第232話 刀の形をした分身
◆
夜中に自然と目が覚めた。
薬包のせいで睡眠時間がずれていたので、意識が曖昧だったりしないのは、もし医者の計算通りだとしたら恐ろしいことだ。
とにもかくにも、ここを出るときが来た。
俺の面倒を見てくれた若者が着物を用意してくれていたので、素早く身につける。質素で、安価そうな服だ。まさか青地に黒線の着物で出歩くわけにもいかないから、感謝しかない。
着物と一緒に、布に包まれたものがあり、中を確認すると剣聖の後継者としての襟飾だった。
一本の剣の紋章をかたどった、黄金の襟飾。貴石が二つ。
布で包み直し、俺は懐にそれを入れた。
足音を忍ばせ、扉を開ける。
「やっとお目覚め?」
いきなりの声に反射的に身構えたが、その声が誰の声かはわかった。
「元気そうだな」
そう声を返すと「そちらこそ」とはっきりとした声が戻ってきた。
時子は壁に寄り掛かるようにして立っている。廊下の最低限の明かりの中でも、彼女の美しさはまるで輝く黄金のように主張が強い。
「私があなたを途中まで案内する。ついてきて」
無言で頷く俺を、時子は先導し始めた。
時刻が気になるが、調べる術はない。とにかく静かに、息も殺して、進んだ。
剣聖府からどうやって出るのかと思うと、正門から出るらしい。
門衛がいるはずだ、と思ったが、驚くことに無人だった。詰所にも人の気配はない。
どういう言い訳をしたのか、非常に気になるが、ここで問いかけるわけにはいかない。しかし、そうか、呂が助力してくれたのかもしれない。
呂は俺の見舞いには来なかった。中途半端な別れだが、俺も呂も剣士だ。どこかで誰かに切られれば、別れの言葉など交わせないのだから、これくらいは許容できるし、日常だ。
通りに出て、角を次々と折れて行く。天帝宮を守るための入り組んだ道は、慣れているものでなければすぐに迷うが、時子は俺以上に知悉しているように、迷いなく道を選んだ。
内壁がすぐそばに見え、しかし門は遠い。登攀できるような壁でもない。
どうするのかと思うと、一軒の屋敷の中に時子は入っていった。人の気配はやはりない。しかし屋敷は手入れされている。
建物の玄関を入ってすぐ傍の応接室で、時子が足を止め、こちらを振り返った。
「どちらか、あなたが持っていけばいいわ」
彼女が指差したのは壁で、そちらを見ると、二振りの刃物がそこにはあった。
片方は幅広の大剣。片方は刀だ。
覇者の剣と、敗者の剣。
「宝物として天帝宮にでも飾ればいいじゃないか」
そう言ってみたが、時子も俺が本心でそう言っているのではないと察しているようだ。
彼女はささやかな月明かりの中で嬉しそうに笑い、歯が微かに白く光った。
「剣は使ってこその剣でしょう。でもこの剣を支える使い手は、ほとんどいないわ」
「右腕を使えなくして、悪かったな」
時子は俺を廊下で待っていた初めから、右腕を動かしていない。肩が破壊され、固定されているのだろう。治癒するのにはまだ長い時間を必要とすると見て間違いない。
しかし当の彼女には気にした様子がほんの少しもなかった。
「一つだけ確認したいことがあるのよ。あなたは、狙って二人共が生き残る筋を選んだの?」
いや、と俺は即座に答えた。
「あれは偶然だよ。俺は俺の死なない筋を選んだ。そしたらあんたも死ななかった。二人共が死ぬよりかはマシだろ?」
沈黙の後、呆れた、と時子は笑った。心からの笑いだと俺には見えた。
「私はあなたを殺すためなら、自分が死んでもいいと思った。剣士とはそういうものだと思っていたから。実はね、私は人を切ったことがなかったの」
意外でもないが、あれだけの剣が、初めて人を切る人間の技とは、想像を絶する素質である。
「閃先生は私に、人を切ったらお前の剣は変わる、とおっしゃった。その意味が今、ちょっと分かってきた。右腕をその代償にしたと思えば、何の悔いもないわ」
