外伝:もう一人の剣聖
第250話 女剣士の憂鬱
◆
私は目の前にいる男をじっと見て、思わず溜息を吐きそうになった。
弱い。
もっと強い相手と稽古したい。
すっと稽古用の棒を下げてみせると、相手が一息に飛び込んでくる。
棒が繰り出されくるのがゆっくりと見える。
なのに体は自然と動く。
全てが把握されていた。
すれ違いざまに手首を打ち、世界は時間を取り戻す。
棒を取り落とした稽古相手の眉間に、棒を突きつけ、そこに「やめよ」と声がかかった。
棒を下げ、上座にいる師範代の方を見ると、彼は嬉しそうに笑っている。私はそこまで面白くも愉快でもない。
「時子、きみは指導者には向かないな」
そんな言葉に、私は肩をすくめるしかなかった。
分かりきったことだ。
「十四の小娘に指導されるのは、屈辱だと思いますけど」
「強いものが指導するが当たり前だ。だろう?」
師範代の率・フォルダーナはそう言って、私に手首を打たれた門人の方を見る。
その門人も二十歳になろうという年頃なのに、まるで恥ずかしげもなく「時子さんは強いですから」と言うじゃないか。
強くなりたいと思わないのだろうか。
それとも打ち据えられるのが好きなのか。
やっていられない。
「俺が相手をしてやるよ」
師範代が立ち上がり、板の間へ出てくる。落ちていた棒を拾い、それで周りで稽古していたものも動きを止め、場所を作った。
私は棒を構え、目の前に率が立つ。
シンと静まり返り、棒と棒が向かい合う。
私は思考を一つ、切り替えた。
私の中にはいくつかの段階があり、自分でも不思議だけど、稽古を続けるうちにその段階を、集中によって変えることが身についた。
呼吸は細くなり、体が少し軽くなる。棒の重さも消えた。
全てが加味されて、最適な動きがいつでも繰り出せる。
間合いを測る。
いきなり率が前へ踏み込んだ。
お互い、呼吸がずれている。
しかし私の構えは完璧なはず。つまり、崩しに来る。
なら。
こちらからも前へ踏み出し、棒を当てに行く。
ぐっと率の踏み込みの軌道が歪む。
読まれている。
攻撃の中止は間に合わない。続行。
率からも棒の振りが来る。
間合いは際どい。当たるか、当たらないか、どちらか。
すれ違う。
棒は当たらなかった。
姿勢の乱れはこちらの方が大きい。当たり前だ、率は狙っていたのだ。
即座に間合いを詰められるのを、今度はこちらから飛び込んでく。
再現にはならない。
こちらの棒に率の方から棒を当ててくる。
弾き合い、急反転、もう一撃。
それもまたぶつかる。
ぶつかった次には絡み合い、捻り合う。
両者が同時に棒を弾き合い、跳ねて間合いを取る。
呼吸を整える間を与えない率が、三度目の踏み込み。
しかしこちらの体力を咎めるのは想定内の攻めだ。
彼の踏み込みより早く、私が踏み込む。
棒と棒がぶつかり合う。
奇妙な手応えがあった。
ものすごい音を立てて、私の握っている棒が半ばから折れた。
距離を取ろうとしたが、すでに間合いはゼロ。
棒が首筋に触れる寸前で止まっている。
「俺の勝ちだな、時子」
率の言葉に勝ち誇るようなものはない。
それよりも安堵の色が濃い。
実力は完全に伯仲していた。
「その棒を折る技、教えてくださいって言っているじゃないですか」
一歩下がって、思わず恨めしげな声が漏れてしまった。
羨ましげ、でもあったかもしれないけど。
この道場、フォルダーナ道場の師範から師範代である率に伝えられた技で、まだ私は教えてもらっていない。門人たちは「あれを教われば免許皆伝だよ」と笑っていることが多い技だ。
それだけ現実離れした技ということだった。
でも私からすれば技は技だし、理屈と動きを学べば、いくらでも使えるはずだ、という考えに行き着く。
「もう一度、お願いします」
頭を下げる私の前で、呆れた様子ながら、門人に棒を要求し、それが私に手渡されるとすぐに私も彼も構えをとった。
「乱取りじゃなく、俺の技を真似てみろよ、時子」
言いながら、率が間合いを詰める。
私は基本的な打ち込みを繰り出した。率が棒で受ける。
思考の中では、先ほどの棒を折られた瞬間の手応えをどう解釈するか、高速で想像が巡っていた。
その間にも棒と棒は触れ合う。
木と木が当たる手応え。
手首のわずかな捻りを加えてみるが、棒は受け止められた。
もう一度、と率が距離を取る。
それから十回ほど、同じ動作を繰り返した。一回ずつ、力の加減や、棒同士が当たる場面のお互いの姿勢などを加味したけれど、棒を折ることなど、夢のまた夢だった。
実は密かに稽古は積んでいる。
そして一度も成功したことはない。
棒を折られたことは何度もある。数え切れないほどだ。
不思議な技だ。いつも通りの振りのはずなのに、当たった瞬間には棒が砕ける。
「これくらいにしよう」
率の言葉で稽古は終わりになった。
他の門人の相手をするように言われ、私も他の稽古に混ざった。
昼前に稽古は終わる。道場にも小さな風呂があるが、さすがに女の私が男たちに混ざるわけにもいかず、私は一足先に道場を出る。その足で、そばにある公衆浴場で汗を流し、それから近場にある茶屋で軽食を食べるのが常だった。
屋敷へ戻ってもいいのだけど、こういう素朴で、普通の民が食べるものの方が私には合っている。
茶屋ではまず炊いた米を大雑把に固めて、味噌をつけて焼いたものを食べ、その後に東の方の物産である、水を半透明に固めたものに黒蜜をかける甘味を食べた。この半透明のものは天寄せなどと呼ばれ、餅とは全く違う弾力で、あっさりしている。独特の歯ごたえも好きだ。
お茶を飲んで、銭を支払って店を出た。
天帝府の真昼間というのは、季節を問わずに騒がしいものだ。
喧騒の真ん中を進み、私はさりげなく裏道へ入ると、そこから無姓の公爵の外屋敷に通用門から入った。門衛は一人だけで、その男は一礼して、私を通した。
「お嬢様、おかえりなさいまし」
使用人の一人が屋敷の奥からやってきた。この屋敷はいつもシンとしているので、そのささやかな足音さえも大きく聞こえる。
「昼食はどうなさいますか」
「食べてきたから大丈夫」
言いながらすれ違い、自分の部屋に持っていたものを置くと、剣を腰に吊ってすぐに屋敷の中庭へ出た。
花が咲き誇り、芸術的というより奇妙な形に整えられた樹木がいくつも配され、岩も並んでいる。
それでも充分に残っている空間で、私は剣を抜いた。
瞼を閉じた。
風が吹いている。
日の光は眩しい。
剣は、今、自由だ。
しばらく私はその姿勢で動かなかった。
(続く)
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