第234話 先の先へ

     ◆


 俺は裏庭で刀を抜き、光にかざしていた。

 体の動きは静止している。

 風が中身のない左袖を揺らす。

 空を鳥が飛び、甲高い鳴き声をあげる。

 どれくらいをそうしていたか、ゆっくりと刀を振り下ろす。

 切っ先が地面に触れる寸前で、再び停止する。

 動きを止め、呼吸を整える。横に踏み出し、今度は横薙ぎ。

 緩慢な動作の後、またも静止。

 いつからか、刀を早く振ることに執着しなくなった。

 むしろ、遅く動かす方が難しく、かつ正確にぶれずに刀を振ることに執心していた。

 これで本当に人が切れるわけではない。

 ただ戦いの場に立った時、刀を思った場所へ、少しのズレもなく繰り出せるのは、有利だろう。

 もちろん、巧遅拙速という言葉を唱えるものもいて、考えてみれば素人が達人に勝つ時は、大抵はそんな場面である。どれだけの技術を持っていても、まっすぐに突っ込んでこられると、対処に困ったりする。

 何度か動きを繰り返し、今のところ設定している十八の筋を、すべてピタリとなぞることができた。

 満足することはないが、安堵はする。

「典さん」

 背後からの声に振り返ると、軒下に少年が立っている。服装は平凡で、しかし決してくたびれてはいない。贅沢はしないが、常に所作や服装などには気を配る。そういう方針なのだ。

「蒼華さんがお待ちです」

 そんな時間か。

 刀を鞘に戻し、少年とともに建物に入った。

「ぜひ、剣術を習いたかったのですが」

 少年が悔しそうに言う。この少年が剣術の稽古を望んでいることは、俺も、蒼華も知っていた。

 蒼華はそれを許さなかった。拒絶したわけではなく、やんわりと受け流したという感じだ。

 少年も、それを受けて自分の考えを抑え込むことにしたようだ。

 蒼華は言っていた。

 本当にやる気があれば、他人に何か言われたくらいで、やめたりはしない。そういう意欲がなければ、何事も続かない。

「素振りくらいはしているのだろう?」

 そう声を向けてみると、もちろんです、と返事があった。

「技っていうのは実戦で有利になるだけで、絶対じゃない。その辺りを考えて、素振りをしてみろ」

 少年は俺が助言したことが嬉しいように、ニコニコしながら頷いている。

 部屋の一つに入ると、蒼華が旅装のまま、書類を見ていた。決済するものが多く溜まっているのだ。

 俺に気付いて顔を上げる。

「これが天帝府からの知らせ」

 挨拶もなしに一枚の書状がこちらへ差し出される。

 受け取って読んでみると、剣聖府が閉鎖されたという内容だった。

 剣聖府は女性の剣士である、時子・アーキが剣聖府統括という立場になっていたが、これにより役を解かれると言う。

 覇者の剣は帝に返上されたともその書状には書いてあった。

 書いているのは瑞波という女性で、蒼華の古い知り合いだと聞いている。

「これでとりあえずは決着ね」

 蒼華が嬉しそうに微笑み、俺が返した書状を丁寧に畳んだ。

 彼女の顔もシワが目立つようになった。それは俺もだろう。

 天帝府を逃れて十二年が過ぎていた。

 蒼華は緑州でバッザ公爵家の家臣として、勘定役を務めるまでになったが、それは三年前に身を引いた。特に仕事で問題があったわけでもないし、周りとの関係も良好だった。

 もっと大きなことをしたい、というのが蒼華の意見で、バッザ公爵は難色を示したが、蒼華は自分の意思を押し通した。

 三年前からは緑州で商売を始め、それは西方からの物産を各地の商家へ紹介するような仕事から始まった。やがて多くの商人が蒼華が宣伝した商品を欲しがるようになり、そのための取次ぎが蒼華の商売となった。

 今日もどこかへ話をつけに行っていたのだろうが、今の蒼華の様子からすると、念願が叶ったようだ。

「西へ行く商人はどうだった?」

 こちらから確認すると、蒼華が破顔する。

「何の問題もないわ。連れて行ってくれるって。出発は五日後よ」

 蒼華は商売を発展させながら、西に広がる砂漠のその先に見える山脈の、さらに向こう、この国のものが滅多に足を踏み入れない土地へ行く術を、探し続けていた。

 その交渉がまとまってきたと、数日前に嬉しそうに話していたのだ。

 店の経営に関しては、数年にわたって部下の一人に任せるという。周到に、人材の育成や充実にも蒼華は力を入れていた。

「なんでも西の果てでは銭の価値さえも違うらしいわ。銭よりも品物が力を持つみたい」

 何度かしている話を、まくしたてるように蒼華が始める。俺は黙ってそれを聞いていた。

 自分ばかりが喋っていると気付いたのだろう、蒼華が俺の目を見た。

「典は、ついてくるわよね?」

 どこか自信だけではない言葉だった。

 不安が含まれた声には、放っておけないものがある。

 そんな声をしなくても、俺が見捨てるわけがないのに。

「ついていくよ。西の果てというのも、面白そうだ」

 今度こそすっきりした笑顔を見せ、「荷造りしておいて。これを逃したら次は来年よ」と仕事へ戻っていく。

 俺は一人で部屋を出て、元の裏庭へ戻った。

 何かが空を切る音がして、見れば先ほどの少年が棒を一心不乱に振っていた。汗が飛び、キラキラと光を反射する。目の色は本気そのもので、呼吸は少し乱れている。

 俺はしばらく、その様子を眺めていた。

 この国から、剣聖府は消えてなくなり、また剣聖という称号も、失われた。

 しかし剣術は今も生きている。

 人々の間で、受け継がれていく。

 失われたものでさえも、どこかで再び芽吹き、また継承されるのだろう。

 失われるものなど、何もない。

 全てが次に繋がっていく。

 少年が棒を振るのをやめ、肩で大きく息をした。

 俺は庭へ降りていき、少年がこちらに一礼するのに、そっとその棒を握ったままの手に触れた。

 何者でもない、ただの剣士の俺にも、できることはある。

 蒼華は、西の果てに何かを見ている。

 俺はこの少年の奥に、何かを見るとしよう。

 鳥がどこかで高く鳴いた。



(第五部 了)

(本編 完)

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