第230話 生まれ直す

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 無言で礼真は頭を下げた。

「俺を狙ったのは、あんただったか」

 そう声をかけるが、返事はない。代わりに、透が口を開いた。

「彼女は元はサハサ家の人間だが、今は家を出ている。きみを襲ったときはもちろん、サハサ家とは縁が切れていた。銭と引き換えに人を消す、というあまり褒められない仕事で生計を立てているのさ」

「それで、カプリカニアに雇われていたのか」

 俺が先を読んで言葉にすると、礼真はわずかに頭を下げ、透は口笛を吹いた。

「カプリカニアは俺が死ねば剣聖府が不安定になると考えた。実際、あの時に俺が死んでいたら、剣聖府は縮小計画などというぬるいことにはならず、強引に、即座に、軍学校に性質を変えただろう」

「そこまで上手くはいかないさ。ただ剣聖の称号に相応しいものはいなくなり、剣聖府とは何か、という問いかけに対する答えを、体現する存在はいなくなった」

 思わずため息を吐いていた。ため息を吐くしかない。

「で、そのカプリカニアが俺を消そうとしたことを知っているものを、透殿、あなたは手元に引き込んだわけだ。どれだけの銭を払った?」

「銭のことは聞かないで欲しいな。彼女は有能だし、今回の一件では、どれだけ銭を払ってでもこちらに引き寄せないと、ややこしいことになる」

 ややこしさが増している気がするが、もしかしたらややこしいものを更にややこしくした時に、すんなりと見えるようになるものもあるかもしれない。

 理屈では、だが。

 礼真は何も言おうとしない。落胆しているようでもないし、胸を張っているようでもない。

 彼女にとっては銭が全てなのだろう。

「霧矢はどうしている?」

 言葉を向けると、やっと礼真が口を開いた。

「修練を積んでおります。目的がはっきりしていますから、非常に熱心です」

 生きてはいるのだ。それで良しとしておこう。

「とにかくだ」透が真面目な顔で言う。「天帝府にいると瞳、きみの命はいくつあっても足りない。公的な立場は曖昧でも、剣聖が空位になれば、きみが剣聖ではないとしても実質的に第一の使い手であるのに変わりはない。しかし今、剣聖府にいるものをまとめるのも外部と折衝するのも、並大抵ではない難事になった。きみには出来ないよね?」

 出来ないに決まってるが、わざとらしい意思表示だ。俺はそれに乗る気になった。

「俺は今まで、放蕩していたようなものだしな。なるほど、複雑な仕事は引き受けられそうもない」

 ここまで話せば、筋は見えてきた。

 だいぶ前に同じ話をしたこともある。

「透は、俺に新しい身分で天帝府を脱出しろ、というのだな?」

「そうだよ。それ以外にない。剣聖府は仕方なくという形で僕の家で面倒を見ておく。時子には剣は触れなくても、きみの代わりをやる意欲が十分にあるし、その役目も十年も過ぎれば、何も無くなるだろう。すべては落ち着くところへ落ち着く」

 結局は、こうなるんだよな。

 最後には死んだふりをして、市井に紛れ込む。

「今度はちゃんと天帝府を出ていくように」

 そう念を押されて、俺は誤魔化すつもりで苦笑いを返しておいた。

 絶対にだぞ、とさらに確認されてしまい、わかっている、と真剣な顔で答えておいた。

 本当に真剣だ。冗談抜きで。

 その後の話は俺が動けるまでに何日が必要か、ということになり、俺の感覚ではあと三日で最低限の動きはできる、と見ていた。透は五日は我慢できるが、と言ってくれたが、俺は三日後と決めた。

 透は俺の手をとって「きみのことは覚えておくよ」と言ってくれた。何かあれば力になる、と言うことだと思う。その背後の礼真は無表情、無感情にこちらを見ていただけだ。

 二人が去っていき、すぐに医者が来た。左肩の傷口を見て、布を巻き替えた。粥を持ってこさせます、と去っていく背中には、どこかピリピリとしたものがあった。

 病人をいきなり三日後に放り出すのは、医者としての倫理観が許さないのだろう。医者は怪我や病を治すのが仕事で、それを途中で放り出すものはほとんどいない。やめろ、と言われて従うものも珍しいだろう。

 それでもこの医者も、俺の立場を考え、自分の主義を曲げたのだ。

 粥が運ばれてきて、それには薬包が添えられていた。食後に飲むようにと言われたが、毒かもしれないと思うと、だいぶ勇気が必要だ。ついさっき、生粋の暗殺者らしい礼真と再会したので、どうしても用心したくなる。

 何もかもを疑ってはいけないと言い聞かせて、俺は白湯で薬包の中の赤黒い粉末を一息に飲みくだした。

 横になり、少しすると目が回るような感覚があり、どこか深酒をした時の酩酊に似ているが、不快感はほとんどない。自然とまぶたが重くなり、眠っていた。

 自分が何を見ているのか、よくわからなかった。

 剣の筋が無数に目の前を横切り、一つ一つが俺に致命傷を与えていく。

 必死にそれを防ごうとするが、受けても、避けても、次の一撃は俺の命を奪っていく。

 長い時間、気が狂ったように俺は剣の筋に対処し続け、息が苦しくなり、頭の中が膨張したように硬直し、それでも繰り返される刃の嵐から、必死に逃れようとした。

 唐突に光が差した。

 目を開くと、眩しい光が室内を照らしている。剣聖府の若者が窓を開けているところだった。

 体に力が戻っている。どこか頼りないが、起き上がれるということは直感的に理解した。

 力を込めて、右腕で体を支える。上体を起こすことができた。

 若い者がこちらに気づき、「おはようございます」と気を飲まれたような口調で言う。

「俺は、どれくらい寝ていた?」

「昨日の昼から、ずっとです」

 そんなこともわからないのか、と不安がる口調に、思わず笑ってしまった。彼の話し方より、俺自身が可笑しかったこともある。時間の感覚がなくなるほど、深く眠っていたのだ。薬のせいだろう。そのお陰で、こうして少しマシになった。

「食事が欲しい。あとは水だ」

 わかりました、と若い者は足早に部屋を出て行った。

 一人になり、立ち上がれるかな、と思ってゆっくりと寝台から足を床に降ろした。

 板張りの床は素足には冷たく感じられた。もうそういう時期なのだ。

 寝台に腰掛けたまま、しばらく窓の外を見ていた。剣聖府の庭は最低限の手入れしかされていないが、常に何かしらの花が咲いている。何代か前の剣聖が、そういう庭を作って、今も維持されていると聞いていた。

 何の花が咲いているのか、すぐには思い出せず、見てみたくなった。

 足に力を込めて、腰が寝台を離れる。

 まっすぐに立つことができた。一歩、踏み出す。足に思ったよりも力が入る。倒れることはない。足を送れないこともない。

 気づくと窓際に立ち、外を眺めている自分がいた。

 寒々しい風の中で、真っ赤な花が咲き誇っている。

 花の名前なんて、今まで気にしたこともなかった。

 剣だけが俺の人生だったのだ。

 俺はもう一度、生まれ直すことになる。

 今度は剣士ではない俺に、なれるのだろうか。

 背後で扉が開く音がして、振り返ると医者の助手が盆の上に器を乗せて入ってくるところだ。

 驚いている彼女に、俺は笑みを見せ、窓際をゆっくり、慎重に離れた。



(続く)

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