第231話 貫き通すしかない決意

     ◆


 バッザ公爵の執務室に入ると、彼は真剣な顔で書類を確認していた。

 私の方にチラッと顔を上げ、すぐに書類に視線を落とす。いつものことなので、用件を口にした。

「明日の朝、天帝府を発って、緑州へ向かいます」

「そうか」

 もっと何か、言葉があるかと思ったけれど、それだけらしい。

「役目を果たせるように、努力いたします」

 では失礼します、と言いかけたところで、バッザ公爵がつと顔を上げた。

「路銀はもう手元にあるな? 通行証は?」

 あります、と私は頷いた。

 路銀と言ってもそれほどの額ではなく、ちょっと計算すれば最低限だとわかる。通行証というのはほとんど身分証のことで、ただ危急の時に備えて、早馬を借りることを許されているという保証にもなる。

「護衛はいらないというが、それで構わないのか?」

 ちゃんと私の旅に関して、バッザ公爵は把握しているらしい。それもそうか、私を引き込んだのは彼だし、見込んだのもの彼だ。ここで雑に扱う理由はきっとない。

「あまり大げさになると、緑州での仕事に差し支えがあるかもしれませんので」

「まあ、顔だけは令嬢という感じではあるがな」

 こういう冗談をバッザ公爵が私に向けるのは珍しい。

 私が護衛や供を引き連れて緑州に入ったら、天帝府のお嬢さんがやってきたと思われるぞ、ということだろう。

「そうでしょうか。顔は自分では地味だと思っているのですが」

「地味な令嬢も貴族には大勢いる」

 バッザ公爵が笑みを見せ、「本当に護衛はいいんだな?」と確認した。私はもう一度、頷いた。

 今思い出したようにいくつかの打ち合わせがあり、バッザ公爵は「もう行け」と追い払うそぶりで、私を送り出した。緑州は天帝府とは離れているが、しかし、バッザ公爵領の中心地だ。公爵自身ともこれから、何度も顔をあわせるだろう。

 私は拝礼して、執務室を出た。

 バッザ公爵邸で私に当てられていた執務室はすでに次の役人が使っている。

 こうしている間にも財務司はもちろん、国の中枢は動き続けている。

 決断を下すものもいれば、調査するものもいて、計算をするものや、書類を作るものも大勢いる。

 それらが延々を動き続けるのが、国が生きているということだと、私もわかってきた。

 国を生かすことで銭をもらっていたのだ、と気付いたのは、つい最近だけれど。

 私が私自身を生かすのと比べると、国を生かすのは途方も無い労力がかかる。

 国というのは、民でもある。

 衛が別の仕事を始めているので、そこへ顔を出した。ほんの短い言葉のやり取りで別れを告げたのは、仕事の最中だからだ。

「世話になったわね。これからも頑張って」

「はい、蒼華さんも」

 それくらいだった。

 私はバッザ公爵邸を出て、すぐそばにあるバッザ公爵の別邸に移った。本屋敷である公爵邸の執務室を引き払ってから、ほんの短い期間だからとバッザ公爵が別邸に寝泊まりする場を用意してくれたのだ。

