第233話 闇から先へ


     ◆


 緑州まであと五日となった。

 宿場の一つで宿に部屋を取り、風呂にも入れさせてもらい、食事に出た。

 陽鎮という街で、初めての場所だ。食堂の場所は宿のものに聞いた。

 通りを行く人はみな、明るく、威勢がいい。冬を迎えるにしては陽気だった。時刻は陽が暮れかかっていて、すでに酒も入っているのだろう。

 食堂はすぐに見つかった。饅頭と、肉と野菜を油で揚げたものを頼んだ。この揚げ物は西へ行くとよく見かけるようになり、いろいろなものが揚げられている。

 饅頭を揚げている街もあり、食べてみたけれど、饅頭を工夫すればもう少し味が良くなるかもな、という具合だった。

 しばらく待つとまず肉と野菜の揚げ物が出てくる。天帝府で見た揚げ物と違い、衣をつけないやり方なので、ちょっと違和感があるが、これが西方の普通だ。

 箸で熱い揚げ物を持ち上げ、息を吹きかけ、ちょっとずつかじる。

 饅頭も来た。二つで、片方の中身は豚肉、片方は野菜だ。

 一人きりの食事にももう慣れた。周囲では色々な人が卓を囲んでいて、酒も出ている。

 私は食事を済ませると、きっちり勘定をして、ゆっくりと宿まで歩いて戻った。

 部屋に上がり、寝巻きに着替えて寝台に横になった。

 街の喧騒が室内まで入ってくる。それもまた眠気を誘うものだ。

 瞳は何をしているだろう。

 天帝府を出るまで、調べることはしなかった。

 何か、意地になっていたかもしれない。

 斬り合いばかりに必死になって、周りのことなんて考えない生き方に、苛立ちもあったかもしれない。

 でもそれは、瞳が命を落とすことを選ぶのをとめたいという、それだけの単純な思いなのか。

 一緒に緑州へ行こう、と言えただろうか。

 言ったとして、瞳はついてきただろうか。

 夜の闇の中で、私はそんなことを考えていた。

「お客様、お客様」

 いきなり声がして、曖昧になっていた意識が急に輪郭を取り戻した。

 起き上がる。扉が控えめに叩かれていた。

「どうかしましたか?」

 声を返しながら、寝巻きの上に一枚、羽織った。

 宿のものの声だが、何か違和感がある。その違和感を理解する前に、宿のものの声がする。

「瞳殿と名乗る方が、お越しですが」

「……瞳?」

 まさか、追いかけてきたのか? でも、どうしてここがわかった?

「蒼華・ブルウッド様というのは、お客様でよろしいですね」

 私はもう扉へ向かっていたが、違和感の正体にやっと気づき、足を止めた。

 店のものの声が震えている。怯えているのだ。

 なぜ。

 本能的に足が止まり、自然、後退した。

 瞬間、扉が弾き飛ばされるように開いた。

 男が二人、飛び込んでくるのを見たときには、私は窓の方へ走っていた。

 窓が開き、月の光が差し込み、冷たい空気が吹き込んだ。

 襟首を掴まれ、引きずられた。いや、羽織が引きむしられただけだ。

 私は窓から外へ飛び出した。

 二階だ。しかしそれほど高くない。

 転げ落ちた時、左肘に激痛が走るけど、無事だ。

 起き上がったが、その時には二人の男が私を挟むように立っていた。

 すでに剣を抜いている。

 誰だ。

 何故だ。

 叫びながら、私は宿の脇の厩の方へ突進した。

 一人の男に突っ込む形になったが、男はわずかに躊躇ってくれた。

 しかしそれもほんの半瞬で、剣が振り下ろされる。

 横に飛んだ。

 避けられる確信などない。

 急に右足の太もものあたりが、冷たくなった。

 構わずに走った。厩で、自分の馬が繋がれているのを外そうとするが、できない。

 背後には男が迫っている。

 見てもいないのに、男が剣を振りかぶっているのがありありと想像できた。

 手が馬をつなぐ綱を解く。

 間に合わない。

 悲鳴。

 私ではない。背後からだ。

「さっさと行け!」

 声がした。

 誰の声だ?

 私は馬を引っ張り出す。鞍はない。裸馬に乗ったことは数え切れないほどある。今も出来るだろう。

 馬に飛び乗り、訓練された馬が走り出す。

 背後を振り返りたいけど、余裕はない。馬の首に抱きつくようにして、しがみついた。

 背後で大声が行き交う。

 さっきの声は誰だったのか。

 夜の中を馬が疾駆する。どこまでどこまでも、進んでも進んでも、闇しかない。

 声はもう聞こえない。

 目が痛む。瞬きができない。風が顔を打って、眼が乾く。

 寒い。薄着だからだ。

 馬は走り続ける。

 少しずつ闇が薄くなり、周囲が見えてきた。一面の野原でなだらかな丘の起伏が続く。全てを枯れ草が覆っている。

 ここはどこだ。

 馬が喘いでいる。しかし走り続ける。

 唐突に馬の脚が折れた。石を踏んだらしい。

 草原に投げ出された私は、打ちつけた左肘の激痛に悲鳴をあげていた。

 起き上がって、馬を見た。

 馬はわずかに呼吸をしているが、倒れているまま、もがいていた。その動きもすぐに弱くなり、呼吸は止まった。

 私は馬に近づくこともできず、座り込み、横になった。

 空はいつの間には青くなっている。

 闇を抜けたんだ。

 でも、私はどこへ来てしまったんだ?

 ここはどこだろう。

 呼吸が荒かったのが、少しずつ落ち着いて、肘の鋭い痛みも鈍痛に変わった。

 深く呼吸して、薄茶の草原に倒れたまま、じっとしていた。

 太陽の光が暖かいけれど、風は悲しみが形を持ったように冷たい。

 どこかで鳥が鳴いた。

 いつに間にか閉じていた目を開くと、太陽が暮れかかっていた。

 ここにいても、意味はない。

 どこかへ行かなくては。

 歩き出さなければ。

 どこかへ。

「蒼華」

 いきなり声がした。

 体を起こすと、そこに一人の男が立っていた。

 服は血にまみれていて、腕は片方しかない。

 しかし表情は穏やかで、のほほんとしている。

 立ち上がるという意識もなく、私は立ち上がっていて、駆け出すという意識もなく、駆けていた。転びそうになり、姿勢を取り戻し、でもまた転びそうになった。

 気づくと、私は彼に抱きついていた。

「一応は、無事らしいな」

 何を言っていいか、わからなかった。

 私はただ声を上げて泣いた。

 今まで、こんなことはなかった。

 ただただ、泣きたかった。泣いて泣いて、何かを吐き出しているようだった。

 彼が右腕を私の背中に回した。

 太陽が沈みかかっている。

 薄闇が忍び寄ってきて、風が冷たさを深める。

「行くぞ、蒼華」

 私はぐっと彼の胸に頭を押し付けた。

 血の匂いと、確かに生きているという熱。

 私は強く、頭をつけた。

 世界はまた闇に沈んでいくのに、私は少しも不安を感じなかった。

 彼がそばにいることは、それくらい、私を強くしてくれる。

 一度、強く彼が右腕で私を抱きしめた。



(続く)

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