「立派なことだな」
それ以外に、何も言えなかった。
二人共が黙り、しかし時間もないだろうと思っていると、「選んで」と時子が促してきた。
壁に向き直り、二つの剣を見遣った。
歩み寄り、じっと見て、片方を手に取った。
「やっぱりそっちね」
時子の声を背中で聞きながら、薄明かりの中にその刀を掲げてみた。
抜いていないが、その鞘のうちにある刃の美しさが、心を震わせる。
俺を長く守った刀。俺が長く戦場を共にした刀。
俺の分身と言えるかもしれない。
俺は覇者ではなく、敗者だろう。
そういう意味でも、敗者の剣こそ、俺にはふさわしい。
向き直ろうとすると、いきなり壁が叩かれたが、音がしているのは建物の外ではなく、内側にある壁だ。
時子がすっと歩み寄り、壁にある大きな絵画の額縁に手を沿わせ、左腕だけでグッと引いた。
驚くべきことに、絵画自体が動いた、と見えた時には、壁に偽装されていた扉が開いていた。
そこから顔を出したのは、透である。これにはさすがに目を見張ってしまった。
「行こうか、瞳。時子、道案内、ご苦労」
時子がこちらを振り返り、微笑む。
「また会えたらいいわね。今度は勝敗を決する相手ではなく、剣士として会いたいわ」
「俺もその方がありがたいよ」
彼女が左の拳をこちらへ向けるので、俺は右の拳をそれにぶつけた。
透が急かすので、隠し扉の奥へ進むと、そこは真っ暗だ。かろうじて透が持っている小さな灯りが足元を部分的に照らしている。地下へ降りていく階段だった。
特に躊躇うようでもなく、透は先へ行ってしまう。階段を下りきると、右へ左へ曲がる地下通路。ちゃんと壁も石が積まれている。
どれくらいを歩いたか、今度は上りの階段になった。
一番上で扉を開けた透が、俺を手招く。
扉を抜けると小さな部屋だった。質素な造りで、どこかの屋敷らしい。ただ調度品が揃っている割に使い込まれている感じもないし、人がいたという気配は薄かった。
「ここはうちに関係のある人の屋敷で、内壁と外壁の間の街の一角だ。きみは早朝に出ることになる」
透は窓を薄く開け、灯りを消した。月明かりで問題ない明るさだ。
「新しい名前だけど」
透が椅子の一つに腰掛けて、優雅に足を組みながら言った。
「典、という名前がいいだろうと思っていたのだけどね、とある方からご意見があった」
ご意見、という言葉を口にする時、透が冗談めかしているので、相応の人物の言葉かと推測できた。
「名前は典でいいが、姓は、エヴァー、がいいと言うんだ」
「へぇ。それは誰のご意見かな」
わざと確認してやると透が顎をしゃくってどこかを示したが、どこかはわからない。
それも織り込み済みだろう。
次の言葉を口にした透を見れば、そうとわかる。
「陛下がそうおっしゃった。陛下が決められたのだ」
絶句、というほどではないが、どう答えればいいか、どう応じればいいか、すぐには見当がつかなかった。
陛下。
帝が、俺などに新しい名と姓を賜るとは、どういうことか。
「剣聖府への貢献に対する報い、ということだ」
透がまるで自分が姓を賜ったかのように、嬉しそうに言う。
「お前は今から、典・エヴァーだ。いいな?」
いいも悪いもない。
「陛下に拝謁する時があったら、その、うまく伝えてくれ。俺の身にあまる光栄と、感謝を」
わかったよ、と透は頷いた。
窓の外の光が少しずつ強くなってきた。
「どこへでも行けるっていうのは、どういう気持ちだい? 典」
新しい名前を呼ばれると、本当にどこへでも自由に行けるような気がする。
でもこの世界は有限なんだろう。
俺の体が、技が、命が有限なように。
「自分の頼りなさだけが、実感されるよ」
そう答えると、透は「そうか」としか応じなかった。
一筋の光が、部屋に差し込んできた。
(続く)
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