第247話 繋ぎ止めるもの
◆
生きてはいるようだな、と剣聖がかろうじて聞こえる声で言った。
「それほど長生きるするようでもありません」
俺がこんな時でも冗談めかしてそう応じると、剣聖はいつものように鼻を鳴らした。
俺がこれから何らかの理由をでっち上げられて処断される、などとは思っていないようだった。
「生きてみたいか、瞳?」
問いかけられ、自分の中でもその問いを繰り返した。
生きてみたいか。
「死にたいかもしれません」
言葉を止められなかった。
「どうして自分が生きているか、わからないのです。俺は、大勢を切って、それが意味するものが、わからないのです。俺は正義のために彼らを切ったつもりでした。彼らは悪で、俺は善だと。しかし、しかし、今になれば、俺はただ、切っただけだった。善も悪もなく、切っただけです」
一息にまくし立て、急に体の力が失われたのがわかった。
俺はどうやら、悔いているらしい。
認めたくなかったことを、認めたのだ。
俺は俺の罪を認め、罰されることを認め、それを目の前にいる師に伝えた。
これでもう、何も俺を繋ぎとめるものはなくなった。
「剣を教えていただいたのに、俺は、その意味を考えませんでした。申し訳ありません。剣聖の弟子として、失格でした」
視界が滲み、灯りが歪み、視界を覆った。頬を雫が伝った。
剣聖は黙っていた。
今度の沈黙は、しかし、すぐに破られた。
「死んだ気で生きてみる気はあるか」
問いかけに、すぐに首を横に振っていた。
もう生きていくには、俺の手は汚れすぎ、心は穢れきっていた。
「剣聖となるべきものに必要なものはないと、私は教わった」
うつむく俺には、師の様子は見えなかった。ただ、声だけが投げかけられる。
「私も悩んだ。人を実際に切ることが必要か、と考えたこともある。学問を修めるべきか、と考えたこともあった。様々な試みをした。多くの師を持ち、多くの弟子を持ち、その大勢の中に何かを見出そうとした。しかし全ては徒労だった」
いつになく、我が師の口調には、低担としたものがあった。
「私は何者でもなく、ただ剣に長けた、一人の男だった。負けることはなかったが、勝利や達成とも無縁の日々だった。負けなければいい、と見る者もいる。負けないことがそのまま勝利を意味すると。空虚な言葉だと思ったな。私が求めているものではないからだ」
何の話なのか、耳をすませる自分がいる。
視線が自然と上に上がり、激しい炎のように揺らめく、我が師の双眸とぶつかった。
「今のお前には、私と同じものが見える。勝利したはずなのに、それは勝利ではなく、ただ恥ずべき行為をなしたという形は、私の苦悩に近い。ただし、結論は違うな。私は負けない自分を恥じることはない。お前は負けなかった自分を、恥じている」
「間違ったことをしました」
「何が間違いだったか。言ってみよ」
言葉に思っていることを置き換えた。
あまりにも容易い作業だった。
「人を切りました。大勢を、手にかけました」
「敵を切ったことを、恥じるのか?」
「敵ではなかったのではないか、と思うのです。ただ立場が違うだけの、自分自身を俺は切ったのです。俺は俺自身で、自らの意味に傷をつけた」
理屈ばかりだな、と剣聖はため息を吐いた。
「ではなぜ、お前は死んでいない? 自分で自分を切ったのなら、お前はもう死んでいるはずだ」
これから死ぬことになる、と言い返そうとして、矛盾が急に屹立した。
俺は自らで自らを裁こうとしているように見えて、実際には他人に裁かせようとしている。
今、刃物が手元にあれば、俺は俺自身を引き裂けるだろうか。
「我が弟子よ、お前は勇敢なはずだ。誰よりも強いことを、実戦の場で証明した。それが何故、自裁することを避けている?」
答えは出ない。
口元が震えた。
我が師は俺を、誰よりも強い、と、今、そう表現した。
でも俺は、こんなに弱い。
自らを捨てきることができない、弱い人間だ。
「お前が切ったものが、どこか、ここではないところで胸を張れるように生きろ、瞳。自分はあれだけの使い手に挑み、しかし敗れたのだと、そう自慢げに死者が語るような剣士に、なってみろ」
これは励ましだろうか。
それとも、𠮟咤か。
俺が諦めたもの、手放したものとのつながりを、もう一度、結び直すように促しているのか。
「死にたいというのなら、死ねば良い。私もそれを止めはしない。確かにお前は大勢を切ったし、それはあるいは否定されるし、権力を持つものからすれば脅威的な力でもある。権力は常に暴力を管理したがるからな。ただし、だからこそ完全に管理された暴力は、権力を離れることができる。言うほど単純ではないが、権力は暴力を完全には飼い殺せないものだ」
どう答えることができるだろう。
何を言っても、虚しいのではないか。
死者に詫びることも、破滅を現実に変えたことに絶望するのも、まるでそういう演劇のようだ。
俺は生きていて、何かを演じているわけではない。
俺の言葉、他人の言葉、その奥にある実際の心を、見つめるべきだった。
「考えておけ、瞳。時間はあと、そう、三日はあろう。それで不足なのなら、お前は曖昧な存在にすぎない。剣士は常に、剣のように生きるものだ。断ち切るものを、躊躇いなく切り捨てるようにな。剣聖の弟子なら、剣になってみせよ」
剣聖がすっと姿勢を変えた。
「待ってください」
格子にぶつかるようにして詰め寄っていた。
その格子の向こうに、剣聖は立っている。
「俺が剣となったら、誰が俺を使うのですか?」
短い沈黙の後、剣聖は灯りの乏しい光の中で、はっきりと笑った。
「剣は誰に使われるとしても、ただの剣だ。優れた使い手に出会えれば、剣としてその切れ味を発揮できる。もし、愚かな使い手にしか出会えなければ、欠けて、錆びて、朽ちる。剣が使い手を考える必要はないのだ」
そうはいかない、と思ったが、剣聖は完全に背中を向け、離れていき、灯りも消えていき、ついに牢は薄闇に包まれた。
使い手を選ばない剣など、存在しないはずだ。
俺は座り込んで、格子に背中を預け、考え始めた。
俺は剣聖ではない。我が師のように、超然としてはいられない。
刃としては、全く鈍いのだ。
それでも考えることはできる。
刃を、研ぎ上げるように。
(続く)
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