第237話 人という道具
◆
大したことではないんだけど、と彼は優雅に微笑む。
「彼以外、ほとんど誰も気にしない。どこの貴族もやっていることだよ。自分の娘を、その意思を無視して、皇族や別の貴族に嫁がせる。本人にとっては重大事かもしれない。自分の人生が奪われてしまう。その悲劇をどう解釈するかは、人の数だけ答えがある。瞳はどう思う?」
そう促されて、俺は少し自分の手を見た。
鍬を握っていたことを忘れた手。
剣を取ることが染み付いた手。
俺は人生を奪われたことはない。
俺の、農民の中でも下級の存在として、ひたすら土に向かい合う生活は、今になってみれば俺には合わなかった。
剣を振っている方が、よほど俺に合っている。
俺は人生を奪われたのではなく、与えられた人間なのだ。
幸運にも。
そんな俺が、他人の悲劇をどうこう言えるだろうか。
「どこかで規制すればいいのでは?」
そう言葉にしたが、彼は予想のうちと言わんばかりに軽く頷いていた。
「皇室に属するものは、なるほど、婚姻を規制する手はある。だが、貴族はどうだろう。それに、子を多く残すことは、家の安泰であり、皇室からすれば国の安泰だ」
彼が言うことはもっともだった。
妊娠したとしても、出産後に死亡する赤子は数え切れない。それに幼くして疫病などで死ぬものも相当数がいる。俺の元の家でも、妹や弟が何人もいた。そして死んだ者もいたのだ。
医術の及ばない領域が厳然とある上に、この国でも場所によっては飢餓もまた存在する。
食糧がなく、薬もなく、そうして倒れていく無数のものたち。
天帝府の豊かさの陰には、避けられるはずの悲劇があり、しかしそれは一つの原則でもある。
農民だけが、倒れていくわけではない。
貴族たちもまた子を亡くすことは多い。そして貴族にとって、子が生まれない、亡くなるというのは、ここまで積み重ねてきた家というものの破滅に近づくことだ。
場合によっては養子を取ることもあるが、現状では、貴族間での姻戚関係が複雑になったものの、血筋にふさわしい血筋が交わっている。
ただどうしても、不自然さはある。
生まれてくる子ども達は、家を継ぐための道具なのか。もしくは、血筋を残すために子を産む道具なのか。
そんなことがあってはいけないはずだった。
現実はそうではないが、いけないはずなのだ。
「今のところ、この国はうまくいっている」
お茶を飲み、菓子を摘み、彼が言う。
「しかしどこかで、原理に戻らないといけないと僕は思っている。血筋のため、権力のために人が生きるのではない世界が来ればいい、と思うよ。これは本音だ」
本音。
しかし、さっきの話はなんなのか。
なぜ、貴族を刺激するようなことをしたのか。
「貴族たちの動きがここのところ、活発だ」
話題がまたも急に変わった。ついていくために、思考を切り替える。
「公爵家の再興の議論もあるし、天帝府を守備する禁軍の内容に関する議論もある。財政も、帝室の庫に関する意見もあった。円卓評議会の改革なんかもあるし、役職の整理も議論が起こっている」
「どこでそのような話を?」
「父上から聞いている。僕の意見を求めているというより、求めているのは協力だけどね」
目の前の少年に何ができるのか、俺にはすぐにわからなかった。
だが、一つ、ついさっきまでやっていたことがある。
貴族の娘を呼んだ。
その娘に恋情を向ける貴族がいる。
タガケ侯爵。
「娘を横取りしたのは、陛下の命ですか?」
「形の上ではね。ただ、父上はタガケ侯爵を自由にさせた。彼は今頃、決断を迫られているだろう。正確にはもう決断を下しているかもしれないから、破滅しない岐路に立ちながら、破滅しか見えていない、という状態かもね」
破滅?
「何が起こるのですか?」
「さっきの話さ。禁軍の内容が問われている。問うているのは武門の公爵でも、ファルスト公爵だ。禁軍を再編し、厳しい調練を課すという計画を立てている。それに合わせて、ファルスト公爵に近いものが、禁軍を実質的に支配し始める」
「それを不発に終わらせる、と?」
「不発で終わったら、何も起こらないじゃないか」
不穏だった。
しかし彼は動じた様子もない。いつも通り、平静のままだった。
「ついでにファルスト公爵に近い血筋に、オルシッタ公爵も動いている。こちらは軍の財政を良いようにしたいらしい。あの男も根っこは好感が持てるが、ちょっと枝葉を伸ばしすぎたな」
「何が起こるのですか?」
うん、まあ、と彼は視線を外した。
どこを見ている? 窓の向こう、外?
「ちょっとした武装蜂起が起こる」
武装蜂起。
「狙われるのは天帝宮と、ここだ」
何を言っているのか、理解するのは困難だった。
ただ、聞くべくことははっきりしている。
「何人を想定していますか?」
「全体でおおよそ二〇〇〇かな。うまくいけばだ」
「うまくいって、二〇〇〇ですか?」
「そう。不確定要素が多い。ただはっきりしているのは、僕は真っ先に命を狙われる。さっき話したように、僕が発火点なんだ」
質問を向けようとしたが、それより先に鉦が打たれるのが聞こえてきた。
外だ。
反射的に立ち上がり、窓に歩み寄った。ここにも贅沢に板ガラスが使われている。
見える範囲に異常はないが、いや、離宮の正門の向こう側に明かりが見える。
人の声も聞こえるが、まだ遠かった。
「一応、護衛の人員は入れ替えてある」
彼が俺の横に立ってそう言った。
「しかし君が頼りだよ、瞳」
どう答えることもできない。
低い音が連続して聞こえたかと思うと、離宮の正門で大きな影が動き、明かりの群れが雪崩れ込んできた。松明を持った兵士らしい。
「始まったね」
手に持ったままの湯呑みをゆっくりと口へ運びながら、彼がそう言った時、いきなり応接室の扉が開いた。
警護のものか、と振り返ったが、そこにいたのは血走った目をした、剣をすでに抜いている二人の男だった。
(続く)
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