第254話 理論と実践
◆
私はこっそり、無姓の公爵の外屋敷から、無姓の侯爵の外屋敷へ移った。
初めてそこへやってきた真由は、しかしそれほど驚いた様子でもなく、「大きいね」とだけ言った。
後になって教えてもらえたが、剣聖の弟子は剣聖府での稽古と勉学以外の時間が多くあり、弟子たちはその時間には天帝府にある道場へ出稽古へ行ったり、あるいは貴族などの有職者に個人的に剣術を教えたりするらしい。
剣術の中でも一部は秘中の秘、奥義などとされるけど、私はまだそういうものに出くわしたことはない。
真由は侯爵の外屋敷の道場で私と棒をとって向かい合い、おおよそ二刻ほどは稽古をつけてくれた。
私の方が優勢だけど、真由の剣術はどちらかといえば受けに偏っている。
なのでこちらが下手な打ち込みをすると、鋭い切り返しを喰らい、しかしそれを警戒していると真由の構えを崩すことはできない。
彼女が外屋敷に通い始めて二週間ほどが過ぎて、やっと彼女は剣術の理屈を語り始めた。
「剣は一度、動き出したら止まらないでしょ? 剣の振りを遅くするくらいの工夫はあっても、繰り出した剣を止める理由はない。だから、動き出した剣はかなり限られた筋しか走らない」
「構えを見れば、その筋が見える、ってこと?」
「動き出した途端にある程度、予測はできる。だから容易に受けることができるし、返し技で応じることもできる」
理屈ではわかっても、実践するのは難しいかもしれない。
私も集中を高めると、似た感じではあるけど、そこまではっきり見えているだろうか。
見ていてね、と真由は私の前で何度か棒を振った。
動き出す時の構えを変えているから、棒が動き出す地点は違う。
しかし動きを止める地点は同じだった。
「今のは、わざと別の場所から同じ位置で棒を止めた。これはいくらでもできるんだけど、動き始めの構えも無数にあって、その無数の構えの中に、絶対に今と同じ位置で棒を止められない構えがある。それを把握すれば、仮にもしその例外の構えを相手が見せたら、さっきの場所に棒は来ないことになる」
「でも、無数っていうのは、無限じゃないの?」
「理屈ではね。私の感覚からすると、剣士はそれほど自由ではないし、好きな筋と嫌いな筋がある。構えも得意とするものと、不得手とするものがある。剣を合わせるうちにそれを見きればいい」
「簡単に言うけど、無理じゃないかな」
そうかもね、と真由は肩をすくめる。
「無理だったら、私が切られて死ぬだけのことよ」
「潔い、っていう感じでもないけど、それが剣聖の弟子の覚悟って奴?」
「あそこにいるとね、命の重さがわからなくなる。命より、剣の方が意味があるんじゃないか、と思うことも多い」
何を言っているのか、よくわからなかった。
剣より命の方が重いと思えなければ、勝負の場で、最後の最後まで命にしがみつくのは、できないのではないか。
そういうしぶとさは、剣士には必要ないのか。
もしくは、命を捨てるつもりの振りこそが、勝敗を分けるもので、命にしがみつくということは、逆に剣を鈍らせるのか。
真由は微笑みながら、考えている私を見ているだけで、何も答えを出してくれなかった。
きっと彼女には彼女の答えがあり、私には私の答えがあるんだろう、とその時は解釈した。これもまた、構えの好き嫌いに近い、好ましい感覚、楽でいられる価値観はどちらか、という、それだけのことかもしれない。
透はたまに私と真由の稽古の様子を見に来た。侯爵であり、円卓評議会の議員でもあるのに、意外に暇そうだった。と言っても、稽古は見るだけで参加したりはしない。
彼はほとんど武術の心得がないと、初対面の相手には話すことが多い。実際、透は私が見ている範囲では、特別に腕が立つ場面を見せることはない。
それでも幼い頃は稽古を積んだという噂はある。なにせ、武門の公爵家の筆頭、無姓の公爵家の次期当主なのだ。それがまさか武術の心得がないなど、許されないだろう。
父さんも週に一度は、若い者と組打ちをやっているし、月に一度は馬で遠駆けをする。
この国は今の所、戦争とも紛争とも無縁だ。武門と言っても、ほとんど形だけで大きな意味はない。軍の最高位に父さんはいるけど、血筋の偉大さから、実際的な権力はない。
軍は地方軍が力を持ち始め、逆に天帝府守備軍は貴族の子弟や財閥の子息が経歴に箔をつけるために、その大半を占めている。
なんでも、円卓評議会の方では、禁軍があまりにも軟弱な集団となったと判断され、北方の地方軍である団州軍と一時的に入れ替える議論があったそうだ。団州軍は精強とされている地方軍の一つで、禁軍がその調練を受ければ、あるいは禁軍の質は変わるかもしれない。
何はともあれ、私は真由と知遇を得たことで、剣聖府には入れないものの、剣聖の弟子と切磋琢磨することができるようになった。
季節は短い夏を過ぎ、秋となった。
私はいつも寝る前、中庭へ出て、剣を抜いて構えた。
幻の剣の筋を、ひたすら追い続ける。
右肩が時折、何かを訴えるように痛みを発する。もう完治しているし、医者にも見せていない。
しかしその痛みはまるで、敗北を忘れないように、と訴えているようだ。
私は月の光の真ん中に切っ先を差し伸べ、その光が刃を伝うのを、じっと見据えた。
(続く)
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