 そこも今夜で最後になる。

 別邸の中はしんとしている。バッザ公爵のそばで働く家臣の男性が言うには、別邸は客人の宿泊などに使われる以外は、ほとんど人の出入りもないという。

 しかしその別邸を整えている使用人はいる。彼らは揃って無口で、動作の全てが洗練されて、静かだ。それくらいは公爵の使用人としては普通らしかった。

 部屋に入り、卓の上に広げられている地図を確認した。

 一枚は国の地図で、広い範囲が描かれている。北の山脈、東の海、西の砂漠地帯、南の密林。

 もう一枚は西方の地図で、端に天帝府があり、緑州はおおよそ真ん中だ。その地図の半分は砂漠地帯で、しかしそこにも街道を示す線が引かれ、町を示す印もある。

 緑州は砂漠地帯とは少し離れているが、西の物産が集まる場所であると聞いていた。

 砂漠の民はこの国の民とは少し違う感覚を持っているともいう。定住しないことが理由らしい。しかし税を納めないわけではなく、商売をしないわけでもない。

 砂漠のさらに西にはまた緑地が広がっていると言っても、今のところのこの国の勢力圏ではない。そこではそこで、また別に住んでいるものがいるということだった。

 私が砂漠を見ることがあるとは、夢にも思わなかったけど、もしかしたら夢じゃなく、現実にこの目で砂漠を見るかもしれない。

 どこまでも砂に覆われていて、しかも起伏があるという。激しい日差しが照りつけて昼間は灼熱が襲ってくるのに、夜になると一気に冷え込んで凍えるらしい。

 どういう場所なんだろう?

 しばらく私は地図を見ていた。

 この日の夜は特に来客もなく、一人で静かに食事をし、早くに眠りについた。

 翌朝もいつも通りの朝だった。しかし季節がすでに冬になりつつあり、冷え込んでいる。もう少し天帝府で過ごすことになっていたら、炭を用意してもらう必要があっただろう。

 旅の間の服装のことを考えながら、食堂で質素な食事を口にして、部屋で支度を整えた。

 最小限の荷物を背負って玄関へ出ると馬が引き出されていた。使用人が「バッザ公爵からの贈り物です」と告げて頭を下げる。

 よくお礼を言っておいてほしい、と頼んで、すでに鞍も載せられている馬にまたがった。

「道中、ご無事で」

 そんな使用人の言葉を背に、私は馬を並足で進ませた。

 内壁の門扉はすでに解放されている。一度、下馬して抜け、天帝府を離れがたい思いのままに、馬を曳いて歩いた。

 天帝府に戻ってくることがあるかないかは、全く想像できない。

 緑州で仕事を覚えて、認められれば、バッザ公爵は私を天帝府に呼び戻すかもしれない。

 でもそれはずっと先のことになりそうだった。

 私はもうこの街を見ることはないかもしれない。

 あっという間に大通りを抜けてしまい、外壁の巨大な門が目の前だった。

 何か衝動がこみ上げて、私は馬に飛び乗った。

 そのままぐっと、昔の癖で足で馬を挟むようにすると、馬が徐々に足を速めていく。

 門を抜けた。そこにもまだ街はある。でもこれ以上、のんびりしていると決意が鈍りそうだった。

 財務司で働いてもよかった。それを辞めて、孤児院の経営に専念してもよかった。

 でも私は緑州を選んだ。

 それを今は、貫き通すしかない。

 街は背後に流れていく。やがて家はなくなり、平原になった。大河に流れ込む前の細い川を何本も橋で渡り、超えた。

 少しずつ畑が増えてくる。すでに米の刈り取りは終わってる。農夫たちが次の春に向けて、手入れを行ってるのが見えた。

 私は馬を走らせた。

 さらば、天帝府。

 予定していた宿場の一つに入ったのは、まだ夕方とも言えない時間だった。

 宿に入り、馬の世話を自分でした。宿のものがやりたがっていたけれど、時間もあるし、と自分でやったが、宿のものからすれば、馬の世話をすることで心付けをもらいたかったのかもしれない。

 そんなことにも気づかない自分を内心で叱る私がいる。

 食事は質素なもので、部屋も簡素だ。

 しかしこれでいい。

 元からこういう場所の方が、似合っているんだから。

 風呂があるから入るかと聞かれ、礼を言って汗を流した。

 部屋に戻り、しばらく窓の外を見ていた。

 天帝府の方向でも遠すぎる、何も見えはしない。闇に沈んでいて、少しの痕跡も見つからなかった。

 でも今も、あの街は夜も眠らず、動き続けているだろう。

 唐突に人の笑い声が聞こえ、驚いた。天帝府からの声か、と思ったが、そんなわけがない。別の部屋の宿泊客の声だった。

 私は苦笑いして、窓を閉じた。

 空気の動きで、灯りが揺らめいた。



(続く)

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