第255話 老剣士の言葉
◆
私はその日は一人で稽古場にいた。
そもそも侯爵の外屋敷の稽古場は外屋敷に詰めている透の直接の部下の男たちが稽古に使っていて、私はそこに紛れ込んだつもりだったのが、気づくとみな遠慮して、私だけの時間を作ってくれるようになった。
もちろん、一緒に稽古することもあるけれど、私のその立場からか、本気で打ち据えるようなことをする男はいないし、その遠慮が技を鈍らせて、手加減されているも同然になる。
私は何度も、本気でぶつかってくるようにと言ったけれど、冗談だと思われている節がある。
彼らだけの稽古を何度もそばで見ていたけど、私と実力はそう変わらない。
それでもやっぱり、万が一を考えているのかもしれない。
私の体に傷をつければ、首が物理的に飛ぶ、と思われても仕方ないのが、私の立場だった。
フォルダーナ道場へは今まで通りに通っていた。こちらでこそ、実戦的な稽古ができる。誰も私がどういう血筋の娘か知らないので、容赦というものがない。
逆にフォルダーナ道場では私に怪我をさせるような実力者はほとんどいない。例外で率が高い水準だけれど、実際のところ、率の実力は読みきれなかった。
常にどこかに余裕があり、こちらが追い詰めたと見えても、まだ奥がありそうだった。
真由の稽古もそれにどこか似ている。真由もこちらに測らせない、不思議な奥深さがある。
この年の秋は長くて、過ごしやすい日々が続いた。私は棒を取らない日はなく、技を磨き続けた。
率にも真由にも絶対に勝てるとは言えない。
そのことは悔しくもあるけど、どこかで私の背中を押してもいる。
まだ高みがある、そこに立っているものが身近にいる、というのは、目指すものがすぐ目の前にあるようで、気持ちを補強してくれる。
稽古場で一人で棒を振っていた私は、人の気配が入ってきたのに気付き、そちらを振り返って、ぎょっとした。
一人、そう、透が一人で入ってきたと思ったのだが、実際にはすぐ横に老人を連れている。
それほど立派でもない身なりで、しかし背筋は伸びている。
どこの老人だろう。
「この方が、お前に稽古をつけたいと言っている」
そう言ったのは透で、何かを企んでいるような笑い方をしている。まぁ、珍しくはない。一方の老人は無表情にこちらを見ていた。何か、全身を探られているような、居心地の悪い視線だった。
しかしいやらしい感じではなく、どこか、服の仕立て屋が寸法を測っているような目つきを連想させる。
透が壁に掛けてある棒を老人に手渡す。
力がありそうな動きで、老人は片手に棒を下げ、進み出てきた。
どうするべきか、はっきり言って、迷った。
構えを取るべきだろうか。しかしこの老人は、何者だ?
決断できずにいる間に老人は目の前に立ち、ちょうど私が一歩で踏み込めない位置で、足を止めた。
ゆっくりと老人の棒が上がる。
迷いは捨てた。
その緩やかな動きは、一流の使い手のそれだと見えた。
無意識に、意識が切り替わった。
棒を構えたところへ、老人が無造作に踏み込んでくる。
いや、無造作ではない。
速い。
滑るように、間合いを消してくるのに、私は緩慢にしか動けない。
意識をもう一段、切り替える。
突きが来る。胸の中心。
きわどい。
避けられるか。
こちらからも棒を突き出す。
遅い。
間に合え。
私の胸元を棒が掠める。こちらの棒は空を突いただけ。
転げるように間合いを取ろうとするが、すぐに詰められる。しかもどういう工夫なのか、まるで足を動かしていないように、不自然な迫り方をしてくる。
極端に間合いが計りづらいのは、遠近感によるものではなく、この老人の踏み出しの規則性が見えないからだ。
そう、肩が上下しない。
下半身の動きにそういう工夫があるのだ。
老人の棒を回避するのに徹する。柄ではないが、真由から盗んだ技術を使うしかない。
棒が迫ってくるとしても、無駄な挙動を挟まれない限り、読みが利く。
無駄な挙動を挟めば、それはそのまま振りの遅れとなり、逆襲する余地が生じる。
老人の棒を跳ね返す。一度、二度、三度。
軌道が不規則に変化。
遅れた。
ためていた力を放出して、前に強く踏み出した。
いや、違う。
老人の棒が加速する。遅れは誘いか。
床を蹴る時、強引に上体を捻った。靴底が床を滑りながらかろうじて蹴る。
ほとんど横転して、横薙ぎの一撃をやり過ごすが、その時は床に寝ている姿勢なので、次はない。
しかし、終わらせてたまるか。
私は最後まで、勝負にしがみついた。
床を転がり、それでもおそらく棒が突き込まれると、覚悟した。
もしそれを運良く回避できれば、仕切り直しか、あるいは仕切り直しを許さない追撃をまた回避するしかない。
勝負は、最後までわからないと思いたかった。
転がって跳ね起きると、しかし老人はさっきまでと同じ場所に立っていた。
「面白いかもしれんな」
老人がそう言って、透の方に向き直る。
「この娘は、はっきり言って、あなた方の血筋の濃い部分だけ、受け継いだようですな」
「この世の中にはふさわしくありませんがね」
その冗談だろう透の言葉に、老人はうんともすんとも答えなかった。
ただ私の方を見て、「週に三度だ」と端的に言った。
「どういうことでしょうか」
理解できなかった。そんな私に老人は少し、苛立ったようだ。
「週に三回、稽古をつけてやる。それで様子見だ」
はあ、としか言えなかった。そんな私を意に介さず、老人は棒を透に投げ、「長生きはするものだ」と言っていた。透は笑っているが、私はどうすることもできず、その老人が背中を向けて去っていくのを見送った。
凄まじい使い手だった。
遅れてそのことが理解できた。
しかし、誰だろう。
「兄さん、あの方はどなたですか」
思わず問いかける私に、透は「本人に聞きなよ」と言って、稽古場を出て行った。
私はしばらく立ち尽くして、急に押し寄せてきた疲労によろめき、汗がどっと流れていることに気づいて、雫が伝う顎を服の袖で拭った。
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