第〇部

第235話 一夜の始まり

     ◆


 天帝府の夜はにぎやかだ。

 明かりが消えることはなく、喧騒もまた終わりなく続く。

 人の歓声、悲鳴、笑い声、泣き声、罵声、歌また歌。

 料理の匂いと、酒の匂い。汗の匂いと、反吐の匂い。

 明るい一方で暗く、暗い一方で明るい。

 俺はとある方とお忍びで遊びに繰り出し、今、帰りの馬車を待っていた。

「瞳は女は嫌いかな」

 隣に立つ人物は、まだ幼い。実際より三つは下に見えるため、青年と呼ばれてもいいはずが、まだ少年という表現の方がしっくりくる。

 俺はどう答えるか迷い、「気を許せないだけかな」と答えた。

 本当はそんなに気軽に返事をしていい相手ではない。

 ただ、本来いるべき場所を離れたら、ただの友人でいようと言われていた。

 それにこの街中で少年にへりくだっていると、何が起こるかわからない。天帝府は治安はいいが、それでも暴力沙汰は毎日のようにある。

 仮に隣にいる彼がどこかの貴族のボンボンだと分かれば、なんだかんだと文句をつけて銭を巻き上げるような輩もいないとは言えない。

「あなたこそ、女がそんなに好きなのですか?」

 好きだね、と少年が微笑む。

「女はまず、非力だ。そして気を許すことがない。注意深く、疑りぶかく、身の安全を考え、そのためならなんだってする。男は本能に従うが、女はそれよりも幾らか合理的だ」

「誰かにそう教えられた?」

「僕の主観だよ。そうじゃない女も大勢いるんだけど、僕が見てきた女は、そんな具合だよ。剣聖府だって、女は少ない。それはやはり非力だからだし、逆にあそこにいる女剣士は、必ず男の剛力に対抗する技を身につける。違う?」

「違いませんね」

 この人物と会ったのは天帝府に俺がやってきて、数年が経った頃だった。たまたま彼が剣聖府に視察に来て、俺を見つけたのだ。

 子供なのによくやるね、と、当時は彼も子供だったのに、平然と言われて、ちょっと頭にきた。

 ただ、そばについている護衛の鍛え上げられた体、油断のない目の配り方、いつでも動かせるように計算された些細な姿勢、そういうものを目の当たりにすると、とてもじゃないが手を出す気にはなれない。

 驚いたのは、僕に稽古をつけてくれ、と言われたからで、まさに今、なんとか痛い目にあわせてやろうかと思っていたところだったので、これには驚くしかなかった。

 護衛が止めようとしたが、どうせ真剣じゃない、と彼は訓練用の棒を手に取り、俺の前に立った。

 俺は一度も打たれず、少年を三度ほど打ち据えた。

「参った。手に負えない」

 それが彼の降参の言葉で、それを経てやっと「名前は?」と確認された。

 こうして俺たちは奇妙なきっかけながら、友人となった。

 すでにそれから三年が過ぎた。

 俺は十五歳で、剣聖府の純銀などと呼ばれていた。なぜ、銀なのかといえば、俺の師匠にして今の剣聖である閃・ストライムという、眩いばかりの才能と技量の持ち主がいるからだ。

 師匠は黄金で、俺は銀ということだ。

「しかし、女というのも色々とある。人々にはそれぞれの事情があるのだな」

 彼はそう言いながら、こちらを見た。

「きみも剣聖府に来るまでは、大変だったと言っていたよね」

「ええ、まあ」

 俺の両親は小作人で、しかもただ使役されるだけの存在だった。

 俺が剣の道を選んだわけではなく、たまたま地方視察の最中だった剣聖その人が、なぜか俺を見初めたのだ。七歳の時だった。

 両親は俺を何の執着もなく送り出した。実際の額は知らないが、相応の銭が支払われたからだろう。もちろん、両親の生活が未来永劫、保証されるような額ではないだろうが、銭は銭だ。

「幸せかな、瞳は?」

「充実はしていますね」

 毎日、繰り返される猛稽古は、俺の中の何かを常に磨き、研いでいる感覚があった。

 ただ一方で何かが失われていく。削り落とされるものは確かにあり、それが最近は、気になっていた。

 自分がどんどん、人間として必要なものを失い、ただの剣士であることも超越して、剣そのものになったような気さえした。

「あなたは、幸せですか」

 そう質問を返すと、幸せだったらこんなところまで女を捜しには来ないよ、と彼は笑っていた。

 寂しそうでも、おどけているようでもない。

 作り物のような、変に無機的な笑みだった。

「難しいことは、察しています」

 俺の言葉に、彼はにたっと笑った。人の悪い笑みで、普段はあまり見せない。公の場では、絶対に見せない。そういう笑みだ。

「僕の血筋は難しいことばかりだよ。言葉遣い、所作、動作、表情、思考、思想まで、自由にならない。誰もが思い描く理想を、体現しないといけない。時々、全部を投げ出したくなるよ」

 本音だろうか。それとも、そういう形だけの冗談か。

 何も答えずにいると、来たね、と彼は通りの遠くを見た。車輪が石畳を噛む音がして、馬車が近づいてくる。二頭立で、貴族が乗るような馬車だ。

 俺と彼の前で馬車は止まる。侯爵家の紋章が見えた。これは、トランヴィンスキ侯爵家か。

 先に彼が乗り込み、次に俺が入った。中は無人だった。扉が閉まり、御者に合図をすると、馬車は動き始めた。

「きみも少しは世間を知ったほうがいいよ、瞳」

 脈絡のない話題だったので、馬車の中の小さい明かりの中で、隣に座る少年の顔を見た。

 少年はこちらを見ていない。まっすぐに前を見ている。

「どういうことでしょうか」

「きみは何も知らないだろうから、僕の方から説明するとしよう」

 何を言いたいのか、まったく見当のつかない言葉で、しかしこれがたまに彼がやる話し方だった。とにかく、解説が好きなのだ。

「何の説明ですか?」

 かしこまって確認すると、女たちの悲劇さ、と彼は澄んだ声で言った。



(続く)

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