力を込めると、老人が私を直蹴りで跳ね飛ばした。

 尻もちをついたところで、棒が突き出されるのを、首を傾けて避ける。

 逆に棒を突き出したのは本能だった。

 老人が飛び退った。

 立ち上がろうとすると「ここまで」と老人が言った。

 その一言で、急に体の芯が冷えた。

 汗が噴き出し、袖で額を拭う。視線の先では老人は棒を元に戻し、去っていこうとしている。

 何か言われるか、と思ったが、無言のままだった。

 私は彼の姿が消えてから、床に寝そべって、深く息を吐いた。

 息を深く吸っても、どこか胸が苦しいのは消えなかった。



(続く)

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